どうあれ君の傍らに。

湖霧どどめ

文字の大きさ
上 下
1 / 12

1.四月の元林清斗。

しおりを挟む
「浅田光です、よろしくお願いします」

 高校も三年目になると、ある程度顔は見知ってくる。話した事の無い人間が大多数であれど、顔と名前が一致する人間は少なくあれど。

「仙崎要です。よろしくお願いします」

 ひとりひとり、立ち上がって挨拶をする。これが、三年生になって一番初めのホームルームの内容だった。毎年繰り返されているせいで、流れ作業のようになってきている。
 未だ肌寒い、四月の気候。ここから先、過ごしやすくなるのはほんの一瞬の期間の話だ。すぐに茹だるような夏がやってくる。四季の中で一番夏が苦手な清斗は、重い溜息を吐いた。
 すぐに番が回ってくる。前の席の男子が着席すると同時に、僕も立ち上がった。

「元林清斗です。よろしくお願いします」

 無難な挨拶。すぐに着席する。廊下から二列目、一番後ろの席。何となく緊張感の生まれない、程よい席だ。やはり一番後ろがいい。穏やかで静かで、尚且つ居眠りも見つかりにくい。
 廊下側の列も自己紹介は着々と進んだ。そして、最後の席の女子生徒も終える。そのタイミングで、チャイムが鳴った。

「おお、じゃあ今日はここまで。明日はまだ四時間授業だから、時間割は来週からになるので」

 担任は今年からこの学年の現代文を担当する事になった初老の男だった。彼が教室から出ると、生徒達はにぎわい始めた。
 自分で言うのも何だが、元々の気質が大人しいせいかそこまで友達も多くない。そしてそれが苦になるわけでもない。ただ、誰かひとりくらいは話せる存在がいないとやはり馴染める気もしなかった。すでにある程度グループが固まっているのを溜息混じりに眺めていると、机からコツコツと音がした。隣の席から、細長い指が伸びている。最後に自己紹介をした女子だった。彼女は、笑っている。

「ね、ね。私の自己紹介終わった瞬間にチャイム鳴ったじゃん。あれさー、なんかすごくない? 奇跡っぽい」

 にへら、と気の抜けたような笑顔。しかし反応に困ってしまったせいで、「そうだね」としか言えない。彼女はそんな僕を不満そうに見た。ああどこか、猫のような。そんな気ままさ。

「奇跡でしょどう考えても」
「いや、そうだねって言ったけど」
「心から思ってなさそう」

 そしてすぐに、笑顔に戻す。サイコロ出目のように表情がくるくると変わる女子だ、と思った。

「何か君アレだね、猫っぽい。いるじゃん、なかなか心開かないタイプの猫って」

 確かに言われた事はある。しかし猫に対しては、そこまでツンとしたイメージが僕の中には無かった。どちらかと言えば人懐っこい、可愛らしい……それこそ、この女子のような印象。

「決めた、あだ名にゃんこね」
「は?」
「仲良くなるにはまずあだ名を付ける事って言うじゃん。見た感じぼっちっぽいし、この私が3年A組の初めてのお友達になってあげよう」

 見破られていたか。たかだか数時間前に隣の席に座った程度で。しかし、有り難くないわけではない。ここで下手に突っ張っていても、得はきっと無い。

「……そっちは、友達居ないの」
「失礼な。たまたまあっちに皆固まってんの」

 そうか、彼女の席は完全に孤立しているといえるレベルでの端だ。そうなると、確かに話せる相手が前の席か僕くらいしかいないのだろう。少し思案して、口を開く。

「じゃあ、そっちにもあだ名つける」
「お? 思いのほか乗り気?」

 わくわくとした表情。でもどこか、目は笑っていない。どこか探られているような心地。考えすぎだろうか。

「猫さんで」
「適当過ぎない!?」

 ……これが、出会いだった。僕と猫さんの。
 始業式から一週間が経ち、本格的に高校三年生の生活が始まった気がする。それでも相変わらず猫さんと話す以外はクラスメイトと特別仲が良くなったわけではない。どちらかといえば、去年のクラスメイトに会いに教室を出る事が多い。
 猫さんは猫さんで、クラスメイト達と満遍なく仲がいいようだった。かと言って八方美人のような嫌味さもない。単に、顔が広い。
 この一週間で彼女について知ったのは、彼女は明るいという事。よく口が動くという事。笑顔が多いという事。そして、その笑顔は……いつもどこか引き攣っているというか、ただの笑顔ではないという事。最後に関しては邪推なのかもしれないけれど、どこかずっと気にかかっていた。

