万屋付喪堂

夢十六夜

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万屋付喪堂

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 妹が死んだ。交通事故だったらしい。
 僕がそれを知らされたのは大学の食堂だった。午前の講義が終了し、遅めの昼食を摂っていたところに、母からの知らせが届いたのだ。
 即死だったと言っていた。
 所属するバスケ部の試合で県の文化体育館に行っていた妹は昼食を買いに近くのコンビニに行ったそうだ。その途中、横断歩道を渡ろうとしていた妹に、居眠り運転をしていた宅急便のトラックが突っ込んできた。トラックはそのままガードレールに衝突して横転炎上。運転手自身も命を落としてしまったらしい。
 理不尽に妹を奪われた事実と、その責任を負うべき相手が既にどこにもいないという現実は僕の中に哀しみよりも、大きな虚しさとなって居座り続けた。
 妹の死から一週間。あまりにも大きな喪失感と膨大な事後処理に翻弄される両親を見ていられず、僕は一人で妹の部屋を整理していた。
 母は妹の部屋を整理してしまうことに反対だった。せめてしばらくはそのままにしておいて欲しいと泣いていたが、今片づけなければもう二度と片付けられないと僕は思ったのだ。
 妹のお気に入りの服、お気に入りの本、お気に入りのCD、お気に入りの絵。
 それら一つひとつに込められた妹とのエピソードを思い出しながらの作業は、まるで残酷な罰のように、いつまでもいつまでも続くかに思えた。
 妹の聡美さとみは僕にとって自慢の妹だった。
 三つ離れた聡美は兄の欲目以上に出来が良かった。勉強では学年で十位から落ちたことはなく。中学から始めた部活のバスケでもポイントガードとして活躍し、行きたい高校があるからと断ったものの高校進学の時には強豪校からのスカウトがあったほどだ。
 それを断り、僕と同じ私立高校に入学したのはどうやら僕の影響だったようだ。
 聡美が中学生の頃、僕は自分の高校生活の話をよく話して聞かせていた。どんな先生がいて、どんな授業を受けて、どんな部活をしているのか。そんな雑多な日常の話題を聡美は日々僕にせがんでは目を輝かせて聴いていた。
 兄妹仲は相当に良かったと思う。休日には、聡美の買い物に付き合ったり、僕の見たい映画に付き合わせたりしていた。何か悩みがある時も、聡美は両親より僕に相談することが多かった。
 周囲の友人は僕のことをシスコンと言い、聡美をブラコンと言ったが、僕にとって聡美を、かけがえのない妹を好きだという事実を恥ずかしいとは思わなかった。一切の誇張も、嘘も偽りもなく、聡美は僕の宝物だった。
 長くつややかな黒髪。ミルクをたっぷり入れた紅茶色の日に焼けた健康的な肌。一重で切れ長の目。光の反射具合では赤っぽく見えるトビ色の瞳。ひそかに悩んでいたらしい低めの鼻。拗ねるとすぐに尖らせていた口。
 そのどれもが愛おしく蘇り、僕の脳内を満たしては、悲しみに溶けた感情が瞳から溢れた。
 気付けば僕は泣いていた。泣きながらひたすらに聡美の部屋に座り込み、持ち主のいなくなった残骸達に囲まれて、誰かに赦しを請うように滂沱ぼうだの雫を流し続けた。
 その時計を見つけたのは、机の引き出しを開けた時だった。
 中学一年生の頃から使い続けている少し小さい勉強机。その一番上の引き出しに大切そうにしまわれていた。
 その時計には見覚えがあった。昔、まだ妹が四つか五つだった頃だろう。祖父が亡くなり、その形見として聡美が貰ったものだ。正確には、初めは僕が貰ったのだが、聡美が気に入って離さなくなってしまったので、僕は革の名刺入れに変えてもらったのだ。
 細い鎖のついた真鍮製の古い懐中時計。白い文字盤に黒でローマ数字が描かれた装飾もないシンプルなその時計を、聡美は今でも大切にしていたようだ。
 しかし、祖父の代から数えて既に数十年、下手をすれば百年以上使われ続けた時計は壊れてしまったのか、竜頭を巻いても動くことはなかった。
 僕は時計をポケットにしまうと、片付けた品々が入った段ボールを持って聡美の部屋を後にした。
 翌日、どうしても外せない用事があった僕は、一週間振りに大学に顔を出した。聡美の事故を知っている友人達は一様に気遣いながらも腫れ物に触るような対応で、感謝と等量の煩わしさを僕の心に残した。
 ただ一人。書類を提出しに所属している研究室に行った時、周囲から変人扱いされている久瀬だけが、いつもと全く変わらない対応だった。久瀬はぶっきらぼうな偏執狂で、毎日判で押したように同じ行動をする。人間関係にも不変の距離感を持った久瀬流のコミュニケーションが今だけはどこか心地良かった。
 大学を出て駅に向かう途中で、僕の目に見慣れない看板が滑り込んできた。

