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第1章 追憶
一年前の姫の婚姻相手
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呼ばれた謁見の間には、距離を取って立つハンの姿がある。凱旋から帰還したばかりの疲労を、労うことなく彼もまた祠官に呼ばれたらしい。
確かに、今までの祠官とはなにかが違うとサクは思ったが、ユウナは久しぶりに父に会えた悦びで胸が一杯のようで、飛びつこうとしたのを、すっとリュカが動いて手で遮った。
ハンはただ傍観者でいる気のようだ。
「祠官。お話とは……?」
甘い声音ながらも、サクはリュカの声に強張ったものを感じ取った。
そして、祠官は言ったのだ。
「……ユウナ。来年の赤い満月の夜、婚姻の儀を執り行うのだ」
と。
「え?」
驚愕に目を見開いたのは、祠官以外の者達だった。リュカですら例外ではなく。
「民が不安がっている期こそ、祝い事をするのだ」
げっそりとした祠官の顔。
だがユウナを見る眼差しは、爛々としていてどこか異様で、尋常ではない不気味さが漂っていた。
祠官は続けて言った。
「だが私とて、可愛いお前が見知らぬ男へ嫁ぐのは忍びない。そこで、婿を取れ。お前がよく見知った……リュカかサクか」
緊張感漂う空気が流れた。
「恐れながら祠官。それは……」
まるで思いつきのような安易な取り決めに、ハンが異論を申し立てようとした時、祠官は持っていた扇を叩きつけた。
「私に意見をするとは何様だ」
「申し訳ありません」
そんな父の姿を見て、ユウナは泣きそうな顔になっていた。
母の悲しみが深いあまり、父は精神をおかしくしてしまったのだ。
あれだけハンを大切にして、いつもにこやかだった父の顔はまるで鬼のようだ。
変貌をリュカは知っていたのだろうか。
「ユウナ。それともお前は、このハンに嫁いでみるか?」
「ご冗談を!! ハン様は妻帯者ですっ!!」
蒼白のリュカが慌てて口を開いた。
だがリュカに対しては、祠官は怒る様子はない。むしろ表情が柔らかくなったほどで。
「どうする、ユウナ」
「そんな……。突然言われても……」
ユウナは、リュカとサクを見た。
ふたり共、強張った顔で身を固めている。
助けがありそうにもない。
「どうしても今、どちらかを選ばないといけないのなら――」
ユウナは長い沈黙の後、意を決して口を開き、告げた。
「……リュカを」
ひとりの男の名前を。
「そうか。ユウナはリュカを選ぶか」
やけに高揚としている祠官の声が響き渡る。
目を瞑り、握った拳を震わせながら、サクは天井を仰ぎ見た。その全身から、悲痛さを滲み出しながら。
リュカは日頃の冷静さを払拭させて、慌てたように祠官に傅く。
「恐れながら。今一度、このことは白紙にして頂きたく」
「なぜだリュカ。お前はユウナが妻では不満なのか?」
ユウナは動揺した。こんなに必死な形相で、リュカに拒まれるとは思っていなかったからだ。
「いえ、そういうことではなく……姫にはサクが」
「ユウナはお前がいいと言っている。お前の気持ちはどうだ?」
込み上げる激情を押し殺しているような……見るのも憚れるような惨苦たる表情をしたまま、サクは動かなかった。サクを背にしているユウナだけが、サクのそうした表情に気づくことなく。
サク以外の視線が、突き刺さるかのようにリュカに向けられるが、リュカは動かなかった。なにひとつ反応を返さない。
それがユウナの悲しみを煽った。
「リュカ……あたしじゃだめ?」
ユウナの泣きそうなか細い声に、リュカもまた悲痛な表情を見せた。
返事がないのが返事なのだと解したユウナの目に、ぶわりと涙が溢れる。
「ごめ……あたし、ごめんねっ!!」
泣いて飛びだそうとするユウナの腕を捕まえたのは、悲しげに笑うサクだった。
「姫様。逃げちゃダメです。逃げたら、欲しいものは手に入りません」
「サク……?」
「逃げたら……俺の二の舞です。……姫様。リュカに会えない時、どう思っていましたか?」
それは優しいながらも、心が痛くなる笑みだった。
「……会いたくて会いたくて、たまらなかった」
「会ったら……どうなりましたか?」
サクの誘導に、ユウナは心に閉まっていた真情をぽつりぽつりと吐露した。
「いざ会っても、リュカが前みたいにあたしを一番に考えてくれないことが寂しくなって、リュカの去っていく背中を見ると、きゅうって胸が切なく疼くの」
昔は違った。
もっと一緒に居たいと思っても、またねで笑って手を振って背を向けられたものを、今はずっと切ない気持ちで後ろ姿を見送っていた自分。
行かないで。
あたしを優先させて。
そんな我が儘を飲み込んでいた自分。
今でも蘇るその心の痛みは。
「あたし、なにか病気なのかしら。心臓が痛くなるのは」
サクは静かに微笑みを口もとに湛えた。
「病気ではありませんよ、姫様。それは……自然なものです」
まるでその痛みを見知っているかのように、一瞬苦しげに眉間に皺を刻み……乱れた呼吸を整えた後、彼はしっかりとユウナを見据えて言った。
「姫様は……恋をされているんですよ。……リュカに」
「恋……?」
それはユウナにとって意外すぎた単語だった。
