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第一章
神獣
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「まあ、なんて美しいのでしょう!」
「とてもよくお似合いですよ、葵様」
入浴を済ませた葵は、別室に連れられていき、そこで白無垢を着させられた。
着付けしながら、素朴な疑問を抱く。
「────なぜ白無垢?」
「婚礼の儀にございますゆえ」
「え……私、結婚するの? 生贄でしょう?」
「生贄だなんてとんでもない!! 水神様のもとへ嫁がれるのですよ」
(それを生贄っていうんだよ)
ものは言いようだな、と身の内でごちる。
別に婚礼という形じゃなくてもよいのではないか。
こちらとしては嫁ぎたくて供物になるわけじゃない。
菊乃と志津は、着付けだけでなく、髪結いや化粧まで一通りできるらしく、慣れた手つきでこなしていく。
正確な時間はわからないが、おそらく小一時間ほどだろうか。葵の身支度は整った。
渡された手鏡を覗き込むと、そこには夢に出てきたあの気味の悪い花嫁にそっくりな姿が映っていて、背筋がゾッとする。
あの夢は、こうなる運命を予言していたのだろうか。
「葵様、わたくし達のお役目はここまでになります」
「────え?」
菊乃は寂しげに微笑った。
「葵様のお世話をできましたこと、わたくしは誇りに思います」
菊乃と志津はそろって頭を下げた。
「──あ、ありがとうございます。菊乃さん、志津さん……」
これが今生の別れとなるのに、気の利いた言葉が思い浮かばない。
「────お支度は整いましたかの?」
しわがれ声に呼ばれて振り向くと、派手な装飾で着飾った皺くちゃの老婆が、杖をついて立っていた。
真っ白な着物と袴に紅色の首飾りが何重にも巻かれている。いかにも胡散臭そうな、大昔の占い師のような格好だ。
(────シュールだ……)
いつの間に居たのだろう。
「ここからは、わしが案内を務めまする」
仁王立ちのまま軽く頭を下げた。
色々とツッコミどころ満載だが、そうしなかったのは、諦めがついたせいもあるだろう。
(慣れちゃうと、何でも受け流せるのもなんだなあ)
「──では水巫女様、参りましょうぞ」
老婆に導かれるままに部屋を後にする。二人の巫女姿の少女が、葵の後ろに並んで続いた。
(これが花嫁道中ってやつか)
決して望んだことではないのに、いざ体験してみると本当に結婚するみたいで緊張する。
本当に夫となる人が待っていてくれているような気さえしてきた。血の繋がった家族には会えないが、これからは自分の手で作るのだという、そんな幸福な妄想まで浮かぶ。
葵にとって花嫁というのは、そんな特別な感情を抱かせるほど、強烈な何かがあった。
後ろを歩く巫女達は、からの三方を手にしている。
なぜ空なのかも気になったが、それよりも自分と同じ年頃で巫女姿の女の子を見たのは初めてだったので、葵は思わず声をかけた。
「あなた達も巫女なの?」
話しかけられた少女たちは、ぎょっと目を見開くと慌ててうつむいた。
「その二人は水巫女ではありませぬ」
代わりに先頭を歩く老婆が答えた。
葵は前に向き直って、老婆の後頭部を見ていると、老婆は振り返ることなく、言葉を続けた。
「不運なことに水波盛は巫女不足でしての。そこの二人はただの代役ゆえ、決して声を掛けませぬよう」
「なぜですか?」
「身なりは巫女とはいえ、中身は下級下女にございますゆえ……ちょうど良い年頃の生娘がおらなんだ……まったく、若いもんは節操がないのう……」