「じゃあこれ、教室に置いておいてくれるか」

 放課後、たまたま職員室に数学の授業の課題プリントを提出しに向かったところ担任に捕まった。ホームルーム用のプリントの山を指さされげんなりとするも、ここで断るのもわざと角を立てる気がして気が引けた。仕方ないので山を抱える。
 職員室から教室までは時間もそうかからないし、階段も要しない。アルバイトまで時間もあるし、と自分に言い聞かせながら職員室を出る。
 ……言われると断れない事はないが、断る気も起きない。そういうのも、見越されているのだろうか。
 教室に辿り着いた。そこで、気付く。さっきまで明かりがついていたのに、消灯されている。鍵を持っているのは担任なので戸締りをしたとすれば彼だが、それなら僕に遣いを頼むわけが分からない。
 そして……音がする。耳を澄ませ、扉に寄りかかるようにして立ち止まった。
 声だ。そして、何かが、揺れる音。忙しない吐息の気配。まさか、これは。その正体を察した瞬間、下腹部に熱が集まっていくのを感じた。駄目だ、これでは。急いで屈む。体育座りの要領で、腰を下ろした。
 やがて止んだ。きっと、十分程だっただろうか。吐息は大人しくなり、音も止んだ。それでも胸の奥の細かな鼓動と、下腹部の痛い程の熱は終わらない。じわりじわり、と股間を痛めつけてくる。ぎゅう、と。息苦しい熱。扉が、開いた。

「あ」

 出てきたのは、クラスメイトの男子だった。名前は……まだ一致していない。彼は気まずそうにしながら僕を一瞬だけ見下ろすと、すぐに背を向けた。気まずいのは僕の方だというのに。
 奥には、きっと居る。彼と交わったであろう、女子が。出るまで待つか、いやそれだとさすがに。そう考えていたところだった。

「にゃんこだ」
「……お疲れ」

 そうとしか言えなかった。顔は見れない。でもその声にとくに戸惑いは見えなくて、本当にただ僕を見付けただけだという感じだった。猫さんはきっと察されていることに気付いているだろう。それでもとくに、何も言わない。ただ、僕の傍に置かれたプリントの山を抱えた。

「これ、教卓でいいの?」
「あ、うん」
「閉めなよ。ああ、電気はつけて」

 言われるがままに。明るく照らされた教室にいる猫さんを改めて見ても、とくに普段と違う部分はなかった。制服も乱れていない。猫さんはいつものようにほんの少し引き攣った微笑みで、僕に向き合った。

「引いてそう」
「え」
「何かにゃんこ、こういうの駄目そうだもんね」

 何も言えない。ただ、首を振る。そんな僕を、猫さんは楽しそうに眺めた。

「ああ、やっぱり男子高校生の性欲ってやつ? ふふ、何か潔癖そうなのにね」
「こんな事、よくしてるの? その、こういう……教室とかで」

 声は震えていた。しかしそれは恐怖などではなく、単純に……好奇心。猫さんは頷いた。

「誘われればだけどね。でも学校ではあまりしないよ」
「よく誘われてそうなのに」

 猫さんは、美人だと思う。細かく化粧の施された、大きな吊り気味の丸い目。ほんのり茶色がかった長い髪。そして、大きめの柔らかそうな胸。
 喉が鳴る。正直、股間の熱は未だ収まっていない。それに気付かれている気がしてどこか冷や汗をかきそうだけれど、猫さんは相変わらず微笑んでいるままだった。

「ねえ、にゃんこ」
「なに?」

 猫さんの声が、嫌に心臓に響く。いや、響くというよりしみ込んでくるような……そんな、奇妙な感覚。それでも僕は、逃げられなかった。

「軽蔑してる? やっぱり」

 微笑んではいるけれど、どこか寂しそうで。首を振ると、猫さんは不思議そうに僕を見た。

「……じゃあ、どう思ってるの」

 言わせようとしているのか、無意識なのかは分からない。ただやはり僕からすれば、正直になるしかなくて。

「男だから、僕も」

 結局のところは、と付け足すと猫さんは再び微笑む。そのまま、手を握ってきた。その温もりは、心臓を焼くかのように熱い。思えば、こうやって女子に触れるのは初めてだ。

「どうする? 誰も、来ないと思うけど」

 よくよく考えれば僕はやっぱり浮かれていたんだろう。なかなかに印象深い初対面のあと、突如感じてしまった熱に。
 猫さんからすれば単に僕が耐えられないような、性欲タンクに見えたから抜いてやったくらいの感覚だったんだと思う。やっぱり、気付かれていたのかもしれない。ここで彼女の気遣いに乗れば、彼女の中で僕はあの男子達と同列になると……よく考えれば、分かる事だったのに。

