吼える月Ⅰ~玄武の章~

奏多

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第2章 終わらぬ宴

 脱出

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 いつもサクが両耳につけていた白い牙の耳飾りは、物心ついた頃には既に、ハンにつけられたものだった。
 時折、動くのに邪魔だから外したいとハンに言ったことがあったが、これは魔除けだからどんなことがあっても耳から外してはいけないと言われて以来、外そうと思ったことはない。
 ただ、最強の武神将である父と同じく、片耳にしたいとは思っていた。

 今、不可抗力とはいえ、片耳だけにぶら下がっている白い牙。
 〝契約〟の証として、不可視な存在にそれを奪われ、代わりに砕けた四肢が回復した。
 あの声は、極限にあった己の切迫観念が創り出した幻ではなく、現実のものとして、確かに今サクが必要としていた力の片鱗を見せてくれた。
 今のサクにはそれだけで十分だった。ここからユウナを連れ出せる力が蘇れば。
 〝契約〟で、ユウナの傍にいられるのは七日。
 それまでにどうにかして、玄武の武神将である父に彼女を託さねばならない。
 父は今、どこらへんにいるのだろう。

 両腕に抱くユウナは、くったりとして目を閉じていた。
 両目からは涙の跡。血の気のない肌と唇の色は、まるで死人のようで。
 サクはふと足を止め、ユウナの頬に自分の頬をすり寄せると、辛そうに目を伏せた。
 氷のようなその冷たさが、これからのユウナの運命の暗示のような気がして、不安でたまらない。
 あと七日と契約してしまったからには、生涯傍にはいられない。
 ならばその間にせめて、ユウナが生きていこうとする力を与えたい。
 愛する彼女が、自分の居ない世界で笑って生きられるように。
 そんな時だったのだ。

「きぇぇぇぇぇ」
「ひもじぃ~」
「あ゛ぁぁぁぁぁ……」

 おかしな声がしたのは。
 慌てておかしな声がした前方を見れば……。

「これは……!!」

――サク。黒陵に、膨れた腹と痩せた体を持つ、最下級の魔物……〝餓鬼〟が蔓延している。
 歪で醜い人型をした、餓鬼という名の異形の群れ。
 サクは初めて目にしたが、父からの前もっての知識で、目の前のそれらが餓鬼だと確信があった。
――餓鬼に会ったら、倒そうとするな。餓鬼は食らいつくものがねぇ限り、切っても切っても蘇る。欲だけで生かされている……生きた屍だ。死ぬという概念はねぇ。消せるのは神獣の力のみだ。
 両手の指以上、もしかすると何百もに上る餓鬼の群れが、魔を弾くはずの玄武殿の敷地を彷徨している――。
 ただうろうろと歩くだけではなく、瓦礫を食っていた。
 荘厳な玄武殿の建物を。
 玄武殿に行き着くまでの、迷路を罠ごと。
 なんでも食らう餓鬼にとって、彼らを阻む障害などなにもなかった。

「ひもじぃ……」
「きぇぇぇぇぇぇぇ」

 不安定で頼りなげな声音の、奇声があたりに響く。
 彼らが通った跡は、荒廃していた。
 警備兵はどうなったのか。後を任せたシュウはどうなったのか。
 視界の端に、骨が覗く肉片がある。
 貪りつく数体の餓鬼。
 その中には、警備兵に支給されている刀を囓っているのもいた。

「――クソっ!!」

 武器で切れぬ存在ならば、武器鍛錬に優れた警備兵の意味はない。
 餓鬼にとっては、鍛えられた肉体も研ぎ澄まされた鋭利な武器も、全くの無意味。ただの餌にしかすぎない。
 餓鬼を消すことが出来るのは、不浄なものに対抗する神獣の力を持つ武神将のみ。祠官亡き今、ハンの力がどうなっているのかはわからないが、彼しかこの餓鬼を抑えることは出来ないのだ。

「クソ親父っ!! 早く戻ってこいっ!!」

 ハンが来なければ、すべての希望が潰えてしまう。
 黒陵の運命も、ユウナの運命も。
――サク。まだお前、武神将になろうとしねぇのか?
――リュカが祠官になったらな。それまでは……いやこれからも、俺は姫様の護衛でいたいんだ。煩わしいことはまっぴらごめんだ。
 こんなことになるのなら、先に武神将にでもなればよかった。
 そうすれば神獣の力で、この場を抑えられたのに。
 ……ユウナをこんな目に合わさずともよかったかもしれないのに。
 今となってはすべては後悔だ――。 

