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第一章
呼声
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気が付いたら葵は、いつもの祠の前に居た。
呆然としていたせいで、どうやってここまで来たかよく思い出せない。夜に制服姿で徘徊していたのに、補導されなかったのは運が良いのか悪いのか……。
一番信頼していた人に裏切られていただなんて、もう何を支えに生きればいいのかわからなくなった。
(行き場がない……)
どんなに馴染もうと努力しても、こんなにもあっさりと世界から弾き出されてしまう。それもこれも全て、生まれつき〝枷〟をつけられた人間だから、ということなのだろう。目立たず、平穏に……ただそれだけで良いのに、見えない枷が足を引っ張る。
暗闇に包まれた祠は妙に居心地が良かった。陰気な雰囲気が、葵の心に共鳴しているように感じた。
脚に力が入らないのは歩き疲れたせいだけではないだろう。
その場に崩れ落ちるように、地べたにへたりこんだ。日に当たらぬ地面さえぬるく感じた。もう涙すら出ない。
(このまま消えてしまいたい……)
自分など、最初から存在しなかったことになればいいのに。
(いっそ、高校も辞めて、このままどこか遠いところへ行こうか……私の事を知ってる人がいないどこかに……)
その想いだけが心を支配して、存在するはずのない神に懇願した。
『……み……さま』
ふ、と耳を掠めた誰かの声。気のせいかとも思ったが、念の為周りを見回してみる。
暗くて遠くまでは見えないが小さな島だ、もし誰か居たなら気配があるはずた。しかしその気配すらないのだから、やはり気のせいだろう。
『……みず……さま…… 』
いや、確かに聞こえる。
幼い女の子の声だ。掠れてよく聞こえないが、助けを求めるような……。
「……誰?」
耳をすまして声の主を探すが、姿が見えない。
その時点で、生きている人間ではないと予想もできたが、その声を無視する気にはなれなかった。どこかで聞いたかはわからないが、聞き覚えのある声だったからだ。
携帯のライトを点灯させて、周辺をくまなく探す。
「誰なの?どこに居るの?」
集中して声の出処を探り、振り返った先に目に入ったのは、ひときわ存在感を放つ井戸だ。
(まさか、井戸の中?)
深さは知らないが、人が落ちたら自力で出ることは不可能だろう。
蓋は閉まっている。
やはり人ではないものか……? でももし、生きている人間が、誰かに突き落とされたのだとしたら……?
「大変!」
葵は木製の井戸の蓋をズラそうと体重を掛けて押した。
思いの外あっさりと蓋がズレて、井戸の真っ黒な穴が三日月形に口を開けた。半月程度になるまで蓋を押しのけ中を覗くが、暗くて何も見えない。
これは相当深そうだ。
「大丈夫!? すぐに助けを呼ぶから、もう少しだけ頑張って!」
井戸に身を乗り出して声の主に話しかけるが、返事がない。
もし井戸の底で力尽きてしまっていたら、と不安が押し寄せる。スカートのポケットから携帯電話を取り出して、画面をタッチした。
震えながらロックを外す。
(警察? いや、消防だっけ? ……もうなんでもいい!)