「え、まだするの?」
「ごめん、ごめんね」

 きっと呆れられている。でも止められなかった。初めて知った女の味はあまりにも甘くて……蕩けるような、高揚感。
 もう外は暗くなりだした。それなのに何故誰も見回りに来ないのかが謎だった。僕よりも幾分余裕のある猫さんならきっと外の気配に気付いただろうから、彼女が何も言わないという事はきっと大丈夫なのだろう。
 猫さんが、三つめのコンドームの袋を開けた。やや苦笑気味に僕を……というより、僕のそれを眺めた。

「いやー、何というか。こんなにする奴久々に見た。中学の時以来かな」
「そうなの?」
「私、初めて小学生だから。相手は大学生だったけど」

 かなりとんでもない事を聞いてしまった気がしないでもないが、ひとまず流す事にする。既に二度射精したのに未だ大人しくならないそれにコンドームを被せると、猫さんは跨ってきた。

「んっ……」

 何度も擦っているというのに、柔らかい肉。押しつぶされる感覚が切なくて、そしてたまらなくて。何度もなぶり上げられたせいか、一瞬で達してしまいそうになる。熱い。ただ、熱い。
 猫さんは僕の上にしゃがみ込むようにして、入り口を根元に押し当ててくる。その度猫さんの吐息が熱く絡んできて、吸い寄せられるように何度も口付けた。ぷちゅ、ぷちゅ、と何かが柔らかく潰れるような音。それが脳に直接響いてきて、おかしくなりそうだった。
 猫さんの壁が、より熱を持っているのを感じる。コンドーム越しでも、それはあまりにも。

「あ、ごめんっ……また、イく」
「うん、いいよ」

 僕に比べてどこか余裕のある声に切なくなる。それでもせり上がってくる感覚は止められなくて、結局射精した。内部から蕩けていくような感覚に、泣きそうになる。
 猫さんはずるりとそれを引き抜いた。猫さんの体液まで、ぼとぼとと滴り落ちていく。三度の射精を迎えたせいか、精液溜めにはあまり目に見える量は入っていなかった。

「さすがにもう、終わりでしょ」

 猫さんの勝ち誇った言葉に、敢えて首を捩じってみる。正直気持ちだけで言えばあと二回くらいは出来そうな気がする。普段自慰をする際は、二度程出せば十分だというのに。猫さんは呆れたように「私がもう限界だわ」と呟く。
 ……どうしてこんな流れになったのかいまいち僕にも分からない。流されただけにしても、まさか……こんな形で、それも知り合ったばかりの女子相手に童貞を差し出す羽目になるとは。
 ふと冷静になって、猫さんを見る。彼女はいつものような笑みを浮かべ、服を着始めていた。

「ふふ、でも何か嬉しいなぁ。初めてかぁ」

 引いている様子はない。そのことにほんの少し安堵して、僕も服を着始める。互いに身なりが整ってから、立ち上がった。

「もう六時じゃん。にゃんこ用事ないの?」
「ああ、六時半からバイト」
「間に合う?」
「大丈夫、学校に一番近いコンビニだから」
「そかそか」

 とはいえ、さすがにそろそろ向かわないとまずいだろう。扉を開くと、窓の向こうは薄暗くなっていた。冬が終わり、次第に陽が長くなりつつある。
 猫さんと校門まで来た。彼女は僕と反対方向に向かうと告げると、手を振ってきた。

「バイト頑張ってね」
「うん、ありがとう」

 歩き出す彼女に僕も背を向ける。
 何もかもが淡々と、始まっていた。
 あれから僕は、更に少しずつ猫さんの事を知っていった。
 彼女の存在自体は学年でもそれなりに有名だ。美人で明朗、それだけでも確かにクラスで目は引く。そして、それ以上に彼女が有名な理由が存在していた。勿論予想通りの内容だったが。ただ二年間僕の耳に入ってこなかっただけだったらしい。