 新たなる邪な契約を取り交わしたサクには、父のような不可思議な力というものは使うことは出来なかった。
 出来ないことはないのだろう、確かにゲイの結界を破った時、ユウナを腕に抱くために不可解な遠隔的な力は生じたのだ。……まるで風のような。
 だがどうすればそんな力が意識的に出せるのか、まるでわからない。契約相手からの補足もない。

「そんなことに頭を回している暇に、逃げねぇとな」

 そして彼は、自分より数倍遅い速度で移動する餓鬼から逃げるようにして、食い散らかされた瓦礫の山を踏み越えて、外に出られる正門へと走った。

「サク……」

 不意に声がして、慌ててユウナを見れば――

「よかった……元気になったのね……」

 ユウナが頼りなげな目を向けていた。

「ああ。俺がやられるわけねぇでしょう」

 ひとのひと気にする余裕なんかないだろうに。
 そんな思いを抑え、にっと笑って見せるが、ユウナは儚く笑った。

「ありがとう……。あたしに……笑ってくれて。優しいね、サクは」

 サクにはその意味がわからなかった。
 穢らわしい自分とサクとは、サクに侮蔑されて縁が完全に切れたとユウナが思っていたことなど。
 それを押し殺して、サクは自分に無理に優しく接しているのだと、ユウナは解していた。サクに無理をさせているのだと。
 だからユウナは言った。

「もういいよ、サク。あたしを……ここに残して」
「……は?」
「あたしは……お父様と一緒に、ここに残る」
「なに言ってるんですか、姫様!! いまや玄武殿の内外、敵だらけなんですよ!? よく見て下さい、食欲旺盛なおかしな化物がいるでしょう!?」
「いいの……もう。もう……どうでもいいの……。あたしがあまりにも馬鹿で浅はかすぎたために、あそこまでリュカに恨まれて……そのせいで多くの人達が死んでしまった。お父様も……皆も……」

 嗚咽を漏らすユウナの目から、涙が伝い落ちる。

「死にたい……」

 それは絞り出すような掠れた声だった。

「生きていたくない……」

 悲痛さだけしか感じられない、その心の吐露に……

「あたしを……死なせて……」

 サクは痛ましげな顔をすると、苦しげに目を閉じた。
 そして――。

「姫様、失礼しますっ!!」

 ユウナの頭を手で叩いたのだった。

「痛っ!!」
「とち狂ったことを考える頭はこれですか!! いいですか、姫様。姫様は生き抜かないといけねぇんですよ。それでこそ初めて死んだ者達が浮かばれるってもんです。姫様まで死んでしまってどうするんですか!!」
「だって……もう誰もいなくなったもの……。生きる意味なんか……」
「俺は?」
「え?」
「俺だけは、ひとり残しても平気だっていうのか!?」

 サクの怒声にユウナの涙が止まる。

「生きる理由がないというのなら、俺のために生きてくれよ、姫様。姫様も皆も誰もを助けることが出来なかった、不甲斐ないこの従僕を鍛えるために、姫様、生き抜いてくれよ。俺を姫様の生きる理由にしろよ!!」
「サク……」
「俺は、姫様を死なせない。俺はずっと姫様と一緒だ。もしも姫様が死ぬというのなら……」

 サクの漆黒の瞳が真剣ゆえに鋭さを放つ。

「俺も死にます」
「なにを……っ!!」
「それが護衛としての務めです。それくらいの覚悟で俺は姫様の傍にずっといたんだ!! それが嫌ならぐだぐだ言わずに、生きて下さい!!」
「サク……」

 それでもユウナにはまだ惑いがある。
 自分の存在はユウナの生を縛る価値もないことに嘆きつつも、儚げで虚ろなユウナに喝を入れることにした。

「ここは餓鬼だらけで、正直俺は今、姫様の我が儘に付き合っている暇はねぇんですよ。今懸命に逃走中なんです。それとも姫様、今ここで俺と餓鬼に食われますか? 生きたまま肉を引きちぎられ、バリバリと骨まで食われるのは、悶絶モンの痛さですよ!? 親父の尻叩きの何千倍の痛さですよ!?
あの気持ち悪ぃのにべろべろ舐められて、激痛の末に食われて……そしてあいつらの仲間になるんですよ!?」
「え、仲間に!?」

