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第一章
咎人
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痛みは来なかった。
代わりに、獣の甲高い断末魔が耳を劈き、葵が目を開けると、鷹の長い首に矢が刺さっていた。
続けて二本、三本と矢が襲い、獣は巨体を捩った。
「今のうちに!」
紗華に腕を引かれ、もつれる足でなんとかバランスを取り直すと、地団駄をふむ獣の足を避け、小屋へ一直線に走った。
小屋に駆け込むと、紗華は隅に立て掛けてあった鍬を手に取り、戸につっかえをした。
そのまま二人で戸にもたれながら息を整える。
足の裏を傷つけたのか、ジンジンと傷んだ。
(そういえば、裸足で出てきちゃった……)
見つかる前にと、急いでいたから気が付かなかった。
二つ目の門までは床も綺麗だったから違和感がなかったが、これ以上村の中を裸足で駆けずり回るのは無理だ。
(それにあんなのに追いかけられたら──)
大きさも規格外だが、あの凶暴性は異常だ。
この国はあんなのがいつも襲ってくるのだろうか。
既にもう三度死にかけている。葵は身震いした。
(冗談じゃない!! こんなところ早く出たいのに──!!)
けれど、どうやって帰ったらいいのだろう。
ここが日本ではないとわかったのがついさっきだし、外へ出られたとしても路頭に迷うことになる。
葵の脱走計画は全て崩壊してしまったのだ。
(まあ、計画という程でもなかったけど……)
どっちにしても、帰る方法がわからなければどこへ行けばいいのかさえわからない。
考え込んでいると、紗華が葵に向き直った。
「ここから出ることは出来ませんよ」
「どうして!?」
「森は妖獣の餌場のようなもの。村を隔てる壁は高くてとても越えられない。それに門は特別な時以外は絶対に開きません」
「特別な時……?」
「巫女が下界の穢れを祓う為に、多くの兵を従えて下山します。その時だけ」
なるほど、と葵は希望を抱いた。ならばそれに紛れて脱出すればいい。
葵はずいっと前のめりになって訊ねた。
「それ、いつ!?」
だが紗華は目を伏せ、首を振った。
「年に四度。けれどここ十年、水波盛は巫女に恵まれていませんから……」
「なら、私がその巫女として下山すれば、後は隙をついて────」
いいえ、と紗華はやんわり否定した。
「嫁入りの儀式が先でしょう」
「嫁入り? なにそれ?」
「水神様に水巫女を捧げる儀式です。巫女を嫁がせることにより、水を浄化し、災蝕を防ぐのです」
「……ごめん、よくわんない」
なぜ嫁ぐことが天災を止めることに繋がるのか、水波盛の常識は理屈になっていない。
それでも紗華は、馬鹿にするような素振りは一切なく、懇切丁寧に説明をした。
「巫女はその命と引き換えに、人々の穢れを祓い、災蝕をも止めるのです」
「ま、待って待って‼︎ なにそれ!?」
思わず紗華に掴みかかった。
「命と引き換えって──!! 私、死ぬの!?」
愕然とする葵を見て、紗華は目を見張った。
「まさか……ご存知なかったのですか?」
「知らないよ!! いきなりこんな所に放り込まれたのに、そんなこと知るわけないじゃない!!」
紗華は不思議そうに首を傾げた。
「葵様はお社で育ったのではないのですか?」
「まさか!! 水波盛なんて全然聞いた事ないし、あんなバケモノだって見た事もないもの!!」
「では何故この国に?」
「わ、わかんない。でも井戸に落ちたところまでは覚えてる。それから気を失って、目が覚めたら本殿に居て……そしたら急に、水巫女だの災蝕を止めろだの言われて、本当わけわかんなくて……」
「井戸? そんなところからどうやって……」
葵は紗華の両肩をがしっと掴むと、食い入るように見つめた。