「んー、まあざっと十人くらい?」
「学年で?」
「うん。先輩や後輩とかはさ、ほら、私部活入ってないからあまり関わりないし。でも一つ上に一人いたよ。幼馴染の友達だとかで知り合った」

 四月も終わりに近付いた日の昼休み、僕は猫さんを屋上に誘った。猫さんはいつも、誘ってきた人と昼食をとるスタンスらしい。誘われない時はどこかに一人でふらりと向かうのだそうだ。
 猫さんはお茶を飲みながら首を傾げた。今日の屋上はだれもいない。僕らだけだ。

「何急に。私に興味でもあるの?」
「……無いわけ、なくない?」

 あんな事をしておいて、意識するなという方が無理だろう。あれから一週間程だが、ずっと……あの日の事を考えている。自慰のネタも、あの日の再生ばかりだ。
 猫さんは苦笑する。

「何かごめんね」
「何が」
「その、にゃんこって初めてだったわけじゃん。あれが。私でよかったのかなって」

 今更だ。あの時はどうせ猫さんも昂っていた故の気まぐれだったのだろう。それでも。

「別に、後悔はないよ」

 本音だ。そうと言わざるをえない。それを聞き、猫さんは安心したように再び弁当のおかずに箸をつけた。女子らしい、彩のある弁当だ。彼女いわく自分で作っているらしい。僕も自作だが、どうも簡単なものばかりになる。さっきその話をしたら、オススメのレシピをまた送ってくれると言っていた。
 僕は、猫さんにとって何なのだろう。……何でもないのかもしれないけれど。

「にゃんこ」

 ふと呼ばれて、猫さんを見る。猫さんは「ついてる」と言いながら、僕の唇に指を伸ばした。少しどきりとするも、大人しくその指を受け入れる。唇の端を拭われて、そのまま唇の上を指が滑った。くすぐったいような細かい感触。それは何となくだが、合図だと察した。
 顎をもたれ、口づけられる。これ普通するのは男の方なんだろうな、と思いながらも下半身の熱はごまかせない。くちゅ、くちゅ、と舌が絡まりだす。猫さんの手が、僕の股間に触れた。

「熱いね」

 ごまかせない。彼女の妖しさすら感じる笑みの前では。
 猫さんに触れるよりも早く、僕のベルトが外された。露出せた性器を、猫さんはためらいもなくくわえる。

「うあっ……」

 慌てて口を押さえる。そんな僕の様子を見ても、猫さんは止めなかった。ただ、柔らかいざらつきのある舌で亀頭を擦り続けられる。口の端からよだれが垂れそうなのを、必死でこらえた。
 やがて、近付く。

「っ、猫さん」
「いいよ、そのまま出して」

 ああ、まだ何も出来ていないというのに。それでも猫さんの吸い付きに耐えきれず、射精した。どろり、どろり、と重たさのある精液が猫さんの口の中へと注がれていく。それをすべて、猫さんは飲み込んだ。
 僕の股間から顔を離すと、猫さんは口の端を自分の指で拭った。

「結構出たね」
「ごめん……」
「いいよいいよ、すっきりできた?」

 頷くしかない。猫さんはそんな僕を見て、笑いながら服を整えてくれた。そこで、気付く。足音が聞こえる。階段をのぼっている音だ。ガチャリ、と音を立てて開いた扉の先には隣のクラスの男子が居た。彼は猫さんの名前を呼び、歩み寄ってくる、

「ここに居たのかよ。探した」
「え、何で」
「何でって」

 悔しそうに猫さんを睨む彼を見て、察した。猫さんもハッと思い出したように彼を見上げ、気まずそうに笑う。

「いや、その……マジごめん……」
「ごめんじゃないって。俺ずっと保健室で待ってたんだけど。鍵も頑張って借りたし」

 ……やはり、そういう事か。しかしまさか、こうやって直接的に目の当たりにするとは。

「元林ごめん、ちょっとこいつ借りるわ」

 彼の怒りを鑑みるに、頷くしかできない。猫さんも申し訳なさげに彼と僕を交互に見て弁当を片付け始めた。彼に引きずられるようにして猫さんは屋上から降りていく。そんな彼女に、僕は手を振るしか出来なかった。
 ……昼休憩が終わるまで、あと三十分もある。どうにかして素早く、二人は行為を終わらせるのだろう。僕の精液を胃に残したまま。
 どこか心臓に靄がかかる感触に目がくらみそうになるが、溜息だけで終わらせた。
しおりを挟む

処理中です...