 ユウナの虚ろな目に光が戻り、怯えたように揺れた。
 そんな事実があるのか知らないが、サクは真剣な顔でもっともらしく嘯いた。

「そうですよ。あんな餓鬼になって、姫様は永遠に〝ひもじぃ〟とか〝きぇぇぇぇ〟とか変な声あげて、生きている倭陵の民を襲い続けるんです。姫様がここで死にたいという我が儘を貫くのなら、姫様が無関係な弱い人々を襲う側になるんです!! それでもここに残りたいですか!?」
「サク、あたしを殺し……」
「そんなこと言うのなら、餓鬼の群れに放り込みます」

 サクはくわっと目を吊り上げ、膨れあがってこちらにくる餓鬼に向けて、わざとらしく両手を揺らした。

「ちょちょちょ、ちょっと待って!」
「待てません、姫様。いちにのさんです。それまでに答えがなければ、放り込みますからね。はい、いちっ」

 ユウナが死ぬのなら一緒に死ぬなどと言った、同じサクから出た言葉とは思えぬ非情さ。今のユウナにはそこまで気を回す余裕などなく。

「にの」

 餓鬼となるかならないか。
 その究極の選択に追い込められたユウナは、やがて涙声で言った。

「さ……」
「や、やめとく……」

 サクは、ほっと息をついた。
 ここでそれでもいいと言われたら、正直どうしようかと思っていた。

「それでいいんです。ここからは俺が貴方を離しません。どんなことがあろうとも、生きてここを切り抜けます。いいですね!? 馬鹿なことをまたほざいたら、あの餓鬼の群れの中に放り込みますからね!?」

 ユウナは神妙な顔でこくこくと頷いた。
 それを見てサクの顔が僅かに緩む。
 いつも通りこそが、ユウナの調子を戻す術。
 悟られるな、状況はかなり深刻だということを。
 そして自分は、七日しか傍にいられないことを。

「走りますよ、掴まっていて下さいね!?」
「わかった」

 そしてサクは走った。
 道という道は餓鬼に埋められ、迂回を余儀なくされる。
 切っても死なないという父の言う通り、上下を切られて上半身になってもまだ、体を引き摺るようにして動く餓鬼の姿もあった。
 脳漿を飛び出させて歩く餓鬼もいる。
 これらの無残な姿は、きっと警備兵が格闘した結果なのだろう。
 彼らは忠実に屋敷を守ろうとして、餓鬼の餌になった――。

 込み上げる怒りにまかせて、餓鬼を片っ端から殴り倒したい気分ではあったけれど、ユウナを抱く今、そんなことをしてはいられない。
 少しでも早く、ユウナを安全な場所へ。
 ゲイもリュカも追ってくる様子もないのなら、今こそが逃亡の好機なのだ。
 だが、餓鬼の数が多すぎる。外から誘われるように、鉄壁の守りを見せていた玄武殿の中に、入ってきているような気がする。
 そして見えた正門は――。

「――くっ!!」

 餓鬼で犇めく、禍々しさの坩堝になっていた。
 正門以外は高壁を越えるしかない。
 山賊を討ち取ったその功績に官人となった時、警備体制の強化が必要だと、自分とリュカが提言した通り、もうその高さは人が上れるものではない。
 餓鬼が壁に食らいついてはいるが、抜け出せるほどの大きな穴にはなっておらず、走りながら突破しなければ、ここいらの餓鬼の数を思えば、容易く取り囲まれてしまう。
 いざとなれば、自分が生き餌になる覚悟は出来ている。
 だが問題はその後ユウナが自分を残して逃げてくれるか、だ。
 そこにいまいち自信が持てないため、それだけは最後の選択にしたいと思っていた。
 どうする? どうやってここから出る?
 リュカ達が追ってこない理由がわかった。
 出られないと踏んでいるのだ。
 もしかして、あのゲイという男の仕業で餓鬼が出現しているのかもしれない。だから正門にあれだけの餓鬼がいる可能性が高い。

「どうするの……?」

 ユウナの心配そうな声。

「……ここは……」
「サク!! 姫っ!!」

 突如声がしたのは、シュウだった。
 全身傷だらけで、惨たらしい有様だった。
 
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