安是の女

坂水

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短編

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 安是あぜの里では、恋をした女は光る。

 これは比喩でもなんでもない。つきのものを迎えてしばらく、子を宿す準備が整った女は、意中の男を前にすると身の内から光を発するようになるのだ。
 最初はか弱く、ぽっとかすかに、いかにもおぼこく。歳月を経て女の身体が成熟するにつれ、光は輝きを増す。隠し切れぬほどに光を滴らせてすっかり準備が整った女は、男の前で衿を掻き開き、囁くのだ――貴方が光らせたこの身体、貴方でなければ鎮められぬ、と。
 男は心ときめかす。恋心を膨らませ、こんなにも光に濡れた女を愛いやつと。
 女は心得ている。この甘く誘う光を、自尊心と支配欲から男が拒否できないと。
 こうして一対の幸福な夫婦が出来上がり、子が誕生し、里は緩やかに繁栄を続ける。それがずっと昔から連綿と受け継がれてきた安是のことわりだった。

 かすみは数えの十八。とっくの昔に初潮を迎えていたが、この歳になっても里男に光らない。普通ならば十から十五、どんなに遅くったって十六には光り始めるというのに。

 かすみは〝滓の実〟。あるいは〝幽の身〟。

 片親しかおらず、母親には学がなかったため真名を与えられておらず、適当な意味を当てられてしまう。
 けれど、それも詮無きこと。光らねばこの里では女としての価値はない。せめて見目が良ければ他人を不快にさせないだろうが、かすみの髪は赤黒く波打ち赤猿もかくやあらんというふうで、およそ美人の条件からはかけ離れていた。

 ――学がなく、大罪を犯した母は、里一番の器量良しだったというけれど。
 
 嘆息は山の臭気に溶け込んだ。山の空気は濃く甘く重い。木々と虫と獣、それからあれ・・の気配に満ちており、ひどく生々しくあてられる。もっとも、少し経てば馴染んでしまうのだが。
 陽は傾きつつあったが、目指す黒沼はまだ一刻も歩いた先となる。黒山の中腹、黒沼の周辺では灯明油の原料となる黒ヒョウビの実が採れる。秋祭が近付いているが灯明油が足りぬと気付いた娘頭の駒に命じられたのだった。

 里の娘は十二、三になると生家を離れ、婚姻するまで娘宿と呼ばれる宿舎兼作業場で共同生活を送る。そして年嵩の娘が教育係となり、里の一員としての仕事やしきたりを学ぶ。
 かすみが娘宿に入ったのは、八歳の頃。理由は単純だ。祖父母が亡くなり、身寄りがなくなったから。
 小さな里だ、近親でなくともまったく縁者がなかったわけではない。けれど、どの家も引き取ろうとはせず、露骨にしらんふりを決め込まれた。それも納得のこと。けったいな髪色、母の所業、どこの誰とも知れぬ父。こんな業を背負った餓鬼を引き取ろうなどという物好きはない。そんな身の上であるから、かすみは駒よりも歳上だが、物の数には入れられず、頤使されるのだった。

 夜の山は危険だ。人の領域ではない。
 あずまの果て遥野郷はるかのごうでは、昔から山に入ったまま戻らない女があった。その遥野の最奥である安是では、この女の神隠しを特に〝山姫下り〟と呼ぶ。山姫は山に棲まう人とも怪ともつかぬ何かだ。山姫が下れば、女が山へと消える。だから決して、女は夕暮れ後、山に入ってはならない。
 出立するかすみをわざわざ見送り、駒はこう言った。
 
 ――あんたにゃ丁度似合いのお役目だ。

 安是で山に消えるのは、初光済みの女ばかり。〝女〟ではないかすみにはその心配がない。そしてもう一つ、女が山に入るということは、人目を盗んでの逢瀬をも意味する。里男の気を引かないかすみが間違いを犯すはずはないと嘲っているのだ。
 それから駒は朝餉の支度には間に合うよう戻るんだよ、と言い捨て、姉さん被りの手ぬぐいを外し娘宿とは真逆の方へと走っていった。
 その振り向く刹那、駒の着物の衿から項にかけての浅黒の肌に淡い黄色の光が灯った。袖口からもほろほろ光が透けて見える。ほんのりと早春の花が開いたように。まだ陽が高い時分ですぐに消えてしまったが、横顔にのぼった朱は頬を染め上げたまま。若衆頭の真仁まひとと約束でもしていたのだろう。
 かすみを嘲弄した次の瞬間、い女へと為り代わる。その変わり身は、安是女そのものであり、かすみが心底嫌うさがであった。
 多分、彼女は。足を動かしながら思う。今年の秋祭が終われば、娘宿を出て嫁ぐのだろう。そんな娘を何人も見送ってきたのだ、この十年。
 