老婆は独り言のようにように愚痴った。
振り返ると、二人の下女は顔を赤らめて俯いている。
(婆さん、ナチュラルにばらすなよ……)
デリカシーの欠片もないな、といたたまれない気持ちになったが、どう声をかけていいものかもわからず、結局何も言えずじまいとなった。
「水神様はあらゆる穢れを受け入れて下さる…… 」
歩幅を合わせながら歩いていると、老婆が淡々とした口調で話し出した。
「穢れとは恐ろしいもの。人を不治の病にかけ、多くが命を落とす。その死体を喰った動物は妖獣と化す。妖獣が増えれば、餌を求めて人里を襲う。────ゆえに、水神様に穢れを浄化して頂くのです」
そういえば、逃げることに必死で儀式の意味を聞いたことがなかった。
葵は静かに老婆の話に耳を傾ける。
「だがの、水神様とて穢れを受け入れるにも限界がおありなのです。どんなに大きな器でも、水を入れすぎると溢れてしまう。────これが災蝕という天災なのでございます」
そういえば、リンが地震を予兆だと言っていた。
妖獣の襲撃があったのはその後だったが、それも予兆のひとつだったのだろうか。
「それを防ぐため、清純な巫女を奉納し、微力ながら水神様のお力添えをする。────夫婦として共に穢れを背負ってゆくのです。この婚礼の儀とは、そういう意味があるのでございます」
(だから白無垢なのか……)
ようやく婚礼の形式をとる意味を理解できた。
同時に、こんな悲しい結婚式があってたまるか、とも思った。
「穢れはもともと人の中にあるものじゃ。誰もがその種を持っておる。それが芽吹き、病にかかれば水神様に清めていただくしか助かる方法はない……」
その悪い芽を詰んで保管するのが巫女の役割、というのは紗華からも聞いている。
水巫女なんて、生きていてもいいこと一つもないじゃないか。だったら、赤ん坊の頃に死んでおいた方がよっぽど良かった。
葵が己の運命を呪っていると、老婆はどこか諌めるような口調で言った。
「水波盛は水神様によって繁栄した国。決して、信仰を蔑ろにするようなことはあってはなりませぬ」
それからは、先が見えないほど長く薄暗い通路を、黙々と歩いた。着物のせいで歩幅が狭くなったせいもあって、永遠と辿り着けない気さえしてくる。
着物が重い。
どうせなら一生に一度、ウエディングドレスを着てみたかったというのが本音だ。
(結婚なんて、まだまだ先だと思ってたのに。それも相手は人間じゃないなんて……)
やがて朱色の鳥居が見えてきた。
鳥居の奥は洞窟になっている。
老婆に促されて鳥居をくぐると、そこには体長が二メートルほどもある大きな獣が、四肢を折って体を休めていた。
顔のまわりにうねった髭をふんだんに蓄え、風貌はまるで獅子のようだが、潰れた鼻はブルドッグの類いに似ている。
「──よ、妖獣!?」
村を襲った鳥の獣、あの恐怖が記憶がよみがえる。
葵は警戒しながら後退すると、老婆が落ち着いた口調で訂正した。
「これは神獣にございます」
「……し、神獣?」
「神に使える、とても神聖な生き物でございます。何種類か存在しますが、この社では狛犬が仕えております」
「狛犬って……、そんなの架空の生き物でしょう?」
「いいえ、現に目の前におります」
冗談かとも思ったが、誰一人笑う様子もない。
狛犬は重たそうに頭を持ち上げると、巨大な足で耳の裏側を掻いた。それからその足の匂いをクンクン嗅ぐと、フンッと汽車のように鼻息を吐き出した。
そして満足したのか、再び頭を下げてウトウトしている。
(これが神聖? 普通に犬じゃん……!!)
