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第一章
襲来
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子を抱いた物乞いの女や、ずっと力なく座り込んでいた者も散り散りになって逃げ出した。
道の真ん中で親とはぐれた子供が泣いている。けれども誰も、他人を庇う余裕はない。
中心部の方からは鐘の音が忙しなく鳴り続けている。おそらく、この国での警報なのだろう。
葵は、川に浸かったまま動けずにいた。目の前の妖獣から目を逸らせない。少しでも動いたら丸呑みされると、本能が告げている。
なんとか川から上がらなければと、少しずつ後退していく。緩やかに流れる川の色が濁っていることに気が付いた。木屑に混じって生活用品や着物なども流れてくる。
とん、と重みのある塊が葵の腕にぶつかった。
葵はそれを柔らかいマネキンだと思った。それが幾つもぷかぷか浮かんで流れてくる。五体が揃わず、不完全なものも少なくない。なんともシュールな光景だった。
葵はそのうちの一体を目で追っていた。見慣れないものを受け入れるまで時間を要したのだ。
すぐに死肉の匂いがつんと鼻をついて、ようやく川を染めているものが何なのかを理解した。
恐ろしさのあまり、悲鳴をあげるまで自分を狙う妖獣のことをすっかり忘れていた。
気づいた時には獣の口が目前に迫り、葵の頭を吸い込もうとしていた。
(────死……)
それを本当の意味で理解したと同時に、視界が暗転した。
人生の終わりには走馬燈が見えるというが、あれは嘘だ。葵には見えなかった。死に際に見せる程の内容などなかっただけかもしれないが。
しかしすぐに視界が開けた。その先には鮮やかな血が降り注ぎ、胸焼けをおこすような生臭さに嘔吐した。
(た、食べられたかと思った……)
確かに喰われたのだが、通り道だったはずの鳥の頸はスッパリと斬り離され、赤黒い断面が葵の方を向いて転がっていた。
「本殿から出るなと、言ったはず」
やけに落ち着いた声がした。この地獄絵図のような惨状に似つかわしくないのに、妙にしっくりくる。
けれど、今は一番聞きたくない声だ。
「──リン……」
辺り一面の赤色では充分すぎるほど目立つ配色だ。
片手に握られた刀から獣の血が滴り、真っ白な水干についた返り血が生々しい。
リンは鳥頭の断面から頬に向かって刃を入れて切り開き、葵を解放した。
「どうして……?」
「本殿の周りは断崖絶壁。外へ出る道は正面しかない。それに私が居た書庫からは楼門がよく見える」
(最初から全部見られてたのか……!!)
手を差し伸べられたが、罰が悪いのと悔しさで躊躇してからその手をとろうとした。
しかし互いの手は重なることはなく、葵は首根っこを掴まれて網に掛かった魚の如く引き上げられた。
首が締まって「うぐっ!!」と呻き声を漏らす。
「だから雑なんだって!! なんでそこ掴むの!?」
「巫女には触れたくない」
「人を汚いものみたいに……!?」
確かに血や諸々で汚れてはいるが、そんな言い方しなくてもいいじゃないか。
不満を眼で訴えるが、相手は気に留める様子もなく、紐の端を咥えて器用に襷をかけている。
「社に戻るぞ。決して離れるな」
「でもまだバケモノが!!」
あんな大きな獣を一発で仕留めたなら、襲われている人々を助けられるはず。そこらじゅうで
「それは私の仕事ではない」
「……な、何言ってんの? あんた神子なんでしょう!?」
耳を疑った。仮にもこの国を納める王の息子から出た台詞とは思えない。
「巫女の命が最優先。大勢を庇いながらお前を護れる程、妖獣狩りは容易ではないよ」
「私はもう助かったから、他の人を──」
「たとえ己の命にかえようとも、災蝕まで巫女を護り抜く事、それがおくり子の役目の一つ。私とて例外ではない」
「でも人が死んでるのに!!」
「ならばなおさら今は堪えろ。お前が災蝕を止めれば妖獣もいなくなる。さすれば大勢の命を救えるのだ」
ピシャリと切り捨てられ、また猫でもつまみ上げるように襟を掴まれた。
知らない世界で、わけのわからない災害を止めろだなんて押し付けられたって、ただの学生に何が出来るというのか。
(今だって喰われそうだったんだ! ────こんな怖い思い、二度とごめんだ!!)
