死ぬほど愛しているけれど、妻/夫に悟られるわけにはいかないんです

杏 みん

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117.ジョブチェンジはゲームでも現実でも勇気のいる行為

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 「朝から申し訳ありません。仁さんが出発したのを見計らって、ピンポンさせて頂きました。専業主婦の方はスーパーマーケットの開店時間に合わせて外出してしまうと聞いたので。その前に、と」

 それは人それぞれなのでは? という私見を飲み込んで。
 リビングソファーに座る斎藤さんに、紅茶をお出しする。

 「い……いえ。あの、斎藤さん今日はまたどうして……? お仕事は……?」

 「今日は半休を頂いてます。唯さんの体調が大分回復したと仁さんに伺っていて……なるべく早く、お詫びをしたかったので」

 「お詫び……?」

 斎藤さんは紅茶に手をつける事もせず、神妙な面持ちで立ち上がって……突然、土下座をした。

 「えぇ!? さい、斎藤さん!?」

 「改めまして! 政略結婚だとは露知らず! 妻としてどうの! パートナーとしてどうの! 偉そうに口を出した無礼、どうかお許しください!」

 叫ぶように言いながら、フローリングに額をこすりつける斎藤さん。
 突然の事に、私は餌を求める池の鯉のように……口をパクパクさせてしまう。

 「斉藤さん、よして下さい! この間も十分謝って貰いましたし! というか、そもそも斎藤さんが謝る必要は……」

 「いいえ! 政略結婚とは人間の尊厳を根元から奪い取る非道な契約! それを受け入れるのは筆舌に尽くしがたい苦痛! 愛してもいない相手と日々の暮らしを送るのは、まさに生き地獄……!! そんな地獄に耐えている唯さんに、私はなんてことを……」

 どうしよう。なにやら私、地獄の住民にされてしまってる。
 というか、斎藤さんの中で政略結婚てそういう感じなんだ。まぁ一般的にも良いイメージはないけれど。
 どうしてそこまで……あ……もしかして……。

 「斎藤さん、凜さんとの結婚……嫌……なんですか……?」

 未だ土下座したままの斎藤さんに寄り添い、思い切って訊ねてみる。すると、斎藤さんは勢いよく顔を上げた。

 「唯さんはやはり、人の心を読む能力が……!?」

 「ないです。でも……そこまでネガティブなイメージを持っているって事は……そうなのかな、と」

 私の言葉に一瞬固まった彼女だけれど……数秒後、ポロポロと泣き出してしまって。

 「わっ、だ、大丈夫ですか!?」

 「すいませ……わかっては、いるんです。私は不出来なアルテミスですから……結婚位は、両親の期待に応えなければと。でも……好きでもない相手と……」

 「斎藤さん……」

 どうしよう。
 こういう時、『親なんて関係ない、自分の気持ちを大切に』とか、言うべきなのかもしれないけれど。
 血統種の世界では、お家の事とか、いずれ生まれる子供の血筋の事とか……そういうのを考慮して親御さんが結婚相手を決める事も多いって習ったし。

 そんな中で自分を貫くのは、きっと簡単じゃない。

 「婚約はもう決定なんですか?」

 「今までは候補の一人に過ぎなかったんです。でも……私の知らない所で、決まったようで。凛さんのお母様は私の無能さを嫌っていらしたのに……もう訳が分からなくて」

 「じゃあまずは凜さんに、正直な気持ちを伝えてみては……」

 私の薄っぺらいアドバイスに、斎藤さんの首は左右に動いた。

 「凜さんはとても優秀で素敵な人です。私の方から拒否の意志をお伝えするなんて、畏れ多い……。それに、凜さんは昔から結婚するなら清香がいいと、推して下さっていて」

 「凜さんは斎藤さんが好きなんですね。だったら、そこまで酷い夫婦生活にはならないんじゃ……」

 「連れて歩くのに、容姿が最適だからという理由です。直接言われたので、間違いありません」

 「ええ……っ」

 ごめんなさい、凜さん。あなたの事をよく存じ上げてもいないのに、引いてしまいました。
 可愛らしく、爽やかな雰囲気のお方なのに……そんなひどい事をおっしゃるとは。

 「私はそんな理由でもないと、男性に選んでもらえないんです。仕事もプライベートも、自分なりに一生懸命取り組んでいるのに。だから……あんな素敵な仁さんに選んでもらえた唯さんが羨ましくて……つい、両親に教え込まれた理想の妻像を、押し付けてしまいました。唯さんは、私がこんなにも苦痛に感じている政略結婚に応じた、尊敬すべき先輩でしたのに……本当に申し訳ありませんでしたっ」