なんとも緊張感のないその態度に、葵は気が抜けた。
後ろに控えていた下女たちが伏礼をすると、老婆が狛犬の前にひざまづき、二度ほど深く頭を下げた。
それでも狛犬は、興味無さそうに顔を背けて動こうとしない。
「さあ巫女様、お乗りくださいませ」
「──え゛っ!?」
老婆の言葉に、自分でもどこから出したのか分からないような、汚い声を出してしまった。
菊乃から特別な乗り物があるとは聞いていたが、これのことだったのか。
しかし、狛犬には手網もなにもついていないのに、乗りこなせるとは思えない。
「あのー……私、乗馬の経験すらないんですけど……」
「問題ございませぬ」
「でも…… 」
「跨るだけでございます」
「……」
少しもアドバイスにもなっていないことに、言葉を失う。
急に狛犬がむくりと立ち上がり、葵の傍へのそのそと近寄ると、匂いを嗅ぎだした。
敵意は無さそうだが、万が一、噛まれでもしたらひとたまりもない。
緊張で全身の筋肉が強ばった。
しかし狛犬はゴロンとひっくり返り、無防備に腹をさらけ出した。
舌までだらしなく垂らしている間抜け面の獣が、伝説上の神獣だなんてとても信じられない。
それでもこの緊張感のない態度に、ほんの少しだけ心が救われた。
腰を落とすと、その無防備なお腹を優しく撫でてみる。
(────も、もふもふ……!!)
「──名前、なんて言うんですか?」
「名前はございませぬ」
「ここで飼ってるんでしょ?」
「な、なんと畏れ多い!!」
何気なく言った〝飼っている〟という言葉に、その場の全員が目玉が飛び出そうになるくらい目をひん剥いた。
「神獣は自然に寄り付くもの。最も神聖な社を自身で選び、自身の意思で身を置くのでございます。わたくし共はその宿り木に相応しく在るよう、社を管理するのでございます」
「それって、いつ居なくなってもおかしくないって事ですか?」
「左様にございます」
そんな会話をよそに、狛犬はグネグネと身をよじりながら、葵の手にじゃれついている。
甘噛みされたせいで、撫でている手はベトベトだ。
(涎の量が……エグい…… )
苦笑いしながら飼い犬のように遊んでやっていると、痺れを切らした老婆が、束の間の癒しに終止符をうった。
「──巫女様、そろそろ」
老婆の一声で狛犬は飛び起きると、四肢を折り曲げて葵の前に伏せた。
表情はダルそうだが、仕事はしっかりこなすらしい。
(生贄を運んでるって、わかってなさそうだな……)
葵よりも先に、老婆がまたがった。
「──巫女様はわしの後ろに」
葵はなんとか狛犬に乗ろうとしたが、着物が脚の可動域を制限し、乗馬のように跨ぐことができない。
葵は少し悩んで、横向きに座るようにして身体を預けた。
葵の体重が掛かると、狛犬はゆっくり立ち上がった。
「では水巫女様、しっかりとおつかまりください」
「────はい……うわっ!?」
急に狛犬が駆け出したので、慌ててしがみついた。
「は、早っ……もっとゆっくり──!!」
てっきり来た道を戻るのかと思っていたが、真っ暗な洞窟を一直線に駆け抜けると、先に見えた光の中へ飛び出した。
視界がひらけて、晴天の空が広がった。
だが、それを堪能する間もなく体が反転し、強制的に空を見上げる状態となった。
今、自分がどうなっているのかわからない。意に反して首を後ろにまわす────。
「ぎゃああああああああああ!!!!!!!!」
見たことを後悔した。
下は霧がさえぎっているせいで見えなかったが、どうなっているのかはすぐに理解できた。
遮っているのは雲だ。
葵は雲よりもずっと高い場所にいて、狛犬は御神山の断崖絶壁を駆け上がっているのだ。