番号を押そうとした途端、井戸の中から白い手が伸びてきて、葵の手首を掴んだ。
携帯が滑り落ち、井戸の脇に転がった。
「……っ!?」
しまった、と思った時にはもう遅く、物凄い力で井戸の中へ引っ張られる。
咄嗟に井戸の縁を掴んだ手は苔で滑り、ズルズルと全身が闇へと引きずり込まれ、葵は悲鳴をあげながら真っ逆さまに落ちていった。
落ちながら、物悲しげな声が耳元で囁いた。
『お頼み申した』
井戸の傍に取り残された葵の携帯電話が、スリープ状態へと切り替わり、唯一の光が虚しく消えた。
***
「だ、誰か! 誰か!!」
まだ日が登ったばかりの早朝、しん、と静まり返った境内に下女の物々しい声が響き渡る。
まるで城のように広い社の本殿は、広大な湖のような水上に建てられており、そのせいで春でも朝は冬のように寒く、息を吐けば白く染まる程だ。そのうえ辺りはよく霧で覆われ、この日の朝も数メートル先ですら視界が悪い。
社では、本殿を一刻毎の見回りをするのが決まりで、代々それを徹底してきた。というのも、本殿の裏門には、様々な物が流れ着くからだった。木の葉や枝だったり、捨てられた物であったりとレパートリーは様々だが、大概はガラクタが多い。それを毎回掃除するのも、見回り係の業務に含まれる。
その程度の物ならば後でまとめて始末した方が効率がいいのだが、そうしないのは、時折それに混じって、とんでもないものが流れ着くことがあるのだ。
眠気眼で朝の見回りをしていた下女は、気だるげに長い廊下を歩いていた。どうせ手で拾える量のゴミしかないだろうと、欠伸をしながら裏門にやってくると、朱色を基調とした大きな鳥居が、霧の中でも目立つくらいにその存在を主張している。もう何十年と見慣れている光景で特に感動もなく、とにかく早く布団に戻りたい一心で鳥居の間を覗き込んだ。
流れ着いたとんでもないものに、下女の眠気は一気に吹き飛んだ。
「誰かおりませぬか!?」
張り上げる声が誰にも届かないことに痺れを切らし、下女は足をもつれさせながらも、とにかく人を呼んでこようと身を翻した。
しかし、そこにあるはずのない壁に顔面をぶつけて盛大な尻もちを着く。痛む尻と、危うく潰れかけた鼻を抑えながら視線を上げた下女は、一気にその痛みが吹き飛んだ。
「み、神王様!?」
下女が仕える社の主は、自分の後ろに控えていた青年が、一歩踏み込もうとしたのを片手で制した。
大柄な惲薊によってすっぽり隠れていて見えなかったが、華奢な体から溢れんばかりの威圧感を放っている。肩あたりで切りそろえられた白髪が揺れ、霧に覆われた空間では人外のように妖しく、異質な存在に感じられる。
その冷酷な眼差しを向けられると、下女は身体が凍ったように動かなくなった。
「よい、リン」
リンと呼ばれた青年は腰の刀から手を放した。
それを見た下女は、今まさに自分が首の皮一枚で命が繋がったのだと、ようやく自覚し、身震いした。非礼を詫びる間すら与えてもらえないのだ。
「も、申し訳ございません!! どうか、どうかお許しください!!」
下女は顔を真っ青にしながら慌てて座り直し、両手を地面に着けて陳謝した。恐怖で手の震えは止まない。
早朝に突然訪れた騒動に、近くの部屋で眠っていた下働きの者達が、ちらほらと顔を出しはじめ、なんだなんだ、と状況を伺う。
「う、惲薊様じゃ!?」
「神王様がなぜこんな時間に!?」
「皆の者、さっさと起きろ!!」
主の姿を見るなり慌てて部屋から飛び出し、両手をついて頭を下げる。
惲薊は周囲の騒ぎに目もくれず、目の前で平伏している下女に声を掛けた。
「面を上げよ。して、一体何事……!?」
言い終わる前に目に飛び込んだ光景に言葉が詰まった。
────少女だ。
下女の背後見ると、本殿の裏門、水上に浸かっている鳥居の間に、段差にしがみつくようにして少女が倒れている。
身体が水に浸かっているせいで体温が奪われたのだろう、あどけなさの残る顔は青白く、死体と見間違えるほど血色が悪い。
しかし惲薊が驚いているのは、見知らぬ少女が境内で倒れていることが理由ではない。
どこかで見たような顔立ちだった。忘れもしない、遠い昔に知っていた幼子の顔。
「雪花……!?」
まるで、成長した彼女が戻ってきたかのようだ。
少女を見る惲薊の顔は、驚きというより絶句と言った方が正しい。考えうる可能性を思索した後、眉を寄せてリンを見やった。
惲薊が向けた眼差しの意を読み取ったリンは、僅かに目を細め、それを否定した。
「有り得ません。雪花はあの時、確かに……」
惲薊も納得せざるを得なかった。なぜなら、あの場に自分も居合わせ、確かにこの目で見届けたのだから。
(ならば、この女子は一体……)
惲薊は鳥居の下で横たわる少女を見やった。
「リン」
「はい」
名を呼ばれて、水波盛家当主の側で片膝をつき、こうべを垂れた。
「十年……、この時を今か今かと待ちわびていた。ようやく、水波盛も報われよう」
物思いにふけるような声を静かに聞いた。主は有無を言わせぬような、厳しい眼差しを向ける。
「失敗は許さぬ。二度と」
「……はい」
新たな任を受けたリンは、朝方の冷えた湖の中へ躊躇なく足を沈めると、倒れている少女の元へ歩を進めた。時間によって水深が変わる湖は、今は膝までの深さがある。
少女は、見た事のない珍妙な格好をしていた。体のラインを型どったような白い布、首には蝶結びの布が着いている。単なる首飾りのようだ。腰に巻いている大小の線が描かれた布は、ただでさえ短いというのに水面下で揺れ、太腿が丸見えだ。
水波盛では考えられない格好に、リンは眉を顰めた。
(異国の者だろうか?)
