吼える月Ⅰ~玄武の章~

奏多

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第1章 追憶

 一年前のサクの失恋

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「ここに居たのか、サク……」

 謁見の間から飛び出したサクが佇んでいたのは、サクがユウナと初めて会った、庭が眺望出来る欄干つきの廊の一角だった。
――ハン、その子だぁれ?
 あれは、ハンが初めてサクを玄武殿に連れた時だった。まず初めに主たる祠官に挨拶をとしていたところ、先にユウナに見つけられたのだった。
――ああ、姫さん。これは我が息子のサクだ。頭が馬鹿だから、体だけでもなんとか鍛え中だ。未来に期待して、適当に遊んでやってくれ。サク、これがお前がお仕えするユウナ姫だ。 
――姫、様?
――うふふ、ハンそっくり。まるで小さいハンね。よろしくね、サク。あたしユウナよ。仲良くしてね。
 ユウナがサクに笑いかけたあの時、なんにでも物怖じしないサクが、真っ赤な顔で固まっていたことを、ハンはまるで昨日のことのように思い出す。

「なぁ、親父……」

 哀愁漂わす息子の背中を眺め、物思いに耽っていたハンに、サクは背を向けたままで言った。

「俺……姫様が好きだったんだ」

 それは初めて、サクが己以外の人間に口にしたユウナへの想いだった。

「親父に紹介された時、あの笑顔にひと目惚れしちまってた」
「ああ……」

 ハンは目を瞑って頷くと、昔のサクを思い出していた。
――俺、姫様の護衛頑張る!!
 武神将の息子でありながら、怠け癖が激しく鍛錬嫌いのサクにハンが手を焼いていることを知る祠官が、その改善には自主性を高める任務を負わせた方がいいと、笑って勧めたのは姫の話し相手兼護衛役。
 祠官の思惑通りに、サクは自ら体を鍛え始めた。
 動機がどうであれ、今では次期武神将として誰もが認めるほど、サクは強くなったのだ。

「俺が、姫様のあの笑顔を護るんだって思ってた」
「ああ……」

 わかっていたといえども、息子から初めて聞く儚げな声音の切ない想いに、ハンは辛そうに顔を顰めながら、ただ相槌を打つしかできなかった。

「リュカより先に、俺……姫様の傍に居たんだ。長く長く、リュカよりずっと一緒の時間を過ごしていたんだ……。なんで俺、従僕として姫様と出会ってしまったのかなぁ……」

 サクの行動を制する、従僕という名の枷をつけてしまったのは自分のせいだと、ハンは嘆いた。

 息子の初恋――。
 ユウナに一喜一憂する息子が可愛くて、時に茶化し時に煽り。それでもサクがユウナを手に入れたいと本格的に動き出した時には、応援してやるつもりでいた。
 ユウナが姫であるがために障害があろうとも、サクが望む限り味方してやるつもりだった。武神将という立場を利用してでも。

 だがサクは、ハンが思っていた以上に、そして父であるハン以上に、主従の立場を重んじる分別ある若者に成長していた。
 ここまで育て上げた想いを飲み込むほどに――。

 息子をここまで苦しめた責任は自分にあると、悔やむハンはサクの横に立ち、声を震わす息子の頭を自分の胸につけた。

「こうなるって前から予感してたんだよ。姫様と結ばれるのはリュカだって。俺の想いは叶わねぇって。……動かなかった俺が悪いんだ。姫様に想いを伝えることもせず、決定的な場面が来るまではと女々しく諦めきれもせず。終焉を恐れるあまり、煮え切らねぇ態度でいた俺が悪いことは十分わかっている。だけど……」
 そしてサクは、ハンの服を鷲掴みながら、吼えるように泣いた。

「俺――ユウナに選ばれたかった――っ!!」

 初めて口にした姫の名は、心に突き刺さるほど痛く。
 それはハンの心をも抉った。

「俺……リュカも好きなんだ。あいつ本当にいい奴なんだ。俺が唯一背中を預けられる、心からの友だ。そんなリュカだから……俺……。リュカならきっと……俺の代わりに、ユウナを笑顔にして、幸せに出来ると思ったから」

 サクが嗚咽を漏らした。

「……ちゃんと笑えてたかな。俺、ちゃんとふたりを祝福できたかな……」

 涙混じりのその声に、ハンもまた涙声で返す。

「ああ、お前は……立派だった。お前の気持ちは、ふたりによく伝わっている」
「そうか……。だったら、救われる。今まで通り……俺はあのふたりの傍で、笑っていられる」

 ハンは震え続ける息子の手を、その上から握りしめた。

「気持ち悪ぃことすんなよ」
「お前は俺の息子だ。息子を触ってなにが悪い。ぐだぐだ言うな」

 サクは、ハンの手を払いのけようとしなかった。

「……親父はさ、ユウナの相手……誰がよかった?」
「……。俺の息子以上にいい男はいねぇよ。最後まで従僕の姿勢を貫いて、リュカと姫さんをまとめたお前を、俺は心底誇りに思うぞ?」
「はは……。親父が褒めるなら明日は嵐だな」
「なんだそれ。俺はお前を認めてるぞ、頭は馬鹿だけど」
「うるせぇよ。親父に似たんだよ」
「お前、最強の武神将に喧嘩売ってるのか?」

 ハンに額を小突かれたサクは、小さく笑った。

「祠官が親父を結婚相手にと言った時は、流石に狼狽えた。それだけは俺、絶対許さないつもりだった」
「当然だろ。なにが嬉しくて、息子の想い人を妻にするんだ。大体俺は、自分の妻に……サラにべた惚れだ」
「ははは……。いい年していつも家でイチャイチャしてるの、見せつけられてる息子は恥ずかしいんだからな。……俺も出会えるかな、そんな相手に」
「ああ、絶対。俺にとってサラがそうであったように、お前が心から幸せを感じられる、運命の女は絶対いる。お前が離れたくても離れられねぇ、そんな女がな。だからサク……強くなれ。俺を超える武神将になって、姫さんやリュカ、そして運命の女を守り支えろ」

 サクは悲しげに笑いながら、蒼穹を見上げた。
 澱んだ心とは裏腹に、実に見事に晴れ渡った清々しい空だった。

 いつか、自分の心も晴れ渡るだろうか。

「ああ、強くなりてぇよ。……だけど」

 だけど今は。
 幾らこの無残な現実を予感して覚悟していたといえども、今は。

「辛ぇや……」

 そうした未来が見えなかった――。
 
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