「とにかく私は、ずっと遠くの国から事故で流されてきたの!!」
紗華は難しい顔をして聞いていたが、すぐに葵に笑顔を向けた。
「わかりました。信じます」
「ほ、本当!? そんなすんなり?」
紗華は、はい、と頷く。
「通常、水巫女達は赤子のうちに社へ流れ着き、物心が着いた頃より巫女としての教育が成されます。でなくとも、下界の民ですら知っている基本的なことをご存知ない──。であれば、異国から来たと考えてもおかしくはないかと……」
なんて話のわかる人なんだろう、と感心していると、紗華は恥ずかしそうに頬を染めた。
「……というのは建前で、正直に申し上げますと、難しいことはよくわからないのです。けれど、葵様がそう仰るなら、きっとそうなのでしょう」
じーん、と熱いものが胸に込み上げる。
こんなありえない話を手放しで信じてくれたのだ。
「──ありがとう!! 紗華さん!!」
嬉しさのあまり、思わず紗華に抱きついた。
紗華は動揺していたが、遠慮がちに背中を優しく叩いてくれた。
弱った心に優しさが沁みて、涙が出た。
「葵様? 大丈夫ですか?」
急いで紗華から離れた。
血で濁った川に落ちたせいで赤黒く染った着物に目を落とす。
血生臭い匂いで、妖獣が喰い散らかした死体の光景を思い出し、また気分が悪くなった。
こんなひどい状態でくっ付いたら、紗華の着物にも汚れや匂いを移してしまう。
「抱きついたりしてごめんなさい、汚れてるのに……」
「決してそんなことは! その、私のほうこそ……」
紗華は恥ずかしそうに着物の裾を引っ張った。
今の今まで気が付かなかったが、紗華もまた裸足だった。葵と違って足裏が無傷なのは、ずっとその状態で過ごしてきたのだろう。それに同じ年代の少女達よりもかなり痩せていて、彼女の生活が相当困窮しているのが分かる。
(本殿の人達はあんなに裕福なのに……)
身分でこんなにも格差があるなんて、水波盛はいい国とは言えない。
葵はいたたまれない気持ちで目を伏せた。
「巫女のお役目を逃れたいですか?」
紗華が俯いたまま、ぽつりと言った。
葵の気持ちは決まっている。
「そんなの、死にたくないに決まってるじゃない!!」
「どうしても?」
「当たり前でしょう!!」
「それは……他者を犠牲にしてでもですか?」
「犠牲って、そんな大袈裟な──」
紗華の目は真剣だった。
葵も負けじと見つめ返し、強く言い放った。
「そうよ!!」
紗華は目を伏せ、「……わかりました」と呟いた。
「もしかして逃げ道があるの?」
紗華は首を振った。
「ただ、儀式を逃れる方法がない訳ではありません」
「ほ、本当!?」
「ええ。視憶の能力を捨てれば良いのです」
「────視憶なくせるの!?」
願ってもない話に、葵の心に希望の光が差した。
人柱を逃れられるうえに、長年葵を苦しめてきた枷を外せるのなら、まさに一石二鳥ではないか。
「ええ。……でも、視憶を捨てるということは、水巫女の資格を捨てることにもなります」
「こんなものいらない!! お願い、教えて!!」
手を合わせて懇願する葵に、紗華は眉尻を下げた。
それから覚悟を決めたように葵を見た。
「葵様、これはあくまで最後の手段だということを。肝に銘じてくださいませ」
「う、うん……」
葵の喉がゴクリと鳴る。
紗華は、そっと耳打ちをした。
その方法を聞いた途端、葵の顔は茹でダコのように真っ赤になった。
「それで、水巫女ではなくなります」
「む、無理だよ!! 無理無理!!」
考えただけで顔が熱くなる。
紗華は神妙な面持ちで声を落とした。
「けれど、これは賭けです。下手をすれば、死罪になるやもしれません……」
「──死罪!?」
葵が声を張り上げたので、紗華は慌てて「しー!」と、口の前で人差し指を立てた。
バクバクと鳴る胸に手を当てながら、ごめん、と謝ると、声を抑えて話を進める。