『古い物、壊れ物、どんな物でも治します。
                    万屋付喪堂』

 この道を通って二年になるが、今まで全然気が付かなかった。そもそも物なら「直す」だろう。漢字が間違っている。
 その時、まるで自らその存在を主張するかのように、ポケットの中の懐中時計がその鎖を、ジャラッ、と鳴らした。
 僕は時計を取り出して見つめる。何となく時計が、早く直してくれと僕に頼んでいる気がして、僕は看板の横にある重い樫の扉を引き開けた。
 店内は外観から思ったよりも広かった。壁の全面は作り付けの棚になっていて、様々な物が置かれている。ガラスの器や分厚い革の本など、パッと見て用途の判る物もあれば、何に使うのか想像もつかない物も少なくない。窓はなく、天井の小さなシャンデリアとランプに照らされた店内は薄暗く、正面のカウンターと中央にあるアンティークのソファーセットを妖しく浮かび上がらせている。
「いらっしゃいませ」
 店内に入って来た僕に対してカウンターに立つ女性が腰を折って挨拶をする。
 日本人ではない。白に近いプラチナの長い髪はすっきりとしたストレートで前髪が眉のラインで切り揃えられている。新雪の如く白い肌に、深い海を思わせる紺碧の瞳が色彩を添えている。鼻が高く、唇の薄い中性的な顔立ち。ほっそりとした身体を包む暗緑色のブラウスが謎めいた印象を深くさせる。
「私は、店主のライラと申します。お探し物ですか? 修理のご依頼ですか?」
 発せられたその声は流暢な日本語で僕を驚かせた。
「あ、あの……修理を、お願いします」
 僕はカウンターに歩み寄ると、左手の懐中時計をライラの前に置く。
「まぁ……、可愛らしい子」
 時計を受け取ったライラがミステリアスな顔をほころばせて声を漏らす。
 子……?
 時計に対して使うにはずいぶん不適当な表現だ。
「長い間大切にされていたのですね。この子も喜んでいます。きっとまだ働きたいと思っているに違いないわ」
 時計を見つめるライラの瞳は傍らに置いてあるランプの光を反射してサファイアのように煌めく。まるで、時計が刻んできた年月そのものを見透かしているような奥深い輝き。
「直せますか?」
 ライラは時計を細かく眺めて微笑む。
「ええ、治せますわ。それほど時間はかからないと思いますが、どうしますか? お待ちになられますか?」
「はい、お邪魔でなければ、待たせてもらいます」
 どうせこの後の予定も無いし、店内の様々な商品にも興味があった。
 ライラはカウンターの奥の扉に入ると、しばらくしてティーセットを持って戻ってきた。
「お口に合うか分かりませんが、どうぞ」
 そう言って、ソファーセットの机にカップやポット、菓子などを並べていく。
 店の端で曰くありげな油絵を見ていた僕はそれを機にソファーに移った。
 ライラはカウンターに戻ると、時計を手に取って作業を始める。
 お茶は不思議と心から落ち着く味がした。ミントの清涼感とジャスミンの芳香、中国茶の苦みが加わった複雑な味と香りは、初めて飲むはずなのにどこか懐かしく感じ、聡美の死から積もり積もった心労をするすると解いていってくれるようだった。
 目を閉じて心身を満たす温かな安息感に身を委ねていると、急に抗い難い眠気を感じた。ここ数日まともに眠れていなかった心と身体が包み込む温もりに緩んだのだろう。
 そこまで考えたところで、僕の意識は深い眠りに落ちていった。