「いやああああああああ!!!!!!!! 死ぬ死ぬ死ぬー!! まじ死ぬって──!!!!!!!!」
「巫女様、そんなに暴れられては転げ落ちますぞ」
「────それマジ冗談になってないからー!!」
恐怖と不安で震えながら、腕の力だけは緩めまいと、強く、強くしがみつく。
ぎゅっと目をつむり、ひたすら恐怖に耐え続けている間、御神山には悲鳴が延々と響き渡っていた。
「とてもよくお似合いですよ、葵様」
入浴を済ませた葵は、別室に連れられていき、そこで白無垢を着させられた。
着付けしながら、素朴な疑問を抱く。
「────なぜ白無垢?」
「婚礼の儀にございますゆえ」
「え……私、結婚するの? 生贄でしょう?」
「生贄だなんてとんでもない!! 水神様のもとへ嫁がれるのですよ」
(それを生贄っていうんだよ)
ものは言いようだな、と身の内でごちる。
別に婚礼という形じゃなくてもよいのではないか。
こちらとしては嫁ぎたくて供物になるわけじゃない。
菊乃と志津は、着付けだけでなく、髪結いや化粧まで一通りできるらしく、慣れた手つきでこなしていく。
正確な時間はわからないが、おそらく小一時間ほどだろうか。葵の身支度は整った。
渡された手鏡を覗き込むと、そこには夢に出てきたあの気味の悪い花嫁にそっくりな姿が映っていて、背筋がゾッとする。
あの夢は、こうなる運命を予言していたのだろうか。
「葵様、わたくし達のお役目はここまでになります」
「────え?」
菊乃は寂しげに微笑った。
「葵様のお世話をできましたこと、わたくしは誇りに思います」
菊乃と志津はそろって頭を下げた。
「──あ、ありがとうございます。菊乃さん、志津さん……」
これが今生の別れとなるのに、気の利いた言葉が思い浮かばない。
「────お支度は整いましたかの?」
しわがれ声に呼ばれて振り向くと、派手な装飾で着飾った皺くちゃの老婆が、杖をついて立っていた。
真っ白な着物と袴に紅色の首飾りが何重にも巻かれている。いかにも胡散臭そうな、大昔の占い師のような格好だ。
(────シュールだ……)
いつの間に居たのだろう。
「ここからは、わしが案内を務めまする」
仁王立ちのまま軽く頭を下げた。
色々とツッコミどころ満載だが、そうしなかったのは、諦めがついたせいもあるだろう。
(慣れちゃうと、何でも受け流せるのもなんだなあ)
「──では水巫女様、参りましょうぞ」
老婆に導かれるままに部屋を後にする。二人の巫女姿の少女が、葵の後ろに並んで続いた。
(これが花嫁道中ってやつか)
決して望んだことではないのに、いざ体験してみると本当に結婚するみたいで緊張する。
本当に夫となる人が待っていてくれているような気さえしてきた。血の繋がった家族には会えないが、これからは自分の手で作るのだという、そんな幸福な妄想まで浮かぶ。
葵にとって花嫁というのは、そんな特別な感情を抱かせるほど、強烈な何かがあった。
後ろを歩く巫女達は、からの三方を手にしている。
なぜ空なのかも気になったが、それよりも自分と同じ年頃で巫女姿の女の子を見たのは初めてだったので、葵は思わず声をかけた。
「あなた達も巫女なの?」
話しかけられた少女たちは、ぎょっと目を見開くと慌ててうつむいた。
「その二人は水巫女ではありませぬ」
代わりに先頭を歩く老婆が答えた。
葵は前に向き直って、老婆の後頭部を見ていると、老婆は振り返ることなく、言葉を続けた。
「不運なことに水波盛は巫女不足でしての。そこの二人はただの代役ゆえ、決して声を掛けませぬよう」
「なぜですか?」
