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四.楚月の素顔【1】
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繁忙期の真っただ中ではあるものの、戌の初刻に開演する月影座の芝居を観るために、春鶯は終始てきぱきと働いた。宿泊客が夕餉の際に使った食器は、帰宅後に片づけるつもりだ。夕方の仕事を終えると、比較的新しめな襖裙に着替え、央央を連れて急いだ。
「なんとか間に合ってよかったね」
「うん。でも、お腹空かない? 大丈夫?」
時間がなかったので、劇場に向かう前に饅頭を一つ口にしただけだ。大食漢ゆえに、たった一つでは空腹は満たせないことは姉である春鶯にはわかっている。
「芝居に夢中になれるから平気よ!」
「終わったら、夜店を覗いて帰りましょう」
「いいね! がたいのいい琳哥哥と一緒なら、夜店も怖くないし、あとで誘ってみる!」
央央の口からは演劇と、晋高の話題がよく飛び出す。楚月のことも言わないわけではないが、どちらかというと悪口に近い。
(……本当にこの子は、謝公子のことが好きなのかしら?)
そんなことを考えているうちに、今朝方、顔を合わせた劇団員のうちの一人が舞台袖に姿を見せた。満員の観客からは、わあ、という声援と拍手が沸き起こり、久しぶりの観劇に春鶯の心も踊る。
本日の演目が「西遊記」ということは聞いていた。楚月の役はなんだろうと緊張した面持ちでいると、舞台上に登場した彼は、見慣れた白の仮面を取っ払い、とても美しい風貌をしていた。
「みてみて、あの人が楚月さんだよ。舞台の上だとそこそこいいよね? 普段とは違うよね」
「そ……そうね」
袈裟を身に纏った三蔵法師を演じている楚月は、他の誰よりも異彩を放ち、とにかく目立っていた。坊主頭の被り物で後光が差していたからではない。決して。
発する声は芯が通っていて聞きやすく、完璧な美男子がそこには存在していた。
(すごい……)
普段は己を律している僧侶であり、誰よりも慈悲深い三蔵法師は、人を疑うことはない。それゆえに、怪しいという孫悟空の忠告を無視して、まんまと七人の美女たちに騙されて捕まってしまう。どの役者さんも美しく妖艶で、観客たちからの声援を多く浴びている。
しかし、三蔵法師である楚月が流し目をしたり、客席に向かってひとたび微笑んだりすれば、たとえ坊主の被り物をしていようとも、殿方の声よりも黄色い歓声が沸き上がる。生の芝居のすごさに圧倒された。
七人の美女の正体は、危惧した通り蜘蛛だった。そこを助けるのが、忠告を無視されてしまった、短気で暴れん坊な孫悟空と、豚の容姿をしており、いろんな欲が弱点の猪八戒、そして比較的真面目な性格をしている、赤い髪に青黒い肌をした沙悟浄の三人だ。
孫悟空に「やっぱり妖怪だったじゃないか!」と指摘されても、三蔵法師は知らぬ顔だ。
その後、また天竺に向けて旅を続けている最中、暴れ回りたいという単純な理由で、孫悟空は先回りをして単独行動していた。役者さんは、次々に襲いかかる妖怪を、孫悟空の武器である如意棒を使って巧みになぎ倒す爽快な場面だ。客席にいた子どもたちが、一番喜ぶのはここだ。
一方、その頃。少し後方にいた三蔵一行は、追い剥ぎをしていた男に襲いかかり、命を奪う孫悟空の姿を目撃してしまった。当然ながら、三蔵法師から二度目の破門を言い渡されてしまう。前回は死体に取りつく妖怪を退治したところ、人を殺めたと誤解されての破門だった。
妖怪をなぎ倒し終えた孫悟空の元へ、三蔵法師らがやってくるも、自分が知らぬうちに破門されてしまったことを知る。ただ一人で妖怪退治をしていただけなのに、と腹を立てた孫悟空は、三蔵法師に対して抗議するも、破門は撤回されることはなかった。なんと孫悟空は勢い余って三蔵法師の顔を殴ってしまった。客席からは悲鳴があがる。
ところが、追い剥ぎを狙ったのは孫悟空ではなく、孫悟空に擬態した別の妖怪だったことが判明する。また三蔵法師に信じてもらえなかったと拗ねたものの、一発顔を殴っているので、痛み分けではどうかと菩薩に仲裁され、孫悟空は一行に戻った。
あっという間の一時辰だった。幕が下りると観客はわあわあ盛り上がり、盛大な拍手が送られる。春鶯も夢中になって手を叩く。
楚月が昨夜、言っていた通りだった。居ても立ってもいられなくなった。今すぐにでも空想がしたくてしたくて堪らないのだ。こんなに感情を揺さぶられたのは初めてだ。
「どうだった? すごかったよね」
「う、うん」
「あれ、それだけ?」
今、央央と話してしまえば、頭に浮かんだものが吹き飛んでしまいそうだったので、最低限の応対しかできなかった。それに対して内心で申し訳なく思っていると、着替えたばかりの楚月と保鏢の晋高が、周囲にいる人々を気にしながら近づいてくる。
「なんとか間に合ってよかったね」
「うん。でも、お腹空かない? 大丈夫?」
時間がなかったので、劇場に向かう前に饅頭を一つ口にしただけだ。大食漢ゆえに、たった一つでは空腹は満たせないことは姉である春鶯にはわかっている。
「芝居に夢中になれるから平気よ!」
「終わったら、夜店を覗いて帰りましょう」
「いいね! がたいのいい琳哥哥と一緒なら、夜店も怖くないし、あとで誘ってみる!」
央央の口からは演劇と、晋高の話題がよく飛び出す。楚月のことも言わないわけではないが、どちらかというと悪口に近い。
(……本当にこの子は、謝公子のことが好きなのかしら?)