「お客様……、お客様……」
 控えめな声と共に身体を揺すられて目を開けた僕の前には、ライラの端正な顔があった。
「あっ……、す、すみません。つい眠り込んでしまって……」
 僕が慌てて頭を下げると、ライラは笑って首を振る。
「いいえ、構いませんわ。お客様がお疲れの様子でしたので、安眠効果のあるお茶をお出ししたのです。眠れたようで良かったですわ」
 ライラの言葉に耳を傾けながら、僕は頭の中を水で洗い流したような爽快感を味わっていた。こんなにすっきりとした目覚めはここ何年も経験がない。
 身体を起こした僕は、机の上に置いてある懐中時計に気が付いた。
「あ、これ……」
 ええ、先程修理が終わりました。これで、この子もまだ働けるはずです。ただ……」
「ただ?」
「この子がどうしてもお客様にお伝えしたいことがあると言うのですが、聴いていただけますか?」
「え……?」
 咄嗟に、ライラの言葉の意味が解らなかった。
 修理を依頼した時からそうだったが、ライラは時計をまるで人のように扱う。しかし、その様子は幼い子供がするような不安定な児戯ではなく、そこに存在する確かな理を感じさせた。
「伝えたいこと、ですか……」
「聴いていただけますか?」
「……ええ、構いませんが……」
 僕は戸惑いながらも頷く。祖父の形見であり、今では聡美の形見でもあるこの懐中時計は僕にとって大切な一品である。ライラの言いたいことはよく判らないが、時計について何かあるのなら聞いておきたかった。
「ありがとうございます。では……」
 ライラは時計を取り上げると、向かいのソファーに置き、その表面を優しく撫でる。
「さぁ、起きなさい」
 ライラが呟くと、信じられないことが起こった。
 ソファーにの上の時計が、ふわりと浮き上がると、その空間からジワリと影が滲み出て広がる。影は曖昧な人型を作って揺れてみせると、徐々にその形を明瞭なものにしていく。
 影が凝縮し、その首に時計が下がると、僕の前には一人の少女が座っていた。
 歳の頃は、十五、六歳。肩の辺りが膨らんだ古めかしい白のブラウスに黒いリボンをして、黒のロングスカートに身を包んでいる。おかっぱに切り揃えられた髪は濃い墨色で、ランプの光を冷ややかに吸収する。その肌は白磁を思わせ透き通ったその趣に深い夜空のような双眸そうぼうが陰影を添えている。その白と黒の対比は時計の文字盤の白と針や数字の黒と同じだと気付いた。
 古い日本人形に洋装を施したらこうなるのではないかと思われるような清冽な美貌を備えた少女だった。
 少女はゆっくりと二度まばたきをしてから、僕に向かって深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります。わたくし、時逆ときさかと申します。この度はどうしてもまなぶ様にお伝えしなければならないことがありました故、ライラ様に無理を言って、このような場を設けていただきました」
「な、な……えっ?」
 僕は時逆と名乗った少女を前にして、呆けたように口をパクパクと不様に開け閉めすることしかできなかった。説明を求めてライラと時逆の間で視線を行ったり来たりさせていると、ライラは少し困ったような顔をした。
「お客様が驚くのも無理はありませんね。この子は、お客様のお持ちになった時計の付喪神です。物が長い年月を経て、自我を持った存在と言えばご理解いただけるでしょうか?」
 付喪神?
 漫画や小説では目にしたことがあるが、にわかに信じることはできない。だが、実際に何もない空間から現れた時逆と、その時逆が名乗ってもいない僕の名前を知っていることを論理的に説明する術はなかった。それに時逆の眼差しにはどこか落ち着く感触がある。
 僕はこの子を知っている。
 心の深い所で確信した既視感に、ライラや時逆への警戒心は打ち払われた。
 僕は姿勢を正すと、時逆の視線を正面から受け止める。
「正直、まだ上手く理解できないけど、君が……その、時計なの……? じいさんや妹の……?」
「はい。秋房あきふさ様や聡美様には、とても大切にしていただき感謝の言葉もございません」
 時逆は祖父や聡美の名前も自然に口にする。
「学様におかれましては、突然にわたくしのような人外の話を聞いて下さり、誠にありがとうございます。わたくし、どうしても学様にお頼みしたいことがあるのです」
「僕に……頼み」
「はい。……どうか、学様に聡美様を救っていただきたいのです」
 予想だにしなかった時逆の言葉に、僕の気持ちは否応無く沈み込む。
「どういうこと……? だって、聡美は……もう……」
「聡美様が先日お亡くなりになられたことは存じております。不躾な話だということは、百も承知しておりますが、どうか信じてください。学様だけが聡美様を救えるのです」
 俯きかけた僕を引き留めるように時逆は首を振りながら訴えてくる。
 時逆のその必死な様子は、僕の戸惑いをとりあえず打ち払うのに十分な力を持っていた。
「説明……してくれるかい?」
 時逆は首から時計を外して蓋を開けると、机の上にそっと置く。
 聞こえてきた歯車の音に、時計が無事に直ったことを知って安堵を覚える。だが、その文字盤を覗き込んだ僕は思わず声を漏らした。
「えっ……?」
 針が逆に回転している。
「これより、わたくしの力で学様を聡美様の事故が起こる日に戻します。
あの日に戻り、なんとか聡美様を救ってくださいませんか?」
 時逆は静かな口調で厳かに僕への頼みを口にした。
 その瞳は、ランプの光を反射して、夜空色の中にきらめく星々を浮かべていた。その光はまるで希望を探しているかのように淡く揺らめいていた。
「僕を事故の日に戻すって……、そんなことができるの?」
 時逆は静かに首肯する。
「はい。わたくし達時計族には、時を司る力が備わっています。本来、それは時の流れを見定めること、過去、現在、未来を見通して人の時を正しく導く為のもので、時間に干渉することはございません。ですが、わたくしは十五年と百二八日前に祖父秋房様を失い、そして八日前に聡美様を失いました。わたくし達器物にとって所有者を失うことは、自らが壊れ、動かなくなることよりも辛く寂しいことなのです」
 時逆の瞳が揺れて黒の虹彩が滲む。
「わたくし自身は時の制約に縛られる定め故、時をさかのぼることができません。ですから、学様に聡美様を救っていただきたいのです」
 そう言って深々と頭を下げる時逆を前に、僕は咄嗟に言葉を返すことができなかった。
 聡美を救えるのならもちろん救いたい。生きてもう一度会えるのならどんな代償だって払う。僕が言葉を返せなかったのは、時逆の話が信じられなかったからではない。突拍子もない話に面食らってはいたが、時逆の言葉には嘘を吐いている者が見せる暗い影はなく、ただひたすらに希う真摯さだけがあった。
 その真摯しんしさに、聡美をそこまで想ってくれる存在があることに、胸を突かれて声が出せなかったのだ。
 僕は時逆が顔を上げるのを待つと、その夜空のように深く光る瞳を見つめ返して口を開いた。
「こちらこそお願いするよ。是非、聡美を救うのに力を貸してくれ」
「あ……ありがとうございますっ。学様なら必ずそう言っていただけると信じておりました」
 時逆が再び頭を下げると、傍で見守っていたライラがその肩に手を掛ける。
「良かったわね。素敵な方に使ってもらえて時逆は幸せね」
 時逆は頭を上げると、ライラに頷き返して、左手でそっと瞳に溜まった雫を拭った。
「それでは学様、これより行う時間遡行についてご説明させていただきます。頼みを引き受けて頂いた後に告げるのは非常に心苦しいのですが、聡美様を救うことはそう簡単ではございません」
「簡単じゃない? 時間を戻れるんだから、あの日の聡美のところに行って事故から守ればそれでいいんじゃないの?」
 実際、当日の聡美の行動を少し変えるだけで事故からは救えるはずだ。渡る横断歩道を一本変えるだけでいいし、昼食を買いに行く場所を変えてもいい。
 どちらもそれほど難しいとは思えないのだが……。
「この世に存在する万物には一つの共通した性質がございます。それは、あるべき姿に戻ろうとする性質です。微視的視点では原子や分子、巨視的視点では宇宙そのものも同じ性質を持っています。そして、それは時間という目に見えないモノとて同じなのです。一度起きてしまった出来事を変えようとしますと、時の修正力とでもいうべき力がそれを邪魔するでしょう」
 時逆の説明に大学の授業で習った分子結合の理論や宇宙の膨張伸縮の話を思い出す。
「邪魔っていうのは、具体的にはどういう邪魔が入るの?」
「そうですね……。例えば、聡美様の元へ向かおう学様が通ろうとする道が予定外の通行止めになっていたり、赤信号に連続で引っかかるといったような微細な影響の連続とお考えになってください。いきなり何処かへ移動させられるような超自然的な事態は基本的には起こりません。それでは、その力自体が時の流れを阻害しかねませんから……」
「そうか……、でもそれなら何か起こるたびに試行錯誤を繰り返せば成功率は上がっていく訳だし問題ないんじゃ?」
 僕の質問に時逆は関しそうに首を振る。
「それが、そうもいかないのです……。時の修正力は徐々に時間遡行それ自体にも及んでいきます。なので、時間遡行を行うごとにその有効時間は短くなるとお考えください。恐らく試みる限度は三回。一回目ンお有効時間は二時間、二回目が一時間、三回目では三十分ほどになってしまうでしょう」
「なっ……」
 厳しすぎる制限時間と試行回数に僕は言葉を失う。一回目や二回目はまだしも、三回目の三十分ではほとんど何もできそうにない。
「ですから、できる限り時間を無駄にせず、効率よく行動していただくことが十全です」
 厳しい……。
 条件は厳しいが、それでもこんなチャンスは本来なかったチャンスなのだ。この制限の中で何としても聡美を救うしかない。
「分かった……。他に何か注意することはあるかい?」
「最後になりますが、戻った先で学様ご自身に出会ってしまうことだけはお避けください。全く同一の存在が二人居るという矛盾を解消する為に、強制的にこの場に戻されるだけならまだしも、学様同士の存在が共振現象を起こし、どちらも時空から消えてしまうという事態も考えられます」
「わ、分かった……」
 最後に告げられた巨大なリスクに鳥肌が立つが、よく考えてみればあの日の僕は朝からずっとと大学に居たはずなので出会う心配はない。
「よし……、これで説明が終わりなら早速やってくれ……」
 僕が姿勢を正して頷くと、時逆はソファーから立ち上がり、僕の前に立つ。机から懐中時計を取り上げて、僕の首にかけた。
「それでは学様、いってらっしゃいませ。どうか聡美様をよろしくお願いします」
 時逆が頭を下げて目を閉じると、僕の両肩に手を置いて額と額お触れさせる。
 美麗な時逆の顔が間地にあることに場違いながらも、ドキドキする僕の耳に回り続ける歯車と針の音が響く徐々
に大きくなっていく音に耳を傾けていると、急に強い眩暈めまいを感じた僕は目を固く閉じた。