 十年。思い返せば、人生の半分以上娘宿で過ごしている。
 入宿した当初、当時の娘頭に黒ヒョウビ採りを命じられ、かすみは泣いた。
 そも、黒沼は神域であり、夜山に入る以前に、女が訪れて良い場所ではない。わかっていながら娘たちは神罰が下ってもどうせかすのみ、構いやしないと思っている。
 恐ろしくてならなかった。黒沼まで辿り着けないこともあり、その度に食事を抜かれたり、折檻されたりした。だが、いくらもせずに日常の作業となり、むしろ喜ばしい仕事となった。孤独な山の往来は、娘宿よりもずっと自由だ。そしてこの一年で自由以上のものを得た。

 半時進み、視界が開けた小さな滝沢に出る。絹の白糸を束ねたような流れが苔生した岩の間を這う。かすみは一筋に口をつけた。息をついて枝葉の間から空を仰げば、中天は青よりもずっと濃い紺碧、山の端は燃え立つ紫紅。空気は昼間のぬくもりを拭い去り、明度と冷たさを増していた。
 陽が落ち切る前に到着したかったが、間に合わないかもしれない。
 駒が灯明油の残りに気付くのが遅かったせいだ。彼女は娘頭としては未熟だ。知らず、舌打ちが漏れた。
 忌々しい心地を振り払い、急いて手足を動かすが、登りは息が乱れる。空気は冷える一方だが、対照的に身体は熱かった。腹の中で熾火が燃えているように、吐息が熱い。頭も手足も、髪の先、睫毛の先までちりちりと。
 風が山肌を吹き上げ、怪しげな葉ずれが鳴る。夜鳥の低い鳴き声が響き、辺りは急速に闇に沈みつつあった。

 かすみは負うていた風呂敷包みを下ろした。籠、手拭、昼餉ひるげの残りを包んだものやらを放り出し、たった一つを選び出す。はらりひろがったのは漆黒の打掛。まだ陽の指先がかろうじて引っかかっている夕闇よりもずっと深い闇色の。進みながら素早く腕を通す。
 それは唯一、母から譲り受けた品であり、遺品だった。里で飼っている蚕からとれる絹糸に特殊な染めをして織られたその衣は、里女なら必ず一枚持っているもので、婚礼の時にも羽織る。
 里の外では婚礼衣装は白なのだと聞く。だが白などという儚い色でどうやって隠すというのだ、婚礼の儀で隣に座る夫への思慕の光を。もっと直裁に言えば、その晩ようやく迎える初夜への期待と不安と昂ぶりを。夫に可愛がられて鎮めてもらうまでの、その気の遠くなるほどの時間。
 胸の奥から熱い塊がこみ上げる。下腹部のあたりが疼く。足下がおぼつかず、もつれるように速度を緩める。胸の辺りを押さえ、前屈みになると、一体いつの間に解けたのか、束ねていたはずの赤黒毛が頬にかかった。胸がひときわ大きく疼き、はっと大きく湿った吐息が漏れる。

 ――もう、堪えきれない。

 一呼吸の後、漆黒の打掛の下で、暗紫紅の光が膨れ上がった。己の身体を見下ろせば隅々から光が放たれ、打掛でも隠しようがなく、全身が染まっていた。足なり、腕なり、身じろぎすれば同調して光が揺らぐ。まるで光の蒸気を吹き出しているように。
 いや、それは最早、暗紫紅の業火に焼かれているさま。
 肌が熱くて熱くて、膝を折る。喉が乾いて乾いて、喘ぎを漏らす。身体の芯が疼いて疼いて、どうしようもない。己が発する光で、視界がぐにゃりたわんだ。
 山中の暗がり、暗紫紅の焔となり、苦しさに地面に膝をついた。
 と。暗い山路に、ぽつんと一つ、青白の清涼な光が点った。一番星か、季節外れの蛍か、さまよえる鬼火か――いや。光は、うずくまるかすみの上を二三度旋回してから、少し離れた空中で静止する。
 かすみはよろめきながらも立ち上がった。蛍火は逃げるかのごとく、また少し離れる。追えば光はまた逃げる。待って、とか細い声を上げ、小さな光を追いかけた。