立ち上がらせようと引っ張られた瞬間、思いっきりリンに体当たりをすると、不意をつかれたリンは川へ落ちた。
「だから私には無理なんです!!」
水に浸かったままのリンに捨て台詞をはくと、葵は振り返らずに全速力で退散した。
***
残されたリンは、受けた仕打ちに胃が沸騰するのを感じていた。
「────おのれ、あの女……」
ギリッと奥歯が音を立てる。
この屈辱は倍で返してやろう。けれど今は、役目を果たさなければならない。
(逃げられやしない)
リンは自信があった。
誰ひとりとして、自分から逃げ仰せた者はいない。そしてそれは葵も例外ではないのだ。
***
きっと今頃、リンは怒り狂っていることだろう。次捕まったらきっとただでは済まない。
(妖獣も怖いけど、あいつのがめちゃくちゃ怖い……!!)
もう捕まるわけにはいかない。
二度と追いつかれないよう、狭い路地を縫うように駆け抜ける。
うまく距離を離したはいいが、初めての村で、こうも建物が入り組んでいては、迷子になるのにも時間はかからなかった。さっそく行き場を失うが、それでも目の届く所では人が死んでいる。見たくないものばかりが目につく。
突然、前方から妖獣が急降下してきたので、葵は咄嗟に伏せた。間一髪、爪が髪を掠った程度で済んだが、代わりに後ろで逃げ惑っていた男が捕まり、空へ攫われていった。もう一匹の妖獣が餌を横取りしようと襲いかかり、上空で奪い合った末に手足が裂け、一番大きな肉塊は喰い損ねる結果となった。
恐ろしさのあまり物陰に身を潜め、震える体を抱くようにして蹲った。
耳を塞いでも、人々の泣き叫ぶ声を完全に遮ることは出来ない。
生身の人間が次々と餌食になっていく。血肉が裂ける耳障りな音が、葵の精神を追い詰める。
次は自分だ、と死が迫っているのを本能で感じる。
一度味わった死の恐怖は、確実に胸に刻まれていた。
「嘘だ……こんな、こんなの……」
こんな惨状を目の当たりにしてようやく、今居る場所が自分の知っている日本ではないことを理解した。
「そこの方! 大丈夫ですか?」
「──いやっ!!」
突然、誰かに肩を掴まれ、反射的にそれを振り払った。完全にパニックを起こしていた。
顔を上げると、同じ年頃の少女が、心配そうに葵の顔を覗き込んでいる。着ている着物は色褪せているうえに土埃で汚れおり、裾は脛あたりで破れている。
少女は葵の腕を掴んで立たせると、驚愕したように目を見開いた。上から下、そしてまた上へと視線を移らせた。
「まさか、巫女様──!? なぜこのようなところに!?」
「えっ?」
「ここへ来てはいけません!! 早く本殿へお戻りください!! ここは──!!」
突如鳴り響いた重厚感のある音が少女の声を遮った。
おそらく法螺貝だろう。前に観た映画でその音を聴いたことがある。
すぐに男達の物々しい雄叫びが近付いてきた。
「兵士が来ましたよ!! 安全なところへ身を隠しましょう!!」
「や、やだ!! 戻りたくない!! 早く家に帰りたいの!!」
引かれた手を振り払い、その場に縮こまった。
少女が息を飲んで見張っているのが伝わってくる。
「────どこに?」
顔を上げると、少女はその大きな目で葵を見つめている。驚きというよりも、同情しているような表情だ。
「どこに帰るというんです?」
声色には哀愁が込められている。
「帰る場所など……」
「私にはある!! お母さんも友達もいるもの!! きっと私を心配してる!!」
葵は噛み付くように言い返した。
身の内で渦巻いていた感情が、堰を切ったように溢れ出た。
少女は口を閉ざし、ただじっと葵を見つめている。
「巫女がどうだとか、私には関係ないし!! 巻き込まないでよ!! 私は帰りたいの!!」
この少女こそ無関係だというのに、全ての憤りをぶつける。八つ当たりだ。
だが、少女は怒るどころか、慈愛に満ちた微笑みを向けている。
「私は、紗華と申します」
「……葵」
「葵様、素敵な名でございますね」
紗華は周囲を見回したあと、数メートル離れたところに建っている小屋を指さした。耐久性は期待出来ない見た目だが、背の高い家に囲まれていて、あまり目立たない。
「あそこまで走りましょう! 大丈夫です。私がついていますから!」
同年代の女の子なのに、この状況で落ち着いているうえに、他人を気遣う余裕を見せつけられ、葵は取り乱していた自分が恥ずかしくなった。
上空を伺い、妖獣が通り過ぎた隙に二人で全力で走った。その間も紗華は葵を庇うように後ろに付いている。
走ってほんの数秒の距離なのに、とてつもなく長く感じる。
(────もう少し!)