 泣きながら、再び頭を下げる斎藤さん。

 なんだか、ものすごく申し訳ない。
 確かに私達夫婦は恋愛結婚ではないものの。私はがっつりしっかり仁ちゃんを愛していて。
 だから今の暮らしが大好きだし、毎日幸せに感じている。

 でも、それを説明しちゃったらまたややこしい事になっちゃうよね。

 「斎藤さん、婚約解消は難しい……って前提のお話しになっちゃいますが……もし本当に凛さんが素敵な人なら、家族としての愛情や信頼関係は築けると思うんです。それがあるから、私も幸せに生活できていて。ですから」

 「唯さんは、家族愛でセック○が出来るんですか?」

 おっとーーーーーっ! そう来たか。

 「せ、え、ええと、政略結婚でも、凛さんはそういう事を求めてくる……んですかね?」

 「当然です。優良な血統を後世に残すのは血統種の……名家に嫁ぐ嫁の義務でしょう? 唯さんもまわりからのプレッシャー、相当なものじゃありませんか?」

 「あ~、そうですね~、ええっと~」

 困った……。私は政略結婚という嘘を産み落としてから、すぐにインフルになってしまったから。
 仁ちゃんと『設定』について細かな打ち合わせが出来ていない。
 
 ああ、だから嘘って苦手なんだよね。一つ嘘を隠す為に次々嘘を重ねなきゃいけなくて。

 でも仁ちゃんはあれからも、職場で毎日斎藤さんと顔を合わせていたんだし……だったら、既にあれこれ聞かれてるかも? そして、誤魔化すために適当な受け答えをしてくれてるかも? それなら、私の応えと差異があったらいけないよね。

 「じ、仁ちゃんは何か言ってました? その事について?」
 
 「いえ。唯さんがインフルエンザになってからは、プライベートの話はほぼ受け付けて下さらず。運動会も終わって通常業務に戻っているのですが、どれほど多忙でも定時には帰って看病をしたいから、と。がむしゃらに仕事をされていて」

 そうだったんだ。もう、仁ちゃん本当に優しいから……有難いやら申し訳ないやら。

 「と、いいますか……そういう事を男性に尋ねるのは流石の私も気が引けますし」

 「そ、そうですよね。やっぱり同性同士の方が話しやす」

 「で、どうなんでしょうか実際? 気分で普通の夫婦とは違って、やはり排卵日限定で業務的な雰囲気の中執り行っていらっしゃいますか?」

 どうしよう。核心からは話題がそれたかと思いきや。むしろ質問の中身が具体性を増してきた。
 
 執り行っていない身としては応えようがない。
 そもそも、政略結婚でも致しているという設定にするのか否か……仁ちゃんに確認しないと、下手に応えるのは危険だよね。
 というかそんな事を仁ちゃんに相談するのがまず、恥ずかしすぎて無理なんだけど。
 困った。う~ん……困った……。

 「あ……っ、ごめんなさい。唯さんにとっては辛いお話ですよね。蓮さんという愛する人がいながら、他の男の人と肌を重ねねばならないなんて」

 難しい顔をして俯く私を見て、何やら誤解した様子の斎藤さん。
 う~っ、違う。蓮ちゃんとはそんなんじゃないんだけど。
 でも……良い返しを思いつけない以上、『辛くて話せない』という解釈にのっかってしまおう。

 「そ……うなんですよね。お気遣いありがとうございます。あ、私が辛そうにしてたというのは、仁ちゃんにはくれぐれも内緒でお願いしますね」

 「勿論です。唯さんが懸命に守り続けてきた夫婦の仮面を、不躾に剥ぎ取るようなマネは致しません」

 真顔でそう断言してくれる斎藤さんに、ホッと一息。

 「斎藤さん、もうお詫びだとか本当に必要ありませんから……あ、良かったらお茶、飲んでください」

 細い肩にそっと手を添え、ソファに座るよう促す。

 「ありがとうございます……。あんな失礼を働いた私にこんな……唯さんは仁さんがおっしゃるように、本当にお優しい方でした。無能で不細工なくせになんの努力もしていない役立たずの専業主婦だなんてバカにして、本当に申し訳ございませんでした!」

 あれ? そこまで言われたっけ? まあこの際いいか。

 「気にしないでください。斎藤さんも、色々お辛いとは思いますが。私で良ければ、またお話し聞かせてくださいね」

 「ありがとうございます! 今後何かありましたらまず、政略結婚の先輩である唯さんにご相談させて頂きます!」


 斎藤さんは赤くなった額を気にする事もなく、お茶を一気に飲み干して……去って行った。

 『役立たずの専業主婦』から、『政略結婚の先輩』への、ジョブチェンジ。
 これは……よかった……のかなあ……?

 答えの出ない疑問に、頭を悩ませつつ。
 私は家中の加湿器を分解し、各種パーツを黙々と掃除するのだった。
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