首に指をあてると、小さく脈打つのを感じ取った。
「起きなさい」
頬を軽く叩いてみるが、当然返答はない。すっかり冷えた少女の体を抱き起こし、髪をかきあげて首の後ろを確認した。
その痕を見るなり、軽々と少女を抱き上げる。滝のように滴る水が、真っ白な水干と淡い青紫の袴を濡らし、さらに負荷をかけた。普通ならば水の冷たさや感触の悪さに表情を歪めるところだが、リンは眉一つ動かさず、当主の元へと戻った。
「印は?」
「確かに」
リンの答えに、惲薊は一瞬歓喜と安堵が同時に押し寄せたような顔をしたが、直ぐに真顔に戻ると、その場に立ち合っている全員に向けて、声を張り上げる。
「次の災蝕までに急ぎ、準備致せ!」
鶴の一声で社中の人間が忙しなく動き出す。
リンは近くに控えていた女中達に、部屋と着替えの用意を言いつけると、惲薊に一礼してから本殿の中へと立ち去った。
少女の姿を見送りながら、惲薊は急に不安を抱いた。
「あれは雪花なのか? それとも……」
胸騒ぎがするが、それが歓喜によるものなのか、はたまたこれから巻き起こる災厄の警鐘なのかはわからない。
(今度こそ、無事に済めば良いが…… )
黒い雲が空を覆っていき、ぽつりぽつりと雨が降り出し、たちまち霧がより濃くなって社を包み込んでいく。
まるで不吉な予感を助長いるように感じられた。
呆然としていたせいで、どうやってここまで来たかよく思い出せない。夜に制服姿で徘徊していたのに、補導されなかったのは運が良いのか悪いのか……。
一番信頼していた人に裏切られていただなんて、もう何を支えに生きればいいのかわからなくなった。
(行き場がない……)
どんなに馴染もうと努力しても、こんなにもあっさりと世界から弾き出されてしまう。それもこれも全て、生まれつき〝枷〟をつけられた人間だから、ということなのだろう。目立たず、平穏に……ただそれだけで良いのに、見えない枷が足を引っ張る。
暗闇に包まれた祠は妙に居心地が良かった。陰気な雰囲気が、葵の心に共鳴しているように感じた。
脚に力が入らないのは歩き疲れたせいだけではないだろう。
その場に崩れ落ちるように、地べたにへたりこんだ。日に当たらぬ地面さえぬるく感じた。もう涙すら出ない。
(このまま消えてしまいたい……)
自分など、最初から存在しなかったことになればいいのに。
(いっそ、高校も辞めて、このままどこか遠いところへ行こうか……私の事を知ってる人がいないどこかに……)
その想いだけが心を支配して、存在するはずのない神に懇願した。
『……み……さま』
ふ、と耳を掠めた誰かの声。気のせいかとも思ったが、念の為周りを見回してみる。
暗くて遠くまでは見えないが小さな島だ、もし誰か居たなら気配があるはずた。しかしその気配すらないのだから、やはり気のせいだろう。
『……みず……さま…… 』
いや、確かに聞こえる。
幼い女の子の声だ。掠れてよく聞こえないが、助けを求めるような……。
「……誰?」
耳をすまして声の主を探すが、姿が見えない。
その時点で、生きている人間ではないと予想もできたが、その声を無視する気にはなれなかった。どこかで聞いたかはわからないが、聞き覚えのある声だったからだ。
携帯のライトを点灯させて、周辺をくまなく探す。
「誰なの?どこに居るの?」
集中して声の出処を探り、振り返った先に目に入ったのは、ひときわ存在感を放つ井戸だ。
(まさか、井戸の中?)