「でも死罪って……! あんまりじゃない!?」
紗華は真剣な眼差しで言い聞かせた。
「いいえ、決して。ですから────」
紗華は再び耳打ちをした。
その内容の酷さに、葵は思わずどん引きした。
とても紗華の発想とは思えない。
「そんな、そんなことしたら……」
動揺している葵に、紗華は念を押す。
その緊迫した声色で、葵は自分の置かれた状況が、考えていた以上に深刻であることを思い知った。
「決して良い方法ではありません。運良く生き延びたとしても、死ぬより辛い運命を強いられるかもしれません。……他人を踏台にするということは、そういう事です」
葵は静かに頷た。
覚悟を決めたわけではない。けれど、いつかは選ばなければならないだろう。
「それでも、どうしても親に会いたいのなら、まずは生き延びること。生きてさえいれば、いつか────」
小屋の戸板が乱暴な音をたてた。外に何かがいる。
葵と紗華は後退りし、警戒しながら鍬でつっかえをした戸を見守る。
(妖獣か、兵か────)
葵の頭の中に白い影がさした。
とてつもなく嫌な予感がする。
「あの、失礼を承知でお訊ねしますが……お付きのおくり子様は……?」
紗華は不安気な表情している。
いくら言動が大人びていても、怖いのは彼女も同じなのだろう。
「おくり子? リンっていうやつのこと?」
紗華の顔がみるみるうちに青ざめていく。
関わりたくないという気持ちはよく分かる。貧困層を放置しているような王族、嫌われて当然だ。
もう一度派手な音がして、戸板が破られた。
立っていたのは予想通りの人物だが、全身が赤黒く濁っていて、真っ白な部分は残されていない。村中駆けずり回ったのか、ひどく息切れもしている。
リンは葵を見るなり、青筋を浮かべてズカズカ近づいてきた。
息切れは怒りのせいかもしれない。
「────い、嫌!!」
恐ろしくなって後退すると、紗華が葵の前に割って入った。
紗華のまさかの行動に、葵は目を見張った。
庇ってくれたのだ。
「──ご、ご無礼を承知で、も、申し上げます……」
紗華の肩が、声が、ひどく震えている。
無理もない、お上にたてつくということがどういうことか、想像するまでもない。
リンが明らかに不快そうな表情をした。
「頭が高い」
たった一言、リンが言い放った。
紗華はすぐに跪こうと屈んだ瞬間、その横面を平手でぶった。痛々しい音が、小屋の外にまで響く勢いで鳴った。
紗華は踏ん張る事も許されず、横へ倒れた。
「咎人が口を挟むな」
葵は手が震えているのに気がついた。既に恐怖はなかった。新たに湧き出た感情が恐怖をのみ込んで、別のものへと変えてしまった。
憎悪だ。怒りで体が震えるのは初めてだった。
「何すんのよ!!」
怒り任せにリンの体を殴りつけるが、華奢な見た目に反して硬い身体はビクともしない。
「罪人が口をきくなど、斬り捨てても文句は言えまい」
(……罪人? 誰が?)
葵は倒れたままの紗華を見た。
紗華が罪人? こんなに優しい人が? 身を呈して助かる方法を教えてくれて、たった今も庇ってくれたのに?
「そんなはずない!! どうせあんた達が理不尽に罪を擦り付けたんだ!!」
リンを睨んで、強く否定した。
「貧民街に住む奴は皆、何らかの罪を侵している。その女も例外ではない」
「仮にそうだとしても、どうせ些細な──」
「そいつは人を殺した」
その言葉に葵は少しだけ動揺した。
それを見抜いてか、リンが追い討ちをかけるように付け加える。
「それも、一人や二人ではない」
信じたわけではない。信じるはずもないが、葵は確認するように紗華を見た。
赤く腫れ上がった頬を抑え、涙をこぼしている。
紗華が首を横に振れば、強く抗議してやろうと思っていた。
しかし、紗華は唇を噛み、葵から目を逸らした。
(そんな……そんなはずない!!)