 激しい眩暈と共に暗くなった視界が唐突に開けると、そこは変わらず付喪堂のソファーの上だった。しかし、目の前に居たはずの時逆が居なくなっている。
「あら……、いらっしゃいませ」
 声が聞こえてカウンターに目を向けると、ライラが少し驚いた様子で座っている。
「あ、あの……、時計の時逆は……?」
「……ああ、そういうことでしたか」
 僕が慌てて訊くと、ライラは得心がいったという風に鷹揚おうように頷いた。
「お客様は時計族の子からここへ送られたのですね。お客様にとって今が未来なのか過去なのかは判りませんが、移った先にその子はいませんわ。持っていた時計もなくなっているはずです」
 言われて首を見ると、下げられていた時計がなくなっている。
 僕はポケットから携帯電話を取り出す。画面に表示された日時は、六月七日の午前十時十三分。聡美の事故があった日だ。一回目の制限時間は二時間だから、あと二時間きっかりで事故が起きてしまう。
「すみませんっ。色々ありがとうございましたっ」
 僕は携帯電話をしまうと、急いで店を飛び出す、後ろからライラの「またお越しください」という声が聞こえた。
 大通りまで走り、タクシーを捕まるべく車の流れに目を走らせる。聡美の居る文化体育館までは車を使えば十五分ほどで着く。
 昼前とあって大通りの交通量はかなり多いのだが、こんな時に限ってタクシーが全く見当たらない。
「くそっ……、なんでいないんだよ!」
 思わず毒づいてから、ふと時逆の言葉を思い出した。
 ――時の修正力。
 きっと、その修正力とやらが働いて僕を聡美のところへ近づけないようにしているのだ。それならここでいくら待っていてもタクシーなんて一台も通らない。
 どうする……どうする……どうする…………。
 僕は必死に頭を回し取りうる方策を考える。移動手段を考えるなら、他にはバスや電車、徒歩ということになるだろうか。大学へ行けば別の手段もないことはないが、リスクが高すぎるだろう。
 しかし、バスや電車ではタクシーと同じ目に合うことが目に見えている。今は一番制限時間の長い一回目だ。その有利を活かして行動するなら、多少時間がかかっても確実な徒歩を選ぶべきかもしれない。
 僕は携帯電話の地図を起動して道を確認すると歩き出す。
 途端、急に後ろから腕を掴まれた。
 取り落とした携帯電話が道路に転がり硬い音を鳴らす。
「ちょっと、学。こんなところで何してるの?」
 振り向いた僕の前に立っていたのは、恋人の明美だった。明美は落ちた携帯電話を拾うと、僕の顔をキツイ印象のあるこげ茶色の瞳で軽く睨む。
「講義があるからって私とのデートを断わったクセに、なんでこんなところでフラフラしてるのよ?」
「いや、これは……」
 咄嗟に言葉が出てこない。確かにあの日、明美とのデートを断わったがこんなところに居たとは知らなかった。
 訳を説明したくても、現実主義者の明美に時間を戻ってきたと、事故に遭う聡美を助けに行くなどと言っても信じてもらえるとは思えない。
「わ、悪いけど、今急いでるんだ。訳は後でちゃんと話すから……」
 僕が携帯電話を受け取って歩き出そうとすると、再び腕を掴まれる。
「ちょっと! 待ちなさいよっ!」
 明美が眉間に皺を寄せて、すごい剣幕で怒鳴る。
「怪しいわね……。まさか浮気なんてしてるんじゃないでしょうねぇ?」
「ち、違うよっ。そんなんじゃないって!」
「じゃあ、ちゃんとドコに行くのか説明しなさいよっ」
「いや、それは……だから……」
 僕はどうしたものかと頭を悩ませる。確かに明美は日ごろからワガママで嫉妬深い女だが今日はいつもより一段とひどい。
「ほら、早く説明しなさいよっ」
 目をギラつかせて詰め寄って来る明美を見て僕は、はっとした。
 きっと、これも時の修正力の一つなのだ。明美自身にはもちろん自覚はないだろうが、きっと僕が納得のいく説明をするまでここを動かないだろう。かと言って説明できることじゃない。
「とにかく、後で説明するからっ!」
 僕は明美の腕を強引に振り払って走り出す。
「ちょっと! 何なのよっ?」
 明美が叫んで追いかけてくる気配がするが、僕は速度を上げて振り切りにかかる。
 日ごろの運動不足と不摂生が祟ってすぐに息が切れ、喉が張り付く。
 荒い息を繰り返して走り続け、明美の姿が見えなくなったところで、やっと速度を落として息を整える。
 張り付く喉で唾を飲み込みながら、道を確認しようと右手に握りっぱなしだった携帯電話を見る。
「うわぁ……」
 さっき落とした所為だろうか、携帯電話の画面がブラックアウトしていて、タッチしても電源を入れ直してもどうにもならない。
「くそっ!」
 僕は苛立ち混じり言葉を吐き捨てて、携帯電話をポケットにしまうと、起動したときに一度見た記憶を頼りに走って行く。幸い道順はそれほど複雑じゃなかった。この大通りをまっすぐ西に向かって、○×橋交差点を北に行けば文化体育館はあるはずだ。
 目の前の信号が赤に変わったので足を止める。携帯が使えなくなってしまったので、時間も判らない。腕時計をしない主義だったことを今更のように悔やみ奥歯を噛むと、ジリジリと信号が変わるのを待つ。隣に並んだサラリーマンの時計を覗くと、時刻は既に十一時を回っていた。
 信号が青になると同時に走り出すと、すぐにまた赤信号に引っかかった。律儀に守っていたら、時間がいくらあっても足りないので、僕は左右を確認しながらも、信号をほとんど無視していくことに決めた。
 それでも○×橋交差点の信号は交通量が多く、無視する訳にもいかずに足止めされてしまった。
 その間に時間を確認すると十一時四十分。
 深呼吸を繰り返して出来る限り息を落ち着けた僕は、歩道の端に足を掛けて腰を落とし、スタートダッシュの体勢を取る。
 周囲の人が奇異の視線を向けてくるが、知ったことじゃない。信号が変わった瞬間に全力で駆け出した。
 十分も走ると、息が上がり、逆に足は上がらなくなってくる。それでも無理矢理に走り続けていると、やっと遠くに文化体育館の大きな丸い屋根が見えた。最後は気力を振り絞って残りの距離を走り切ると、遂に文化体育館に着いた。
 フラつきながら門をくぐり、正面にある時計を見上げると、時刻は十二時ジャスト。
 聡美はもう買い物に出たのだろうか?
 焦る僕の視界に聡美の高校のジャージが映った。
「聡美っ!」
 肩に手を掛けて振り向かせると、見えた顔は聡美のものじゃなかった。
「ちょっ……、な、なんですか?」
 女の子は目を見開いて怯えと警戒を滲ませるが、僕は構っていられず頭を下げながら早口に訊ねる。
「ごめん、ちょっと妹と間違えて……。君、縹山高校の子だよね? 僕、世良聡美の兄なんだけど、妹がどこに居るか分かるかな?」
 女の子は驚きが醒めない様子で目をしばたいていたが、知っている名前が出たことに安心したのか、ほんの少し表情を柔らかくさせた。
「聡美のお兄さん、ですか? あぁ、そういえばよく聡美が話してましたね。聡美ならお昼を買いに行くって外に行きましたよ」
「もう買いに行ったっ? どこにっ?」
「えっ? あ、あの……。門を出て左に少し行ったところにあるコンビニだと思います。
 女の子は僕の変に慌てた容姿に戸惑いながらも、しっかりと答えてくれた。
「ありがとうっ!」
 礼を言うのももどかしく、僕はフラつく身体に鞭打って走り出す。門を抜けて左に曲がると、そんな僕を追い越すように走り抜けていく一台のトラックがあった。
 走り続ける僕の目がやっと聡美を見つけた。携帯電話に視線を落として横断歩道を渡ろうとしている。
 トラックは速度を落とすどころか、まるで加速しているような異常な速さで横断歩道へと迫る。
「聡美ーーっ!」
 叫び、呼びかけた僕に気付いた様子もないまま、聡美はトラックに跳ね飛ばされた。