知識として意味はわかり、年頃の少女として憧れを抱いてはきたが、こんなに切なくなるものがそれだと気づきもしなかった。
「これが……?」
「そうです。俺が言うんだから間違いありません」
「違うっ!」
顔を上げて、反対したのはリュカだった。
「違わない。お前だって似たようなもんだろ。知ってるぞ、俺と一緒に居る姫様を時折盗み見るその目の意味くらい。……リュカ」
サクの声に、怯えたような目を揺らすリュカがびくんと反応した。
「これは俺にとっては想定内、これで俺も踏ん切りがつく。俺との友情のために、リュカ……ちゃんと答えろ。お前は俺を思うから遠慮しているだけだろ。俺以外の奴が姫様を娶るとしたら、お前は……他の奴に姫様を渡したいか?」
長い沈黙が続いた。
やがて、リュカは諦観したように肩を落として、
「渡したいはず、ないじゃないか」
ぽつりと言った。
「だったら!! 今、皆の前で宣言しろ。姫様を必ず幸せにすると!!」
わざと荒げられたような声に、リュカは静かに顔を上げると、サクを見て、そしてユウナを見た。
「ユウナを……」
美麗なその顔は苦しげな色で彩られながらも――、
「必ず幸せにする」
紡がれる言葉は明瞭だった。
「リュカ……っ」
顔を手で覆い、ユウナは感極まってさらに泣き出してしまった。
「姫様。泣くとぶっさいくな顔になりますよ」
「……っ!!」
ユウナは慌てて手で目を擦る。可愛らしい仕草をする愛しい姫の背中をぽんぽんと叩いて、サクはふっと真面目な顔つきになって言った。
「ならば俺も誓おう。大事な姫様とその夫となる我が友に、俺はこの命捧げると」
リュカとユウナの前でゆっくりと――、サクは腰を落とし片膝をつきながら、左手拳に右の掌を添えて頭を垂らす。
それは臣下の取る、宣誓の儀礼。
「サク=シェンウは、未来の黒陵祠官夫妻に生涯お仕え致します」
手首と首から、黒水晶が揺れた。
誰からも文句つけられぬほど見事な臣下の姿勢。
頑なな決意をもって示すのは変わらぬ敬愛と友情――。
だがサクの唇はわなないていた。拳を押さえるその手も同様に震撼していた。
彼の強靱な意志では抑えきれぬほどの激情をもてあましながら、それでも必死にそれを押し殺そうとするサクは、くいと顔を上げてリュカを見た。
「姫様を、絶対幸せにしろよリュカ!! 約束だからな!!」
昔から変わらない屈託ない笑みを無理矢理作りながら。
「……ああ」
リュカも声を震わせながら、無理矢理に笑う。
潤む漆黒の瞳は、ユウナに向けられる。
「姫様、おめでとうございます! お転婆すぎる姫様を貰いたいという奇特な相手がいるのかどうか、俺内心ひやひやしてました。だけど、それがリュカであるのなら、姫様に長くお仕えしてきた俺も安心です」
いつものような軽口も、か細く震えていく。
「姫様は誰よりも幸せになれます。有言実行のリュカが、皆の前でそう約束してくれましたから!」
陽気に笑うサクの目から――
「今後とも、よろしくお願い致します。――……従僕として」
一筋の涙が零れた。
なにか言いた気なユウナを遮るように、サクは目を擦って立ち上がった。
「よしっ!! じゃあ俺はこれで失礼します!!」
そして祠官の返答も聞かずに、一方的に一礼すると退室してしまった。
「サク!?」
追おうとしたユウナを引き留めたのは、強張った顔をしたハンだった。
「ここは俺に任せてくれ、姫さん。その前にサクの父親として、ひとつだけ俺に聞かせて欲しい。
姫さんは、相手はリュカがいいと即答しなかった。迷う要素があったのに、サクを選ばなかった理由はなんだ?」
ハンの瞳同様、リュカの瞳が揺れる。
「サクは、姫さんにとっては〝護衛〟以外のなにものでもないのか?」
ユウナは困ったように眉尻を下げて言った。
「……お父様とお母様は、愛し合って結婚されたというのに……会えない時間が多かった。時には何ヶ月も会っていない時もあった。夫婦なのに。病弱なお母様は床に伏せながら、お父様はお仕事なんだから仕方がないと悲しそうに微笑んでいたわ。お母様の死に目にも、お父様は間に合わなかった……。ずっとお母様はお父様の名を呼んでいたのに……」
祠官は無表情で、ただユウナを見ていた。
ハンに訴えるユウナを。
「あたしにとってサクは護衛以上の、家族を超えた大切な幼なじみなの。あたしはサクといつも一緒だった。だから会えなくなるというのは考えられない。これからもサクとずっと一緒にいたいの。サクが夫になるのか護衛のままか、そう考えたら……サクが護衛のままなら、今まで通り一緒にいられるでしょう?」
ユウナの真摯な瞳は、切実に訴えていた。
「ねぇハン。これであたしは、この先もずっとサクと一緒にいられるわよね?」
サクと離れたくはないのだと――。
ハンとリュカの顔が、沈痛な面持ちとなる。
静まり返った空気を切り裂いたのは、祠官だった。
「私と武神将が証人。今ここに、娘ユウナとリュカの婚姻、整いたり!」
場の空気にそぐわない、やけに揚とした声が響き渡る。
「ああ、めでたい。本当にめでたい、そう思わんか、ハン! あはははは!」
息子の心痛を思えばこそ、悪意を含んだ祠官の笑いがハンの神経を逆撫でる。
だが最後まで取り乱さなかった息子のために、ハンは唇を噛み締めるだけに留めた。
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