深さは知らないが、人が落ちたら自力で出ることは不可能だろう。
蓋は閉まっている。
やはり人ではないものか……? でももし、生きている人間が、誰かに突き落とされたのだとしたら……?
「大変!」
葵は木製の井戸の蓋をズラそうと体重を掛けて押した。
思いの外あっさりと蓋がズレて、井戸の真っ黒な穴が三日月形に口を開けた。半月程度になるまで蓋を押しのけ中を覗くが、暗くて何も見えない。
これは相当深そうだ。
「大丈夫!? すぐに助けを呼ぶから、もう少しだけ頑張って!」
井戸に身を乗り出して声の主に話しかけるが、返事がない。
もし井戸の底で力尽きてしまっていたら、と不安が押し寄せる。スカートのポケットから携帯電話を取り出して、画面をタッチした。
震えながらロックを外す。
(警察? いや、消防だっけ? ……もうなんでもいい!)
番号を押そうとした途端、井戸の中から白い手が伸びてきて、葵の手首を掴んだ。
携帯が滑り落ち、井戸の脇に転がった。
「……っ!?」
しまった、と思った時にはもう遅く、物凄い力で井戸の中へ引っ張られる。
咄嗟に井戸の縁を掴んだ手は苔で滑り、ズルズルと全身が闇へと引きずり込まれ、葵は悲鳴をあげながら真っ逆さまに落ちていった。
落ちながら、物悲しげな声が耳元で囁いた。
『お頼み申した』
井戸の傍に取り残された葵の携帯電話が、スリープ状態へと切り替わり、唯一の光が虚しく消えた。
***
「だ、誰か! 誰か!!」
まだ日が登ったばかりの早朝、しん、と静まり返った境内に下女の物々しい声が響き渡る。
まるで城のように広い社の本殿は、広大な湖のような水上に建てられており、そのせいで春でも朝は冬のように寒く、息を吐けば白く染まる程だ。そのうえ辺りはよく霧で覆われ、この日の朝も数メートル先ですら視界が悪い。
社では、本殿を一刻毎の見回りをするのが決まりで、代々それを徹底してきた。というのも、本殿の裏門には、様々な物が流れ着くからだった。木の葉や枝だったり、捨てられた物であったりとレパートリーは様々だが、大概はガラクタが多い。それを毎回掃除するのも、見回り係の業務に含まれる。
その程度の物ならば後でまとめて始末した方が効率がいいのだが、そうしないのは、時折それに混じって、とんでもないものが流れ着くことがあるのだ。
眠気眼で朝の見回りをしていた下女は、気だるげに長い廊下を歩いていた。どうせ手で拾える量のゴミしかないだろうと、欠伸をしながら裏門にやってくると、朱色を基調とした大きな鳥居が、霧の中でも目立つくらいにその存在を主張している。もう何十年と見慣れている光景で特に感動もなく、とにかく早く布団に戻りたい一心で鳥居の間を覗き込んだ。
流れ着いたとんでもないものに、下女の眠気は一気に吹き飛んだ。
「誰かおりませぬか!?」
張り上げる声が誰にも届かないことに痺れを切らし、下女は足をもつれさせながらも、とにかく人を呼んでこようと身を翻した。
しかし、そこにあるはずのない壁に顔面をぶつけて盛大な尻もちを着く。痛む尻と、危うく潰れかけた鼻を抑えながら視線を上げた下女は、一気にその痛みが吹き飛んだ。
「み、神王様!?」
下女が仕える社の主は、自分の後ろに控えていた青年が、一歩踏み込もうとしたのを片手で制した。
大柄な惲薊によってすっぽり隠れていて見えなかったが、華奢な体から溢れんばかりの威圧感を放っている。肩あたりで切りそろえられた白髪が揺れ、霧に覆われた空間では人外のように妖しく、異質な存在に感じられる。
その冷酷な眼差しを向けられると、下女は身体が凍ったように動かなくなった。
「よい、リン」
リンと呼ばれた青年は腰の刀から手を放した。
それを見た下女は、今まさに自分が首の皮一枚で命が繋がったのだと、ようやく自覚し、身震いした。非礼を詫びる間すら与えてもらえないのだ。
「も、申し訳ございません!! どうか、どうかお許しください!!」
下女は顔を真っ青にしながら慌てて座り直し、両手を地面に着けて陳謝した。恐怖で手の震えは止まない。