 絶望感と無力感を煮詰めたような重々しい眩暈に包まれた僕は、気が付くと付喪堂のソファーに横になっていた。
「学様……、おかえりなさいませ」
 声に目を向けると、向かいのソファーに座る時逆と目が合った。
「……っ。……くそ、……くそっ!」
 聡美を救えなかった。
 それどころか聡美が轢かれる瞬間をまともに見てしまった衝撃はなかなか僕の頭の中から離れそうにない。
「どうぞ」
 僕がソファーに項垂れていると、ライラがそっとお茶を出してくれた。
「心が落ち着きますよ。それに、チャンスはまだ残っているのでしょう? でしたら、この失敗を活かすことを考えましょう」
 机の上のカップからは柑橘系の芳香が立ち上っている。取り上げて一口飲むと、甘酸っぱさと共にライラの言葉が頭に染み込んでいく。
 そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。さっきの経験を元に次こそは聡美を救はないと……。
 僕はお茶を飲みながら先程の展開を思い返す。
 タクシーが見つからず、明美に引き留められ、赤信号に引っ掛かり続けた結果、文化体育館に着いた頃にはもう時間切れだった。
 それでも収穫はあった。道順はもう解ったし、聡美が買い物に行ったコンビニも解った。僕が文化体育館に着いた時間から逆算すれば聡美が文化体育館を出た時間もおおよそ想像がつく。
 後は、まさに時間との戦いだ。
「時逆……もう一度、頼む」
 今度こそ、今度こそ聡美を助ける。
 決意と共に時逆に頷きかけると、待ち構えるように瞳を閉じた。