そんなことを考えているうちに、今朝方、顔を合わせた劇団員のうちの一人が舞台袖に姿を見せた。満員の観客からは、わあ、という声援と拍手が沸き起こり、久しぶりの観劇に春鶯の心も踊る。
本日の演目が「西遊記」ということは聞いていた。楚月の役はなんだろうと緊張した面持ちでいると、舞台上に登場した彼は、見慣れた白の仮面を取っ払い、とても美しい風貌をしていた。
「みてみて、あの人が楚月さんだよ。舞台の上だとそこそこいいよね? 普段とは違うよね」
「そ……そうね」
袈裟を身に纏った三蔵法師を演じている楚月は、他の誰よりも異彩を放ち、とにかく目立っていた。坊主頭の被り物で後光が差していたからではない。決して。
発する声は芯が通っていて聞きやすく、完璧な美男子がそこには存在していた。
(すごい……)
普段は己を律している僧侶であり、誰よりも慈悲深い三蔵法師は、人を疑うことはない。それゆえに、怪しいという孫悟空の忠告を無視して、まんまと七人の美女たちに騙されて捕まってしまう。どの役者さんも美しく妖艶で、観客たちからの声援を多く浴びている。
しかし、三蔵法師である楚月が流し目をしたり、客席に向かってひとたび微笑んだりすれば、たとえ坊主の被り物をしていようとも、殿方の声よりも黄色い歓声が沸き上がる。生の芝居のすごさに圧倒された。
七人の美女の正体は、危惧した通り蜘蛛だった。そこを助けるのが、忠告を無視されてしまった、短気で暴れん坊な孫悟空と、豚の容姿をしており、いろんな欲が弱点の猪八戒、そして比較的真面目な性格をしている、赤い髪に青黒い肌をした沙悟浄の三人だ。
孫悟空に「やっぱり妖怪だったじゃないか!」と指摘されても、三蔵法師は知らぬ顔だ。
その後、また天竺に向けて旅を続けている最中、暴れ回りたいという単純な理由で、孫悟空は先回りをして単独行動していた。役者さんは、次々に襲いかかる妖怪を、孫悟空の武器である如意棒を使って巧みになぎ倒す爽快な場面だ。客席にいた子どもたちが、一番喜ぶのはここだ。
一方、その頃。少し後方にいた三蔵一行は、追い剥ぎをしていた男に襲いかかり、命を奪う孫悟空の姿を目撃してしまった。当然ながら、三蔵法師から二度目の破門を言い渡されてしまう。前回は死体に取りつく妖怪を退治したところ、人を殺めたと誤解されての破門だった。
妖怪をなぎ倒し終えた孫悟空の元へ、三蔵法師らがやってくるも、自分が知らぬうちに破門されてしまったことを知る。ただ一人で妖怪退治をしていただけなのに、と腹を立てた孫悟空は、三蔵法師に対して抗議するも、破門は撤回されることはなかった。なんと孫悟空は勢い余って三蔵法師の顔を殴ってしまった。客席からは悲鳴があがる。
ところが、追い剥ぎを狙ったのは孫悟空ではなく、孫悟空に擬態した別の妖怪だったことが判明する。また三蔵法師に信じてもらえなかったと拗ねたものの、一発顔を殴っているので、痛み分けではどうかと菩薩に仲裁され、孫悟空は一行に戻った。
あっという間の一時辰だった。幕が下りると観客はわあわあ盛り上がり、盛大な拍手が送られる。春鶯も夢中になって手を叩く。
楚月が昨夜、言っていた通りだった。居ても立ってもいられなくなった。今すぐにでも空想がしたくてしたくて堪らないのだ。こんなに感情を揺さぶられたのは初めてだ。
「どうだった? すごかったよね」
「う、うん」
「あれ、それだけ?」
今、央央と話してしまえば、頭に浮かんだものが吹き飛んでしまいそうだったので、最低限の応対しかできなかった。それに対して内心で申し訳なく思っていると、着替えたばかりの楚月と保鏢の晋高が、周囲にいる人々を気にしながら近づいてくる。
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