早朝に突然訪れた騒動に、近くの部屋で眠っていた下働きの者達が、ちらほらと顔を出しはじめ、なんだなんだ、と状況を伺う。
「う、惲薊様じゃ!?」
「神王様がなぜこんな時間に!?」
「皆の者、さっさと起きろ!!」
主の姿を見るなり慌てて部屋から飛び出し、両手をついて頭を下げる。
惲薊は周囲の騒ぎに目もくれず、目の前で平伏している下女に声を掛けた。
「面を上げよ。して、一体何事……!?」
言い終わる前に目に飛び込んだ光景に言葉が詰まった。
────少女だ。
下女の背後見ると、本殿の裏門、水上に浸かっている鳥居の間に、段差にしがみつくようにして少女が倒れている。
身体が水に浸かっているせいで体温が奪われたのだろう、あどけなさの残る顔は青白く、死体と見間違えるほど血色が悪い。
しかし惲薊が驚いているのは、見知らぬ少女が境内で倒れていることが理由ではない。
どこかで見たような顔立ちだった。忘れもしない、遠い昔に知っていた幼子の顔。
「雪花……!?」
まるで、成長した彼女が戻ってきたかのようだ。
少女を見る惲薊の顔は、驚きというより絶句と言った方が正しい。考えうる可能性を思索した後、眉を寄せてリンを見やった。
惲薊が向けた眼差しの意を読み取ったリンは、僅かに目を細め、それを否定した。
「有り得ません。雪花はあの時、確かに……」
惲薊も納得せざるを得なかった。なぜなら、あの場に自分も居合わせ、確かにこの目で見届けたのだから。
(ならば、この女子は一体……)
惲薊は鳥居の下で横たわる少女を見やった。
「リン」
「はい」
名を呼ばれて、水波盛家当主の側で片膝をつき、こうべを垂れた。
「十年……、この時を今か今かと待ちわびていた。ようやく、水波盛も報われよう」
物思いにふけるような声を静かに聞いた。主は有無を言わせぬような、厳しい眼差しを向ける。
「失敗は許さぬ。二度と」
「……はい」
新たな任を受けたリンは、朝方の冷えた湖の中へ躊躇なく足を沈めると、倒れている少女の元へ歩を進めた。時間によって水深が変わる湖は、今は膝までの深さがある。
少女は、見た事のない珍妙な格好をしていた。体のラインを型どったような白い布、首には蝶結びの布が着いている。単なる首飾りのようだ。腰に巻いている大小の線が描かれた布は、ただでさえ短いというのに水面下で揺れ、太腿が丸見えだ。
水波盛では考えられない格好に、リンは眉を顰めた。
(異国の者だろうか?)
首に指をあてると、小さく脈打つのを感じ取った。
「起きなさい」
頬を軽く叩いてみるが、当然返答はない。すっかり冷えた少女の体を抱き起こし、髪をかきあげて首の後ろを確認した。
その痕を見るなり、軽々と少女を抱き上げる。滝のように滴る水が、真っ白な水干と淡い青紫の袴を濡らし、さらに負荷をかけた。普通ならば水の冷たさや感触の悪さに表情を歪めるところだが、リンは眉一つ動かさず、当主の元へと戻った。
「印は?」
「確かに」
リンの答えに、惲薊は一瞬歓喜と安堵が同時に押し寄せたような顔をしたが、直ぐに真顔に戻ると、その場に立ち合っている全員に向けて、声を張り上げる。
「次の災蝕までに急ぎ、準備致せ!」
鶴の一声で社中の人間が忙しなく動き出す。
リンは近くに控えていた女中達に、部屋と着替えの用意を言いつけると、惲薊に一礼してから本殿の中へと立ち去った。
少女の姿を見送りながら、惲薊は急に不安を抱いた。
「あれは雪花なのか? それとも……」
胸騒ぎがするが、それが歓喜によるものなのか、はたまたこれから巻き起こる災厄の警鐘なのかはわからない。
(今度こそ、無事に済めば良いが…… )
黒い雲が空を覆っていき、ぽつりぽつりと雨が降り出し、たちまち霧がより濃くなって社を包み込んでいく。
まるで不吉な予感を助長いるように感じられた。
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