 眩暈から覚めた僕はすぐに付喪堂を飛び出して大通りに向かった。
 走りながら聡美を助ける方法を考える。二回目の制限時間である一時間では走って向かうのは少し無謀かもしれない。道順は解っているし、信号を無視して力の限り走れば間に合うと思うが、またどんな邪魔が入るか判らない以上少しでも余裕を持って行きたい。
 考え続ける僕の目に、一台の自転車が歩道に止めてあるのが見えた。持ち主はすぐそばの自動販売機でジュースを買っている。
「すみませんっ! ちょっと借りますっ!」
 僕は一声かけて自電車に跨ると、全力で漕ぎ出す。後ろから持ち主の「泥棒っ!」という叫びが聞こえたが、心の中で謝り足を動かし続ける。
 これなら余裕を持って文化体育館に着けるはずだ。僕はペダルを漕ぐ足に力を込めると、立ち漕ぎで車道を疾走する。
 しかし、安心したのも束の間。後ろから僕を制止する声が聞こえた。
「そこの自転車っ、止まりなさい!」
 見ると白バイがすぐそこまで迫っている。
「そんなっ……」
 これも時の修正力なのだろうか。僕は必死にペダルを漕いだが、バイクを振り切れるはずもなく、前に回り込まれて止められてしまう。
「窃盗の現行犯で逮捕する」
 警察官が冷めた目で僕を見下ろして、言い放った。
「妹が事故に巻き込まれて死にそうなんです。早く、早く妹のところへ行かないと……」
「仮にそうだとしても、人の物を盗む言い訳にはならないよ」
 警察官は全く信じていない様子で、僕の手に手錠を掛けた。
 その後は、もう何を言っても聞き入れてもらえず、パトカーが来た時点で時間切れを迎えたのだろう。僕の意識は眩暈と共に闇に落ちていった。

「くそっ……どうすればいいんだっ!」
 再び付喪堂のソファーに戻って来た僕は頭を抱えて懊悩に悶える。
 実質、今の二回目が最後のチャンスだった。一応、三回目が残ってはいるが、制限時間が三十分では聡美のところまで辿り着けるかどうかも怪しい。
「学様……。どうか諦めないでください。必ず……必ず何か方法があるはずです」
 向かいのソファーから時逆が痛みを湛えた気遣わしげな表情で僕を見つめている。
 コトッという音が聞こえて視線を向けると、ライラがティーカップを置いていた。
「どうぞ……。飲んで落ち着いてから、もう一度考えてみましょう」
 礼を言ってカップを口に運ぶと、ミルクがたっぷりと入ったミルクティーだった。シナモンの香りが僕の中の焦りを少しずつほどいていく。
「落ち着きましたか?」
 僕の様子を見ながら柔らかに微笑むライラに感謝の念を込めてゆっくりと頷く。
「はい。取り乱してすみませんでした。ライラさんは協力してくれているのに……、迷惑をかけてしまって……」
 頭を下げると、ライラは笑顔のままで首を振る。
「いいんですよ。時逆のような子の願いを叶えるのが私の仕事ですから。その時逆が頼りにするお客様をたすけるのは当然です」
 時逆の願い。
 聡美を事故から救うこと。
 それは、僕の願いでもあるのだが、どうすればいいのだろう。残された時間はあまりに短く、その難題を解決する術が僕には思い浮かばない。
「学様。貴方様は今までの二回の時間遡行で沢山の情報を手に入れたはずです。それらの情報と元々知っている情報とを合わせれば、必ず解決策は見つかるはずです。私も共に考えますから……」
「時逆……」
 しかし、手に入れた情報はあまり多いとは言えない。事故現場への道順、事故の起こる時間、それくらいだ。そして、三回目の制限時間である三十分では、車かそれに準ずる移動手段を取らないと間に合わないこと。
 タクシーはダメだった。大通りに出ても一台も見つからなかった。自転車を盗んだ二回目は最悪だった。すぐに捕まってその時点で時間切れになってしまった。
 過去二回の挑戦を回想しつつ思案を続けるが、焦る気持ちが思考を空転させて全く考えがまとまらない。
 ちくしょう……。自分のことをクールな出来る男だなんて思ったことはないけど、ここまでプレッシャーに弱いとは思わなかった。
 脳裏に何事にも動じない久瀬の顔を浮かべながら嘆息する。
 きっとあいつならどんな状況でも眉一つ動かさずに、いつもの調子で切り抜けるのだろう。
 そこまで考えたところで僕の頭に電気が走った。ひらめいたアイデアを逃がさないように慎重に手繰り寄せて検討する。
 これなら……もしかしたら……。いや、どうなのだろう。
「時逆、一つ訊いていいかい?」
「何か思いつかれたのですか?」
 見つめる僕の瞳に何かを感じたのか、時逆は顔に期待を浮かべて訊き返す。
「ああ、だけど確実って訳じゃないんだ。……時逆、例の修正力は人に対してはどれくらい影響力があるの?」
 僕は一回目の時に明美の様子がおかしかったことも含めて説明する。
「人に対する影響力は微々たるもののはずです。例えば、多少機嫌が悪かったり、気まぐれを起こして行動を変えたり、といったものです。その人の心に根付く信念や既に決定している重要な予定を曲げるほどの影響はありません」
 やはり……。それなら、久瀬が力になってくれるかもしれない。
 あいつは必ず、毎日午前十時から午後三時までは研究室に詰めている。その正確さは、それこそ時計のようだ。久瀬が通学に使っているバイクも駐輪場に止まっているはずだ。あれを借りることができれば……。
 僕がアイデアを説明すると、時逆も頷いた。
「確かに、そのような方なら修正力の影響を受けないかもしれない。ですが、これは最後の時間遡行故の危険な賭けです。大学に行かれるということは過去の学様と遭遇する可能性が高くなるということです。くれぐれもそれだけはお気を付けください」
「ああ。でも、もうきっとこれ以外には道はないと思う。多少の無茶は承知でやってみるしかない。……じゃあ、時逆……やってくれ……」