葵は頭の中で必死に紗華を擁護するが、胸の内では疑心暗鬼になっていた。
「……きっと、事情があったんだ。──そうだ、事故かなにかで……」
「もう過ぎたこと。今更掘り返すこともなかろう」
リンはピシャリと切り捨てると、葵の腕を引く。
咄嗟に両脚を踏ん張って抵抗した。
「嫌!! 戻らない!! 絶対に戻らな────っ!!」
急に息が出来なくなった。
溝落ちに激痛が走り、殴られたのだと知ったが、考える間もなくそのまま意識を手放した。
代わりに、獣の甲高い断末魔が耳を劈き、葵が目を開けると、鷹の長い首に矢が刺さっていた。
続けて二本、三本と矢が襲い、獣は巨体を捩った。
「今のうちに!」
紗華に腕を引かれ、もつれる足でなんとかバランスを取り直すと、地団駄をふむ獣の足を避け、小屋へ一直線に走った。
小屋に駆け込むと、紗華は隅に立て掛けてあった鍬を手に取り、戸につっかえをした。
そのまま二人で戸にもたれながら息を整える。
足の裏を傷つけたのか、ジンジンと傷んだ。
(そういえば、裸足で出てきちゃった……)
見つかる前にと、急いでいたから気が付かなかった。
二つ目の門までは床も綺麗だったから違和感がなかったが、これ以上村の中を裸足で駆けずり回るのは無理だ。
(それにあんなのに追いかけられたら──)
大きさも規格外だが、あの凶暴性は異常だ。
この国はあんなのがいつも襲ってくるのだろうか。
既にもう三度死にかけている。葵は身震いした。
(冗談じゃない!! こんなところ早く出たいのに──!!)
けれど、どうやって帰ったらいいのだろう。
ここが日本ではないとわかったのがついさっきだし、外へ出られたとしても路頭に迷うことになる。
葵の脱走計画は全て崩壊してしまったのだ。
(まあ、計画という程でもなかったけど……)
どっちにしても、帰る方法がわからなければどこへ行けばいいのかさえわからない。
考え込んでいると、紗華が葵に向き直った。
「ここから出ることは出来ませんよ」
「どうして!?」
「森は妖獣の餌場のようなもの。村を隔てる壁は高くてとても越えられない。それに門は特別な時以外は絶対に開きません」
「特別な時……?」
「巫女が下界の穢れを祓う為に、多くの兵を従えて下山します。その時だけ」
なるほど、と葵は希望を抱いた。ならばそれに紛れて脱出すればいい。
葵はずいっと前のめりになって訊ねた。
「それ、いつ!?」
だが紗華は目を伏せ、首を振った。
「年に四度。けれどここ十年、水波盛は巫女に恵まれていませんから……」
「なら、私がその巫女として下山すれば、後は隙をついて────」
いいえ、と紗華はやんわり否定した。
「嫁入りの儀式が先でしょう」
「嫁入り? なにそれ?」
「水神様に水巫女を捧げる儀式です。巫女を嫁がせることにより、水を浄化し、災蝕を防ぐのです」
「……ごめん、よくわんない」
なぜ嫁ぐことが天災を止めることに繋がるのか、水波盛の常識は理屈になっていない。
それでも紗華は、馬鹿にするような素振りは一切なく、懇切丁寧に説明をした。
「巫女はその命と引き換えに、人々の穢れを祓い、災蝕をも止めるのです」
「ま、待って待って‼︎ なにそれ!?」
思わず紗華に掴みかかった。
「命と引き換えって──!! 私、死ぬの!?」
愕然とする葵を見て、紗華は目を見張った。
「まさか……ご存知なかったのですか?」
「知らないよ!! いきなりこんな所に放り込まれたのに、そんなこと知るわけないじゃない!!」
紗華は不思議そうに首を傾げた。
「葵様はお社で育ったのではないのですか?」
「まさか!! 水波盛なんて全然聞いた事ないし、あんなバケモノだって見た事もないもの!!」
「では何故この国に?」
「わ、わかんない。でも井戸に落ちたところまでは覚えてる。それから気を失って、目が覚めたら本殿に居て……そしたら急に、水巫女だの災蝕を止めろだの言われて、本当わけわかんなくて……」
「井戸? そんなところからどうやって……」
葵は紗華の両肩をがしっと掴むと、食い入るように見つめた。
