アムネシアは蜜愛に花開く

奏多

文字の大きさ
上 下
10 / 53
第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける

偽らないわたしでいたいのに

しおりを挟む
「ひゃく……なんで俺に言ってこなかったんだ。そうしたら俺、直談判にまた行ったのに」
「わたし、あのひとに出来ない女だって思われたくないんです」
「……きみのことだ、寝てないんだろう? だったら俺や山本が手伝おう。今は仕事らしい仕事もしていないから」

 わたしはすりと、怜二さんの胸に頬を寄せる。

「誰の力も借りずに、わたしだけの力でやり遂げたいです」
「……しかし」
「お願いします。ひとの案を持っていけば、きっと彼はわかってしまう」

「……きみと彼が会ったことは、よかったのかな」

 ぼそりと怜二さんは言った。

「最初から、彼がきみを見る目が違っていたから」

「ああ……、凄く嫌われていますよね」
「そうじゃなく」
「?」
「いや、いい。いいんだ……」

 怜二さんはわたしの顎を持ち上げるようにして、唇を重ねた。
 久しぶりの彼の唇は冷たくかさついていた。

「ん……」

 でも気持ちがいい。
 枯れているわたしにでも、女だということをわからせてくれる甘いキス。

 舌を縺れるようにして絡み合い、ちゅくちゅくと音がして声が漏れてくれば、怜二さんは両手でわたしの頬を挟むようにして、いつになく荒々しく舌を動かす。

「は……」
「んん……っ」

 わたしの頭の中から企画も巽も忘れさせる、そんなキス。
 それなのに、わたしの身体は濡れない。

 巽と再会した時も、彼とふたりで応接室で話した後も、わたしのショーツには、滴るくらいに淫らな蜜がべっとりと濡れていたというのに、今はそんな変化が全くない。

 ……いつもの如く。
 
「いけないな、最後までしたくなる」

 好きなのに。
 だけどセックスをするには、蜜を装わないといけない。
 このままの、今のままのわたしでは、純粋な愛の行為が出来ない。

「駄目ですよ」

 だから、ラブローションを手にしていないわたしは拒む。
 ここは会社だと勿体ぶりながらも。

 すると怜二さんはわたしの背広の前を開けて、ブラウスの上から下着ごと胸に貪ると、歯で先端を噛んだ。

「ああ……っ」

 感じるのに。
 ちゃんと気持ちいいと思うのに。

「本当にきみは感じやすいな」

 それでもわたしは濡れない。
 
「だって……怜二さんだから……」

 それを隠して出る言葉は、なんて演技臭いんだろう。
 怜二さんだから、気持ちいいと感じられるほど、心を許しているというのに。

「ん? 俺がなに?」

 腰と腰をくっつけるようにして抱きしめられれば、彼の変化がよくわかる。わたしを求める彼が、愛おしいと思う。

「この後俺、トイレ直行確定だな」
「なんで?」

 意地悪く笑うと、怜二さんはわたしの手を取り、ズボンの膨らみを掌に包ませるようにして動かしながら、わたしの耳に囁く。

「きみが俺の愛撫に乱れて喘ぐ可愛い姿思い出したのに、きみの熱く蕩けた中に挿り損なった、可哀想な俺の猛りを鎮めるため。最後まで、具体的に聞きたい? それとも見たい? ズボン脱ぐ?」
「も、もういいです、十分ですっ」
「あははは。嫌がるなよ。きみを中まで愛しているものだぞ?」

 濡れない。
 濡れない。

 こうした話をしていて酷く苛立つのは、寝ていないからだろうか。
 彼は本当に気づいていないのだろうか。
 本当にわたしは彼の愛撫や挿入で濡れていると、思えているのだろうか。

 彼を欺いている偽りの蜜に、罪悪感が高じて居たたまれなくなる。


「さあ、仕事に戻りましょう」

 そう言うと、彼はわたしの首筋に唇をあてて吸い、わたしはぴりっと痛みを感じて顔を顰めた。

「……よし、うまくついた」

 悪戯っ子のように怜二さんは笑い、わたしはキスマークをつけられたのを知る。

 いつどこで誰が見ているかわからないから、絆創膏で隠さないといけないと冷めたものの考え方をするわたしがいる。普通はここで彼氏の独占欲や愛に、きゅんと心をときめかせるところなのかもしれないけれど。

 軽くため息をつきながら、ふと硝子の奥の玄関ホールの景色を見たわたしは、ぎゅっと心臓が縮み上がりそうになった。

「……っ!」

 巽がいたのだ。

 下に巽がいて、殺されそうなほど凶悪な目を向けていた。

 ここは五階だ。
 わたしだと、そしてここでわたし達がなにをしていたかも、わからないはずなのに。

 しかし、彼はわたしをしっかり睨んでいるように思えた。
 彼に、痛いくらい見られていると思ったら――、
 
「……っ」

 じゅん、と枯れた部分が濡れた。

 ああ、なんて浅ましい。
 こんな遠い距離から睨まれているのに、なにより怜二さんと一緒にいるのに――巽に見られていたと思うだけで、わたしの身体から歓喜の熱い蜜が滴るとは。

 どうして巽にはこんなに簡単に、わたしは熱くなって蕩けてしまうの?
 どうしてわたしの身体は、怜二さんを裏切るの?

 ……危険だ。
 視界に巽を入れるのは。

 問答無用で、惨憺たるわたしの身体は興奮してしまうから。
 固く閉じられた蕾が、蜜を滴り花開こうとする。

 そんなのは、駄目だ。
 わたしは、おかしい。

「どうした?」
「いえ……。いい案が思いついたので、仕事場に戻ります」
「そうか。頑張れよ」

 頭の中が朦朧としている。
 巽に見られたということが、わたしの軸をぶれさせる。

 巽。
 巽。

 恋人といながら、わたしは巽のことばかり考えてしまう。
 こんなに近くにいるはずの怜二さんが霞み、普通の感覚が失われた見当識障害と、幻覚錯覚が入り乱れるこの重度な意識混濁は、早く家に帰ってぐっすりと眠って治さないといけない。

 ……もう、巽の姿はなかった。

 最初から巽はいなかったのだろうか。
 寝不足が引き起こした譫妄せんもうに陥っていたのだろうか。

「あのさ、杏咲。その企画が終わったら、温泉に泊まりに行かないか?」

 ……きっとそうだ。

――コンセプトは、禁断の愛。

 わたしは怜二さんに曖昧に返事をしながら、わたしなら……作った最高の口紅をつけて、巽にどうされたいのかをぼんやりと思う。

「……っ」

 身体が熱くなる。

 そう。
 わたしの頭は狂っているから――キスをされたいと、思ったのだ。

 キスだけでは無く、わたしの身体を甘く蕩かせて欲しい。

 彼の前ならきっと……、偽りではない真実のわたしでいられるから。

 ……敵わぬこととわかっていても。
しおりを挟む

処理中です...