 山の呼気はますます濃く、酩酊にも似た眩暈を感じる。それとも、自分自身の光に酔ってしまっているのか。
 そうして蛍火に導かれ、おぼつかない足取りで山路を進み、小川を越え、鬱蒼とした隈笹の茂みを掻き分けたその先は、木々に囲まれぽっかりと開けた空間だった。
 山の中腹に忽然と現れた沼地――黒沼。対岸までおよそ三十尋あろうかという水面は漆のような艶を湛えて星空を映し、一瞬、夜空に投げ出されたような錯覚を覚える。息詰まるほどに光を堪えていたせいもあるのか、くらり、身体が傾いだ。
 今宵は新月、蛍火と星の見分けがつかない。一体どこへ。
 刹那、未だ暗紫紅に光る腕がぐいりと引かれる。
 ――山姫のおくだりか、否。

「はしたないな。燃え盛るほどに光るなんて」

 耳元で囁きが落とされる。
 無数に舞う青白い蛍火と自身の燃え立つ光で相手の姿が除々に浮かび上がる。黒狐の面を被った書生姿の物の怪が、背後からかすみを抱いていた。
 全身から力が抜け出て、同時に今まで堪えに堪えていた光をどっと放出させる。

「……燈吾とうご、」

 面をずらさせ、かすみは首筋を反らして愛しい物の怪に喰らいつくように口付けた。絡み合えば、熱くて、柔らかくて、湿って、とろけて、気が触れそうになる。呼吸が続かなくなり、名残惜しくも唇を離すと、水っぽい唾液がつぅっと糸を引いた。
 突如、着物の合わせから冷たい手が差し込まれる。乳房全体をこねくり回されるとひうんと情けない声が上がり、先端を摘まれて一段甲高い声が漏れた。手はそのまま腹を辿り、さらに下へ、奥へと這ってゆく。身をよじるが決して拒んでいるわけじゃない。もっと早く、もっと奥へ、中の中までと誘い込むため腰を振る。ようよう中心の熾火に触れられて思わず呻くと、くっと下卑た笑い声が夜陰に響いた。同時に、光とはまた違う熱い何かがどっと溢れ出る。
 愛しい背の君。里の男には決して光らない身体が、物の怪の夫にはどこもかしこもしとどに光る。
 地面はすでに夜露に濡れていたが、二人は構わず草の褥にもつれこんだ。


 *


 ――俺は寒田さむだの里の燈吾。今日よりお前の夫だ。


 そう宣言されたのはちょうど一年前の秋祭の晩だった。
 秋祭は安是の男女の仲を取り持つ行事だ。しかし、かすみには想う相手がいなければ、情けをかけてくれる若衆もおらず、光らぬ身で里にいればいっそう惨めになるだけ。祭の囃子に追い立てられるようにして黒沼へと逃げた。


 そこで出会ったのだ。寒田の物の怪の君に。


「……火のごとく ひかり輝く かすみもゆ 我いざないて 妻とせん」
 

 かすみと夫――燈吾は、粗末な草庵でまどろんでいた。何十年も前に雲水が建て、その死後打ち棄てられたものだという。黒沼の畔にあるが、笹薮に隠されて余程近付かなくてはわからない。
 燈吾はかすみを後ろから抱き締める形で寝入っている。かすみが呟いたのは、かつて燈吾からおくられた求婚歌だった。