「とにかく私は、ずっと遠くの国から事故で流されてきたの!!」
紗華は難しい顔をして聞いていたが、すぐに葵に笑顔を向けた。
「わかりました。信じます」
「ほ、本当!? そんなすんなり?」
紗華は、はい、と頷く。
「通常、水巫女達は赤子のうちに社へ流れ着き、物心が着いた頃より巫女としての教育が成されます。でなくとも、下界の民ですら知っている基本的なことをご存知ない──。であれば、異国から来たと考えてもおかしくはないかと……」
なんて話のわかる人なんだろう、と感心していると、紗華は恥ずかしそうに頬を染めた。
「……というのは建前で、正直に申し上げますと、難しいことはよくわからないのです。けれど、葵様がそう仰るなら、きっとそうなのでしょう」
じーん、と熱いものが胸に込み上げる。
こんなありえない話を手放しで信じてくれたのだ。
「──ありがとう!! 紗華さん!!」
嬉しさのあまり、思わず紗華に抱きついた。
紗華は動揺していたが、遠慮がちに背中を優しく叩いてくれた。
弱った心に優しさが沁みて、涙が出た。
「葵様? 大丈夫ですか?」
急いで紗華から離れた。
血で濁った川に落ちたせいで赤黒く染った着物に目を落とす。
血生臭い匂いで、妖獣が喰い散らかした死体の光景を思い出し、また気分が悪くなった。
こんなひどい状態でくっ付いたら、紗華の着物にも汚れや匂いを移してしまう。
「抱きついたりしてごめんなさい、汚れてるのに……」
「決してそんなことは! その、私のほうこそ……」
紗華は恥ずかしそうに着物の裾を引っ張った。
今の今まで気が付かなかったが、紗華もまた裸足だった。葵と違って足裏が無傷なのは、ずっとその状態で過ごしてきたのだろう。それに同じ年代の少女達よりもかなり痩せていて、彼女の生活が相当困窮しているのが分かる。
(本殿の人達はあんなに裕福なのに……)
身分でこんなにも格差があるなんて、水波盛はいい国とは言えない。
葵はいたたまれない気持ちで目を伏せた。
「巫女のお役目を逃れたいですか?」
紗華が俯いたまま、ぽつりと言った。
葵の気持ちは決まっている。
「そんなの、死にたくないに決まってるじゃない!!」
「どうしても?」
「当たり前でしょう!!」
「それは……他者を犠牲にしてでもですか?」
「犠牲って、そんな大袈裟な──」
紗華の目は真剣だった。
葵も負けじと見つめ返し、強く言い放った。
「そうよ!!」
紗華は目を伏せ、「……わかりました」と呟いた。
「もしかして逃げ道があるの?」
紗華は首を振った。
「ただ、儀式を逃れる方法がない訳ではありません」
「ほ、本当!?」
「ええ。視憶の能力を捨てれば良いのです」
「────視憶なくせるの!?」
願ってもない話に、葵の心に希望の光が差した。
人柱を逃れられるうえに、長年葵を苦しめてきた枷を外せるのなら、まさに一石二鳥ではないか。
「ええ。……でも、視憶を捨てるということは、水巫女の資格を捨てることにもなります」
「こんなものいらない!! お願い、教えて!!」
手を合わせて懇願する葵に、紗華は眉尻を下げた。
それから覚悟を決めたように葵を見た。
「葵様、これはあくまで最後の手段だということを。肝に銘じてくださいませ」
「う、うん……」
葵の喉がゴクリと鳴る。
紗華は、そっと耳打ちをした。
その方法を聞いた途端、葵の顔は茹でダコのように真っ赤になった。
「それで、水巫女ではなくなります」
「む、無理だよ!! 無理無理!!」
考えただけで顔が熱くなる。
紗華は神妙な面持ちで声を落とした。
「けれど、これは賭けです。下手をすれば、死罪になるやもしれません……」
「──死罪!?」
葵が声を張り上げたので、紗華は慌てて「しー!」と、口の前で人差し指を立てた。
バクバクと鳴る胸に手を当てながら、ごめん、と謝ると、声を抑えて話を進める。
「でも死罪って……! あんまりじゃない!?」
紗華は真剣な眼差しで言い聞かせた。
「いいえ、決して。ですから────」
紗華は再び耳打ちをした。
その内容の酷さに、葵は思わずどん引きした。