突如前から突風が吹き荒れ、巨大な鷹が降り立った。驚いて尻もちを着いた葵を飲み込もうと、またあの鋭く大きな嘴が迫る。
「葵様!!」
悲鳴をあげる間もなく、葵は目を閉じた。
道の真ん中で親とはぐれた子供が泣いている。けれども誰も、他人を庇う余裕はない。
中心部の方からは鐘の音が忙しなく鳴り続けている。おそらく、この国での警報なのだろう。
葵は、川に浸かったまま動けずにいた。目の前の妖獣から目を逸らせない。少しでも動いたら丸呑みされると、本能が告げている。
なんとか川から上がらなければと、少しずつ後退していく。緩やかに流れる川の色が濁っていることに気が付いた。木屑に混じって生活用品や着物なども流れてくる。
とん、と重みのある塊が葵の腕にぶつかった。
葵はそれを柔らかいマネキンだと思った。それが幾つもぷかぷか浮かんで流れてくる。五体が揃わず、不完全なものも少なくない。なんともシュールな光景だった。
葵はそのうちの一体を目で追っていた。見慣れないものを受け入れるまで時間を要したのだ。
すぐに死肉の匂いがつんと鼻をついて、ようやく川を染めているものが何なのかを理解した。
恐ろしさのあまり、悲鳴をあげるまで自分を狙う妖獣のことをすっかり忘れていた。
気づいた時には獣の口が目前に迫り、葵の頭を吸い込もうとしていた。
(────死……)
それを本当の意味で理解したと同時に、視界が暗転した。
人生の終わりには走馬燈が見えるというが、あれは嘘だ。葵には見えなかった。死に際に見せる程の内容などなかっただけかもしれないが。
しかしすぐに視界が開けた。その先には鮮やかな血が降り注ぎ、胸焼けをおこすような生臭さに嘔吐した。
(た、食べられたかと思った……)
確かに喰われたのだが、通り道だったはずの鳥の頸はスッパリと斬り離され、赤黒い断面が葵の方を向いて転がっていた。
「本殿から出るなと、言ったはず」
やけに落ち着いた声がした。この地獄絵図のような惨状に似つかわしくないのに、妙にしっくりくる。
けれど、今は一番聞きたくない声だ。
「──リン……」
辺り一面の赤色では充分すぎるほど目立つ配色だ。
片手に握られた刀から獣の血が滴り、真っ白な水干についた返り血が生々しい。
リンは鳥頭の断面から頬に向かって刃を入れて切り開き、葵を解放した。
「どうして……?」
「本殿の周りは断崖絶壁。外へ出る道は正面しかない。それに私が居た書庫からは楼門がよく見える」
(最初から全部見られてたのか……!!)
手を差し伸べられたが、罰が悪いのと悔しさで躊躇してからその手をとろうとした。
しかし互いの手は重なることはなく、葵は首根っこを掴まれて網に掛かった魚の如く引き上げられた。
首が締まって「うぐっ!!」と呻き声を漏らす。
「だから雑なんだって!! なんでそこ掴むの!?」
「巫女には触れたくない」
「人を汚いものみたいに……!?」
確かに血や諸々で汚れてはいるが、そんな言い方しなくてもいいじゃないか。
不満を眼で訴えるが、相手は気に留める様子もなく、紐の端を咥えて器用に襷をかけている。
「社に戻るぞ。決して離れるな」
「でもまだバケモノが!!」
あんな大きな獣を一発で仕留めたなら、襲われている人々を助けられるはず。そこらじゅうで
「それは私の仕事ではない」
「……な、何言ってんの? あんた神子なんでしょう!?」
耳を疑った。仮にもこの国を納める王の息子から出た台詞とは思えない。
「巫女の命が最優先。大勢を庇いながらお前を護れる程、妖獣狩りは容易ではないよ」
「私はもう助かったから、他の人を──」
「たとえ己の命にかえようとも、災蝕まで巫女を護り抜く事、それがおくり子の役目の一つ。私とて例外ではない」
「でも人が死んでるのに!!」
「ならばなおさら今は堪えろ。お前が災蝕を止めれば妖獣もいなくなる。さすれば大勢の命を救えるのだ」
ピシャリと切り捨てられ、また猫でもつまみ上げるように襟を掴まれた。
知らない世界で、わけのわからない災害を止めろだなんて押し付けられたって、ただの学生に何が出来るというのか。
(今だって喰われそうだったんだ! ────こんな怖い思い、二度とごめんだ!!)