 寒田の男は外道。それが安是でのことわりだった。安是と寒田は黒沼を巡り、長年対立している。
 寒田では、女ではなく男が光る。それは安是にとって奇異であり、忌諱なことであった。寒田の男は成人すると身の内から小さな鬼火を発し、その光を操り、女を誘い出すという。安是の里とはあべこべだ。
 幼き頃より寒田は外道と教え込まされており、寒田と聞いて恐ろしくなった。けれど、黒狐の面を外し、晴れやかな笑みを浮かべてお前の夫だと宣言されたその瞬間、安是男の誰にも疼かなかった胸に、ぽぉっと暗紫紅の光が灯ったのだ。

「……安是の里 齢十七 かすのみなれど わが背となりて もののけの君」

 それはかすみの返歌だった。低い声音にはっとして身をよじれば燈吾が面白がるように笑っている。目が覚めたのか、眠ったふりをしていただけなのか。夫は時にこうしてかすみを翻弄する。外道、と呟けば、燈吾はかすみの腕を軽々と抑え付け、項を強く吸った。吸われた肌が、暗紫紅の光を射す。光が収まってからも痕が残るというのに、まさに外道だ。
 そうしてどちらともなく再燃し、今度こそ泥のような眠りに落ちた。



 格子からのぞく藍色の空がわずかに白みを帯び始める。夜明けまでは間があるが、もう出立しなければ朝餉の仕度に間に合わない。
 
 ……里を捨て、二人で遠いどこかへ行けたなら。

 燈吾には燈吾の事情があり、未だ叶わぬ願いであるとはわかっている。
 けれどこのまま愛しい背の君を寒田に帰すのは胸を掻き毟られる思いだった。寒田女に盗られたらと考えるといてもたってもいられない。
 そんな妻の気持ちを知って知らずか、燈吾は安らかな寝息を立てている。
 かすみはそっと立ち上がり、身支度を始めた。

 戻るのか、と密やかな声音に帯を結んでいた手を止めた。起こしてしまったらしい。振り返れば、燈吾は手枕をして、黒打掛をかけただけのしどけない姿をしていた。
 頷けば、そうかとだけ返される。しかし物言いたげな視線に、かすみは黙して促した。


「……不安になるか?」

 
 心を暴かれ、胸を衝かれる。頷いて、泣いて、縋って、我が儘を言ったなら。


いいえ


 今はその時ではない。首を横に振る。
 盗られまいか、拐かされるのではないか、不安でしようがない。でも、同時に確信している。燈吾は自分を手放すまい、必ず戻ってくると。なぜならこの身が光るから。己を好いて光る女子おなごを、男が捨て置けるはずないのだ。
 幼き時から、かすのみ扱いしてきた安是を憎んでいる。安是など、皆死にしてしまえと心底思う。安是女の筆頭であった母はなお。
 けれど、禁忌とされた寒田男に恋をして、安是女であることが誉れとなるなんて。その皮肉がいっそ愉快だった。
 
 燈吾は薄く笑みを佩く。それでこそ我が妻だといわんばかりに。
 だが、その笑みがすうと消えゆく。朝霧のごとく儚く。かすみは夫の言葉を待った。


 *

 
 暗がりの中、帰路を急ぐ。遅れるとまた駒が癇癪を起こすから。
 振り返るが黒沼には青灰の朝霧が立ち込め、対岸の草庵は見えなかった。夜が明け切ってしまえば、一息に消えてしまうものを。
 夫の憂い顔は、別れ際までついぞ晴れなかった。思うことがあったらしい。


 ……俺が変わってしまっても?


 燈吾はそんなことを訊いてきたのだ。変わるはずないと一笑に付せば、そうだなと笑い返してくれたが。
 時間が無かったが、朝霧の向こうを見通せないものか、つい足を止めてしまう。 
 

 ……もし、愛する夫が変わってしまったら。


 と、霧の中、黒沼の向こう岸から何かが飛んでくる。青白いかそけき光。燈吾の蛍火だ。本人からあまり離れては飛ばせないというが、まだ暗い道を少しの間でも照らそうとしてくれているのだろう。
 ああ、吐息とともに暗紫紅の光が立ち昇る。きっと燈吾は向こう岸で、そんなに光り濡れるなら蛍火は不要だなと嘯いているに違いない。

 
 もし、燈吾が変わってしまったとしても。
 この暗紫紅の光が、何より己が身の恋情を照らし示す。その行末すらも。


 ――わたしは、安是の女だから。
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