 三度目となりだいぶ慣れた眩暈から抜けると、僕は付喪堂を飛び出して大学へ走った。
 大学は目と鼻の先で走れば二分もかからないだろうが、普段なら一瞬に感じられるそんな時間すらも、今の僕には高い粘度をもった空気の中を泳ぐようにじりじりと長く感じられた。
 大学に着くと、そのまま久瀬の居る研究室を目指す。走りながらこの日の自分の行動を思い返す今は十一時四十五分。この時間なら午前の講義が押していてまだ教室に居るはずだ。教室と研究室は離れているから、さっさとバイクを借りれば、遭遇する心配はないだろう。
 研究室に着いて中に入ると、久瀬の姿を探す。しかし、いつもなら壁際の机でパソコンを使っているはずの久瀬の姿が無い。
「久瀬っ! いないのかっ?」
 諦めきれずに呼び掛けるが、返事はない。
 くそっ、ダメだったか……。
「世良か、どうしたんだ?」
 後ろから急に声を掛けられ慌てて振り向くと、久瀬がいつもの白衣姿で立っていた。
「良かった、居たのか……。どこに居たんだよ?」
「ちょっと、トイレにな。お前こそどうした? この時間は講義のはずだろ? サボりか?」
「いや、ちょっと用事ができてな。それより、バイク貸してくれないか? いそいで行かなくちゃならないところがあるんだ」
「ふぅん、お前がそんなに慌ててるなんて珍しいな」
 久瀬は片頬を吊り上げるようにして笑うと、腰からバイクの鍵を外して寄越した。
「バイクは好きに使ってくれてかまわん」
 礼を言って鍵を受け取り走って駐輪場へと向かう。走りながら通り過ぎる教室の時計を覗くと、十一時五十分を回っていた。
 研究棟を通り抜け、渡り廊下を走り受けようとしたところで僕は急ブレーキをかけざるを得なかった。
 反対側からこちらに歩いてくる影。
 もう一人の僕だ。
 ――何故? ――どうして?
 脳裏に浮かぶ疑問符を頭を振って払い落とす。どうせこれも時の修正力に決まっている。講義が予定より早く終わって教室から出てきたのだろう。
 廊下の陰から盗み見るとどんどんこちらに近づいて来る。最悪なことに、この渡り廊下を通らないと駐輪場には行けない。
 何とかやり過ごすしかないと、様子を見ていると、明美までもが現れてもう一人の僕と廊下の途中で話し始めた。
 おいおい、勘弁してくれよ……。こうしている間にも刻一刻と制限時間は迫っているのに……。
「おい、何やってるんだ? 急いでるんじゃなかったのか?」
 振り返ると、久瀬がやってきていた。
「いや、そうなんだけど……」
 僕がどう説明したものかと悩んでいると、久瀬は廊下の先を見て目を剥く。
「おいっ、あれ……お前じゃないかっ。えっ? お前って双子だったのか?」
 頭を悩ませながら僕はデタラメを並べて久瀬の追求ともう一人の僕を同時にかわす方法を考える。
「ああ、そうなんだよ。あれは僕の双子の弟で勉っていうんだ。二人で明美にドッキリを仕掛けようとしてるんだけど、大事な小道具を家に忘れちゃってさ。急いで取りに行きたいのにあの状況なんだよ。久瀬、悪いけどあの二人を連れて食堂に行ってくれないか?」
「ははっ、何だか面白そうじゃないか。ちょうど俺も昼飯で食堂に行くところだったから付き合ってやるよ」
 ニヤリと笑って歩いていく久瀬を見送ると、二人のところで二、三言話してから一緒に食堂へと歩いていく。
 僕は三人が居なくなるのを待ってから、全速力で駐輪場へと走る。途中で見た時計は十二時ちょうどだった。
 駐輪場に辿り着きバイクに跨ると急発進させる。周りの学生が顔をしかめるが構ってなんていられない。
 久しぶりのマニュアル操作に四苦八苦しながらもギアを上げて大学をでる。路地から大通りに出る頃には、ほとんどトップスピードになっていた。
 体重移動を駆使したコーナーリングで左折する。膝が地面に触れてズボンが敗れ、その下の肌からも出血したようだが、痛みを無視して交通量の多い真昼の街道を西へ向かう。
 途端、後ろからサイレンと共に制止の声が飛んできた。
「そこのバイク、止まりなさいっ!」
 ミラーに映るのは迫って来る白バイだった。
「またかよっ!」
 思わず毒づきアクセルを開けてスピードを上げる。悪いが止まっている場合じゃない。それに自転車と違いバイクならそう簡単に追いつかれやしない。聡美を助けた後でならどんな罰だろうと甘んじて受ける。
 大通りを走る車の間をすり抜けて行くが、訓練を受けた白バイ相手じゃ分が悪く、徐々に距離を詰められていく。
「くそっ、……ええいっ!」
 僕は思い切って対向車線に飛び出すと危険を承知で走り続ける。車とすれ違うたびに鼓膜を叩く空気の音に背筋に冷たいものが走るが、震えを抑えるようにハンドルを強く握り締める。
 その時、視線の先に赤いパとランプが見えた。どうやら白バイが応援を呼んだらしい。
 パトカーが横になって道を封鎖しているのが見えた瞬間、僕は慌ててハンドルを右に切った。
 道順からは外れてしまうけど、このまま路地を抜けて文化体育館を目指すしかない。
 相変わらず追って来る白バイを後ろにつけたまま右へ左へ路地を曲がって、少し広い通りに抜けた。
 その時――。
 目の前に飛び込んできたのは自転車に乗った小さな男の子。
 急ハンドルを切って辛くも避けた先に待っていたのは電信柱。
「――――っ!」
 声を漏らす暇もなく衝突の轟音と衝撃に揺さぶられた僕は、弾き飛ばされたバイクが近くに止まっていた宅急便のトラックにぶつかるのが見えたのを最後に意識が途切れた。