立ち上がらせようと引っ張られた瞬間、思いっきりリンに体当たりをすると、不意をつかれたリンは川へ落ちた。
「だから私には無理なんです!!」
水に浸かったままのリンに捨て台詞をはくと、葵は振り返らずに全速力で退散した。
***
残されたリンは、受けた仕打ちに胃が沸騰するのを感じていた。
「────おのれ、あの女……」
ギリッと奥歯が音を立てる。
この屈辱は倍で返してやろう。けれど今は、役目を果たさなければならない。
(逃げられやしない)
リンは自信があった。
誰ひとりとして、自分から逃げ仰せた者はいない。そしてそれは葵も例外ではないのだ。
***
きっと今頃、リンは怒り狂っていることだろう。次捕まったらきっとただでは済まない。
(妖獣も怖いけど、あいつのがめちゃくちゃ怖い……!!)
もう捕まるわけにはいかない。
二度と追いつかれないよう、狭い路地を縫うように駆け抜ける。
うまく距離を離したはいいが、初めての村で、こうも建物が入り組んでいては、迷子になるのにも時間はかからなかった。さっそく行き場を失うが、それでも目の届く所では人が死んでいる。見たくないものばかりが目につく。
突然、前方から妖獣が急降下してきたので、葵は咄嗟に伏せた。間一髪、爪が髪を掠った程度で済んだが、代わりに後ろで逃げ惑っていた男が捕まり、空へ攫われていった。もう一匹の妖獣が餌を横取りしようと襲いかかり、上空で奪い合った末に手足が裂け、一番大きな肉塊は喰い損ねる結果となった。
恐ろしさのあまり物陰に身を潜め、震える体を抱くようにして蹲った。
耳を塞いでも、人々の泣き叫ぶ声を完全に遮ることは出来ない。
生身の人間が次々と餌食になっていく。血肉が裂ける耳障りな音が、葵の精神を追い詰める。
次は自分だ、と死が迫っているのを本能で感じる。
一度味わった死の恐怖は、確実に胸に刻まれていた。
「嘘だ……こんな、こんなの……」
こんな惨状を目の当たりにしてようやく、今居る場所が自分の知っている日本ではないことを理解した。
「そこの方! 大丈夫ですか?」
「──いやっ!!」
突然、誰かに肩を掴まれ、反射的にそれを振り払った。完全にパニックを起こしていた。
顔を上げると、同じ年頃の少女が、心配そうに葵の顔を覗き込んでいる。着ている着物は色褪せているうえに土埃で汚れおり、裾は脛あたりで破れている。
少女は葵の腕を掴んで立たせると、驚愕したように目を見開いた。上から下、そしてまた上へと視線を移らせた。
「まさか、巫女様──!? なぜこのようなところに!?」
「えっ?」
「ここへ来てはいけません!! 早く本殿へお戻りください!! ここは──!!」
突如鳴り響いた重厚感のある音が少女の声を遮った。
おそらく法螺貝だろう。前に観た映画でその音を聴いたことがある。
すぐに男達の物々しい雄叫びが近付いてきた。
「兵士が来ましたよ!! 安全なところへ身を隠しましょう!!」
「や、やだ!! 戻りたくない!! 早く家に帰りたいの!!」
引かれた手を振り払い、その場に縮こまった。
少女が息を飲んで見張っているのが伝わってくる。
「────どこに?」
顔を上げると、少女はその大きな目で葵を見つめている。驚きというよりも、同情しているような表情だ。
「どこに帰るというんです?」
声色には哀愁が込められている。
「帰る場所など……」
「私にはある!! お母さんも友達もいるもの!! きっと私を心配してる!!」
葵は噛み付くように言い返した。
身の内で渦巻いていた感情が、堰を切ったように溢れ出た。
少女は口を閉ざし、ただじっと葵を見つめている。
「巫女がどうだとか、私には関係ないし!! 巻き込まないでよ!! 私は帰りたいの!!」
この少女こそ無関係だというのに、全ての憤りをぶつける。八つ当たりだ。
だが、少女は怒るどころか、慈愛に満ちた微笑みを向けている。
「私は、紗華と申します」
「……葵」
「葵様、素敵な名でございますね」
紗華は周囲を見回したあと、数メートル離れたところに建っている小屋を指さした。耐久性は期待出来ない見た目だが、背の高い家に囲まれていて、あまり目立たない。
「あそこまで走りましょう! 大丈夫です。私がついていますから!」
同年代の女の子なのに、この状況で落ち着いているうえに、他人を気遣う余裕を見せつけられ、葵は取り乱していた自分が恥ずかしくなった。
上空を伺い、妖獣が通り過ぎた隙に二人で全力で走った。その間も紗華は葵を庇うように後ろに付いている。
走ってほんの数秒の距離なのに、とてつもなく長く感じる。
(────もう少し!)
突如前から突風が吹き荒れ、巨大な鷹が降り立った。驚いて尻もちを着いた葵を飲み込もうと、またあの鋭く大きな嘴が迫る。
「葵様!!」
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