「身なりは巫女とはいえ、中身は下級下女にございますゆえ……ちょうど良い年頃の生娘がおらなんだ……まったく、若いもんは節操がないのう……」
老婆は独り言のようにように愚痴った。
振り返ると、二人の下女は顔を赤らめて俯いている。
(婆さん、ナチュラルにばらすなよ……)
デリカシーの欠片もないな、といたたまれない気持ちになったが、どう声をかけていいものかもわからず、結局何も言えずじまいとなった。
「水神様はあらゆる穢れを受け入れて下さる…… 」
歩幅を合わせながら歩いていると、老婆が淡々とした口調で話し出した。
「穢れとは恐ろしいもの。人を不治の病にかけ、多くが命を落とす。その死体を喰った動物は妖獣と化す。妖獣が増えれば、餌を求めて人里を襲う。────ゆえに、水神様に穢れを浄化して頂くのです」
そういえば、逃げることに必死で儀式の意味を聞いたことがなかった。
葵は静かに老婆の話に耳を傾ける。
「だがの、水神様とて穢れを受け入れるにも限界がおありなのです。どんなに大きな器でも、水を入れすぎると溢れてしまう。────これが災蝕という天災なのでございます」
そういえば、リンが地震を予兆だと言っていた。
妖獣の襲撃があったのはその後だったが、それも予兆のひとつだったのだろうか。
「それを防ぐため、清純な巫女を奉納し、微力ながら水神様のお力添えをする。────夫婦として共に穢れを背負ってゆくのです。この婚礼の儀とは、そういう意味があるのでございます」
(だから白無垢なのか……)
ようやく婚礼の形式をとる意味を理解できた。
同時に、こんな悲しい結婚式があってたまるか、とも思った。
「穢れはもともと人の中にあるものじゃ。誰もがその種を持っておる。それが芽吹き、病にかかれば水神様に清めていただくしか助かる方法はない……」
その悪い芽を詰んで保管するのが巫女の役割、というのは紗華からも聞いている。
水巫女なんて、生きていてもいいこと一つもないじゃないか。だったら、赤ん坊の頃に死んでおいた方がよっぽど良かった。
葵が己の運命を呪っていると、老婆はどこか諌めるような口調で言った。
「水波盛は水神様によって繁栄した国。決して、信仰を蔑ろにするようなことはあってはなりませぬ」
それからは、先が見えないほど長く薄暗い通路を、黙々と歩いた。着物のせいで歩幅が狭くなったせいもあって、永遠と辿り着けない気さえしてくる。
着物が重い。
どうせなら一生に一度、ウエディングドレスを着てみたかったというのが本音だ。
(結婚なんて、まだまだ先だと思ってたのに。それも相手は人間じゃないなんて……)
やがて朱色の鳥居が見えてきた。
鳥居の奥は洞窟になっている。
老婆に促されて鳥居をくぐると、そこには体長が二メートルほどもある大きな獣が、四肢を折って体を休めていた。
顔のまわりにうねった髭をふんだんに蓄え、風貌はまるで獅子のようだが、潰れた鼻はブルドッグの類いに似ている。
「──よ、妖獣!?」
村を襲った鳥の獣、あの恐怖が記憶がよみがえる。
葵は警戒しながら後退すると、老婆が落ち着いた口調で訂正した。
「これは神獣にございます」
「……し、神獣?」
「神に使える、とても神聖な生き物でございます。何種類か存在しますが、この社では狛犬が仕えております」
「狛犬って……、そんなの架空の生き物でしょう?」
「いいえ、現に目の前におります」
冗談かとも思ったが、誰一人笑う様子もない。
狛犬は重たそうに頭を持ち上げると、巨大な足で耳の裏側を掻いた。それからその足の匂いをクンクン嗅ぐと、フンッと汽車のように鼻息を吐き出した。
そして満足したのか、再び頭を下げてウトウトしている。
(これが神聖? 普通に犬じゃん……!!)
