アムネシアは蜜愛に花開く

奏多

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第2章 誘惑は根性の先に待ち受ける

酷い女

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 だがそんな状況にドキドキするよりも、啜っても垂れてくる鼻水の方が気になる。
 巽のワイシャツに付着しそうだし、突き放したいのだが巽が離さない。

 く……仕方がない。
 鼻水まみれの専務にさせてしまうのも忍びないから、素直に訴えよう。

「あ、あの……専務、鼻をかみたいんですが。実は鼻水が……」
「……」

 しかし、巽は動かない。
 啜り続けるわたしも、段々と切羽詰まってきた。

「今のわたしはポケットティッシュを持っていないんです。専務の机の上のボックスティッシュを持ってきて頂けると、ありがたいんですが」

 やはり巽は動かない。
 そしてわたしは、はっと思い立った。
 専務に取りにいかせるなど、何様だと。

「わたしが取ってきます。……あ、しまった、鼻水が垂れて……」
「僕が取ってきます!」

 無粋だと言わんばかりに巽は睨みつつも、ボックスティッシュを持って来てくれた。
 ばんと机に叩き付けられたティッシュの箱を引き寄せ、わたしは巽の横でちーんと鼻を何度もかむ。

 横目で、少しだけ巽の胸のところに染みがついている気がしたけれど、この程度なら未遂ということにして、見て見ぬ振りをしよう。障らぬ神に祟りなし。

「すみませんでした。おかげさまですっきりしました」

 とびきりの笑顔を見せたわたしに、巽がじとりとした目を寄越して言う。

「……崩れないんですね、顔」

 なんでそんな表現をするんだ、巽は。

「……それは〝泣き顔でも化粧が崩れないな〟という感嘆の意味に捉えてお答えしますが、これはルミナス主力商品のひとつ。通称『涙くんさようなら』。広報が上手くいかず悔しさに泣くわたしを見て、わたしの友達の山本香代子が閃き商品化しました。そして、三徹も完璧カバーするクマ隠し、通称『ハイドベア』も凄い威力なんです。ルミナスは、こうした日常から素晴らしい商品が生まれて……ってなに笑っているんですか、専務」

 ここぞとばかりに香代子の企画力とルミナス製品を売り込もうとしていたのに、巽が笑う。

 くくくと本当におかしそうに。
 こんな笑い顔、最後に見たのはいつだっただろうか。

「いや……、あなたをモデルにルミナスの製品が出来ていると思えば」

 ……それのどこに笑う要素があるのだろう。
 そして、元国民的人気モデルに、モデル扱いされることの居たたまれなさはなんだろう。

「高校時代、モデルをしてたんですか? 数日前、香代子に教えて貰いました」
 
 今だったら和やかに昔のことを聞けそうだと思った時、口から言葉が出ていた。

「……ええ。今となれば、どうでもいいことですけれど」

 しかし和やかな空気ごと押し殺すような陰鬱な表情を浮かべ、巽はぼそりとこう言った。
 
「これから作る、欲情する口紅。僕は……あなたに欲情出来るでしょうか」

 わたしに向けられている黒い瞳が、しっとりと濡れて揺れている。

 それに呼応して、どきんという心臓の音と、きゅぅんという子宮の音が聞こえた。
 まるでわたしは準備OKとでも言っているかのように。

「し、しません! 専務だけはわたしに欲情しません!」

 身体の変化を感じてわたしは距離を開けようと立つが、手を引っ張られてよろけてしまい、巽の膝の上にぽすんと座ってしまった。

「す、すみません」

 慌ててどけようとするわたしを、わたしの下腕を掴んだままの巽の手は離れない。

「あ、あの……」
「あの溺恋の企画。俺が命じたのと別に持って来たあの特別な企画は、誰を思って考えた?」

 命令調の、わたしが怖く思う巽の口調に戻る。
 ぎらつくような切れ長の目にぞくっとした狂気を感じてしまう。

「こ、購買客の……」
「違うだろう。誰に欲情して貰いたかった?」

 言えるわけない。昔のわたしだろうが、義弟だった男に欲情して貰いたかったなんて。
 言えるわけない。姉が弟にそんな気持ち悪いことを思っていたなんて。

「……俺には言えないか」

 苛立ったように剣呑な光を宿す切れ長の目に、息を飲む。

「あの優男か?」
「ちが……」
「違う? 他に男でもいるのか? 過去の男? 今の男?」

 巽の瞳の奥に、憎しみのような炎が揺らいでいる。

「そうやって、十年後の俺にそんなものを細やかに堂々と呈示して、嬉しいのかお前」

 わたしの身体に回した彼の手に囚われた、わたしの身体は動かない。

「ひっでぇ女」

 ……息が、出来ない。

 ぱくぱくと金魚のように口の開閉を繰り返し、出てきた掠れた言葉は、その理由を正すものではなく。

「企画は……」

 巽を想って企画した口紅は、実現できるのか否か、だった。

「氷室巽としては許可する。だけど……藤城巽としては許可しねぇよ、死んでも。そんな、他の男を誑かす道具作りなんか」
 
 巽が、わたしの義弟だった時のことを口にした。
 わたし達の禁忌に触れる、十年前に。
 高じていた緊張感がさらに膨れあがり、引き攣った浅い呼吸を繰り返す。

 巽の意味不明な言葉は難解過ぎて、正解がわからない。
 どの巽も同じ男でしょう?

 ああ、そんなことより。

 ……企画は通ったんだよね?
 わたしの三徹、意味があったんだよね?
 少しは、ルミナスの仲間達に顔向け出来るかな。

 ぐるぐる回る思考は、やがて白くなる。

「おい、返事くらい……なに白目剥いてる! 無理が祟って、まさか心臓発作か!? おい、しっかりしろ、アズ! ア……この状況でまぎらわしく寝るなよ、お前!!」

 ようやくやり遂げた仕事に、満足げな顔ですぅすぅと寝息をたて、巽の独り言も夢の中。
 
「――欲情する口紅か。そこまであいつが好きなのか。……いまだ、ただの義弟には、きっついな……」
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