「お客様……、お客様……」
 控えめな声と共に身体を揺すられて目を開けた僕の前にはライラの端正な顔があった。
 その顔が溢れた涙で滲んでいく。
「どうか……されたのですか?」
 ライラが戸惑った様子で訪ねてくるが、僕は喉が詰まり首を振ることしかできなかった。
「……っ。……時逆、ごめん。助けられなかった……。せっかく、君がチャンスをくれたのに、聡美を……助けられなかった……」
「時逆? お客様、大丈夫ですか?」
 困惑したライラの声に不審の色を感じた僕は、涙を拭って向かいのソファーに目を向ける。
 しかし、そこに居たはずの時逆の姿はなかった。
「夢を、みていらっしゃったんですね……」
 夢? 夢だったのか? 時逆のことも、過去に戻ったことも。
 見ると、机の上に懐中時計が置いてある。
「あ、これ……」
「ええ、先程修理が終わりました。これで、この子もまだ働けるはずです」
 机から時計を取り上げて蓋を開くと、歯車の音と共に針がしっかりと動いている。その動きは逆回りではなく普通の時計と同じように動いている。
 そっか……、そうだよな……。付喪神とか、時間遡行とか、夢物語もいいとこだよな。全部、聡美を諦められずに見た夢か……。
 それでも、手の中にある時計はランプの所為か人肌のように暖かくて、僕の胸に切ない針を刺した。
「……ありがとうございました」
 礼を言ってソファーから立ち上がる。
「――いたっ?」
 力を込めた右足に痛みを感じて見下ろすと、大袈裟なギプスがはめられている。
「お忘れですよ」
 ライラが松葉杖を差し出してくる。
 あれ? いつ骨折なんてしたんだ? 夢の中の事故で怪我なんてするはずないのに……。
 首を広げながら入口に向かい、扉を開けようとした時、その扉が引き開けられた。
「お兄ちゃん、おそいよ~」
 拗ねた声と共に入って来たのは――。
 死んだはずの聡美だった。
「な、なんで、聡美が……?」
「なによ~。お兄ちゃんがこの前事故って身体悪いから、この可愛い妹が付き添ってあげてるんじゃないの」
 夢、じゃなかたのか? でも、僕は聡美を助けられなかったのに……。
 混乱する僕の頭に最後の光景がフラッシュバックする。バイクで転倒した時に、宅急便のトラックにぶつかるバイクの映像。
 もしや、あのトラックが聡美を轢くはずのトラックだったのか? それが僕の事故に巻き込まれたから聡美は助かったのだろうか?
 頭に渦巻く思考も押し寄せる感情にさらわれ、聡美の顔を涙のヴェールが隠していく。
「ど、どうしたの、お兄ちゃん? いきなり黙ったと思ったら涙ぐんで……」
 いや、理屈も理由もどうでもいい。聡美が生きている。これ以上何もいらない。
「なんでもないよ、大丈夫。さぁ、帰ろう……」
 歩き出す僕の手の中で懐中時計の鎖が囁くような音を立てた。
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みんなの感想(1件)

関谷俊博
2016.08.28 関谷俊博

上手いです。主人公の目的を阻む数々の出来事。一気に読みました。大逆転のオチも良かったです。

解除

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