なんとも緊張感のないその態度に、葵は気が抜けた。
後ろに控えていた下女たちが伏礼をすると、老婆が狛犬の前にひざまづき、二度ほど深く頭を下げた。
それでも狛犬は、興味無さそうに顔を背けて動こうとしない。
「さあ巫女様、お乗りくださいませ」
「──え゛っ!?」
老婆の言葉に、自分でもどこから出したのか分からないような、汚い声を出してしまった。
菊乃から特別な乗り物があるとは聞いていたが、これのことだったのか。
しかし、狛犬には手網もなにもついていないのに、乗りこなせるとは思えない。
「あのー……私、乗馬の経験すらないんですけど……」
「問題ございませぬ」
「でも…… 」
「跨るだけでございます」
「……」
少しもアドバイスにもなっていないことに、言葉を失う。
急に狛犬がむくりと立ち上がり、葵の傍へのそのそと近寄ると、匂いを嗅ぎだした。
敵意は無さそうだが、万が一、噛まれでもしたらひとたまりもない。
緊張で全身の筋肉が強ばった。
しかし狛犬はゴロンとひっくり返り、無防備に腹をさらけ出した。
舌までだらしなく垂らしている間抜け面の獣が、伝説上の神獣だなんてとても信じられない。
それでもこの緊張感のない態度に、ほんの少しだけ心が救われた。
腰を落とすと、その無防備なお腹を優しく撫でてみる。
(────も、もふもふ……!!)
「──名前、なんて言うんですか?」
「名前はございませぬ」
「ここで飼ってるんでしょ?」
「な、なんと畏れ多い!!」
何気なく言った〝飼っている〟という言葉に、その場の全員が目玉が飛び出そうになるくらい目をひん剥いた。
「神獣は自然に寄り付くもの。最も神聖な社を自身で選び、自身の意思で身を置くのでございます。わたくし共はその宿り木に相応しく在るよう、社を管理するのでございます」
「それって、いつ居なくなってもおかしくないって事ですか?」
「左様にございます」
そんな会話をよそに、狛犬はグネグネと身をよじりながら、葵の手にじゃれついている。
甘噛みされたせいで、撫でている手はベトベトだ。
(涎の量が……エグい…… )
苦笑いしながら飼い犬のように遊んでやっていると、痺れを切らした老婆が、束の間の癒しに終止符をうった。
「──巫女様、そろそろ」
老婆の一声で狛犬は飛び起きると、四肢を折り曲げて葵の前に伏せた。
表情はダルそうだが、仕事はしっかりこなすらしい。
(生贄を運んでるって、わかってなさそうだな……)
葵よりも先に、老婆がまたがった。
「──巫女様はわしの後ろに」
葵はなんとか狛犬に乗ろうとしたが、着物が脚の可動域を制限し、乗馬のように跨ぐことができない。
葵は少し悩んで、横向きに座るようにして身体を預けた。
葵の体重が掛かると、狛犬はゆっくり立ち上がった。
「では水巫女様、しっかりとおつかまりください」
「────はい……うわっ!?」
急に狛犬が駆け出したので、慌ててしがみついた。
「は、早っ……もっとゆっくり──!!」
てっきり来た道を戻るのかと思っていたが、真っ暗な洞窟を一直線に駆け抜けると、先に見えた光の中へ飛び出した。
視界がひらけて、晴天の空が広がった。
だが、それを堪能する間もなく体が反転し、強制的に空を見上げる状態となった。
今、自分がどうなっているのかわからない。意に反して首を後ろにまわす────。
「ぎゃああああああああああ!!!!!!!!」
見たことを後悔した。
下は霧がさえぎっているせいで見えなかったが、どうなっているのかはすぐに理解できた。
遮っているのは雲だ。
葵は雲よりもずっと高い場所にいて、狛犬は御神山の断崖絶壁を駆け上がっているのだ。
「いやああああああああ!!!!!!!! 死ぬ死ぬ死ぬー!! まじ死ぬって──!!!!!!!!」
「巫女様、そんなに暴れられては転げ落ちますぞ」
「────それマジ冗談になってないからー!!」
恐怖と不安で震えながら、腕の力だけは緩めまいと、強く、強くしがみつく。
ぎゅっと目をつむり、ひたすら恐怖に耐え続けている間、御神山には悲鳴が延々と響き渡っていた。
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