とても紗華の発想とは思えない。
「そんな、そんなことしたら……」
動揺している葵に、紗華は念を押す。
その緊迫した声色で、葵は自分の置かれた状況が、考えていた以上に深刻であることを思い知った。
「決して良い方法ではありません。運良く生き延びたとしても、死ぬより辛い運命を強いられるかもしれません。……他人を踏台にするということは、そういう事です」
葵は静かに頷た。
覚悟を決めたわけではない。けれど、いつかは選ばなければならないだろう。
「それでも、どうしても親に会いたいのなら、まずは生き延びること。生きてさえいれば、いつか────」
小屋の戸板が乱暴な音をたてた。外に何かがいる。
葵と紗華は後退りし、警戒しながら鍬でつっかえをした戸を見守る。
(妖獣か、兵か────)
葵の頭の中に白い影がさした。
とてつもなく嫌な予感がする。
「あの、失礼を承知でお訊ねしますが……お付きのおくり子様は……?」
紗華は不安気な表情している。
いくら言動が大人びていても、怖いのは彼女も同じなのだろう。
「おくり子? リンっていうやつのこと?」
紗華の顔がみるみるうちに青ざめていく。
関わりたくないという気持ちはよく分かる。貧困層を放置しているような王族、嫌われて当然だ。
もう一度派手な音がして、戸板が破られた。
立っていたのは予想通りの人物だが、全身が赤黒く濁っていて、真っ白な部分は残されていない。村中駆けずり回ったのか、ひどく息切れもしている。
リンは葵を見るなり、青筋を浮かべてズカズカ近づいてきた。
息切れは怒りのせいかもしれない。
「────い、嫌!!」
恐ろしくなって後退すると、紗華が葵の前に割って入った。
紗華のまさかの行動に、葵は目を見張った。
庇ってくれたのだ。
「──ご、ご無礼を承知で、も、申し上げます……」
紗華の肩が、声が、ひどく震えている。
無理もない、お上にたてつくということがどういうことか、想像するまでもない。
リンが明らかに不快そうな表情をした。
「頭が高い」
たった一言、リンが言い放った。
紗華はすぐに跪こうと屈んだ瞬間、その横面を平手でぶった。痛々しい音が、小屋の外にまで響く勢いで鳴った。
紗華は踏ん張る事も許されず、横へ倒れた。
「咎人が口を挟むな」
葵は手が震えているのに気がついた。既に恐怖はなかった。新たに湧き出た感情が恐怖をのみ込んで、別のものへと変えてしまった。
憎悪だ。怒りで体が震えるのは初めてだった。
「何すんのよ!!」
怒り任せにリンの体を殴りつけるが、華奢な見た目に反して硬い身体はビクともしない。
「罪人が口をきくなど、斬り捨てても文句は言えまい」
(……罪人? 誰が?)
葵は倒れたままの紗華を見た。
紗華が罪人? こんなに優しい人が? 身を呈して助かる方法を教えてくれて、たった今も庇ってくれたのに?
「そんなはずない!! どうせあんた達が理不尽に罪を擦り付けたんだ!!」
リンを睨んで、強く否定した。
「貧民街に住む奴は皆、何らかの罪を侵している。その女も例外ではない」
「仮にそうだとしても、どうせ些細な──」
「そいつは人を殺した」
その言葉に葵は少しだけ動揺した。
それを見抜いてか、リンが追い討ちをかけるように付け加える。
「それも、一人や二人ではない」
信じたわけではない。信じるはずもないが、葵は確認するように紗華を見た。
赤く腫れ上がった頬を抑え、涙をこぼしている。
紗華が首を横に振れば、強く抗議してやろうと思っていた。
しかし、紗華は唇を噛み、葵から目を逸らした。
(そんな……そんなはずない!!)
葵は頭の中で必死に紗華を擁護するが、胸の内では疑心暗鬼になっていた。
「……きっと、事情があったんだ。──そうだ、事故かなにかで……」
「もう過ぎたこと。今更掘り返すこともなかろう」
リンはピシャリと切り捨てると、葵の腕を引く。
咄嗟に両脚を踏ん張って抵抗した。
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