吼える月Ⅰ~玄武の章~

奏多

文字の大きさ
29 / 53
第3章 帰還

 黒崙の街 1.

しおりを挟む
 
 サクの家には古参の下人も知らぬ、外に通じる幾つもの抜け道があるが、普段それは誰にも近づかぬ場所に巧妙に隠されている。
 それはすべてハンが幼いサクの怠け癖や逃げ癖の矯正と生存本能の鍛錬を兼ねて、誰の手も差し伸べられぬ場所に閉じ込めては、サクが生延びるための野生の勘を養わさせるものに作ったものだ。

 ハンが作ったのは抜け道だけではない。
 時間がかかりすぎたり不正解であれば、飢餓感を覚えるより前に、サクを追いつめる武器や罠が容赦なく飛んでくる。サクが自力で脱出するまで、たとえサクが熱を出していてもサラにも手出しをさせなかった厳しいハンの期待通り、サクはいつも泣きながらでも意識朦朧としてでも、必ず生き抜いて出てきた。
 そうしてハンは、サクがいついかなる状態であろうとも、生き抜ける術をまだ小さかったサクの体と潜在意識に叩き込んできたのだ。
 成長してからは昔ほどこうした鍛錬は必要なくなったが、今でもたまに夜中ににやりと笑うハンが夜襲をかけにきたりして、おちおち寝てもいられない。

「……随分と沢山のお仲間引き連れて、人様の家を勝手に家捜ししてくれてるようですね。こりゃ……家の中が大変だ……」

 窓から屋敷の外に出たサクは、屋敷の物陰からあたりの様子を観察していた。
 この敷地内のあちこちで、近衛兵の影が見える。

「サク……サラを助けに……」
「いや、俺が大変に思うのは、お袋の怒りを受ける羽目になる、あいつらですよ。お袋は礼節を重んじるもんで……ああ、ほら」
 
 サクが先に促したのは、聞こえてきたサラの怒声。

「無礼者っ!!! それが武人のすることかああああっ!!!!」

 続けて、男の絶叫があがる。
 ひとりふたりの声ではない、大合唱だ。
 なにが起きたのかと、近衛兵達が一カ所に動く――。

「お~、派手にやってるなお袋。陽動じゃなく、本気かよ」
「な、なにを……」
「お袋はおとっりそうに見えて、過激な武闘派なんですよ」
「武闘……!?」
「そのギャップに親父は惚れ込んだそうですけどね。夫婦喧嘩した際なんか、お袋が家の中派手に壊すんで、親父はお袋を抑える担当、俺は屋敷の中片付ける担当で、大忙し。喧嘩したら親父よりお袋の方が強いです、間違いなく。あ、このことはご内密に。お袋は、永遠の乙女路線突っ走って、皆の目を騙していますから」

 唖然とするユウナ。笑うサクは様子を窺いながら、刺々しい茨の垣根が植えられている中庭に連れた。その裏は高い外壁があり、普通の人間が飛び越えられる高さではなく、思いきり跳ねたとしても茨が体に接触して無事にはすまない。

「いいですか、姫様。俺にしっかりしがみついていて下さいよ?」

 そしてサクは駆け、塀の真ん中あたりの位置にて、垣根の色あせた部分に足を差し込む。
 そこに隠されていたのは石台。それを踏み台にして一気に外壁を飛び越え、その向こう側で宙返りして着地した。
 幸い、通りには人はいない。
 サクはまた自分の上着をユウナの頭に被せた。

「サク……」

 ユウナが、サクを見上げておもむろに口を開いた。
 なにかを訴えるような眼差しだった。

「なんですか?」

 サクは首を傾げながら、ユウナの次の言葉をじっと待つ。

「お猿みたい」
「うるせぇですよ、姫様」

 無表情だったユウナの顔に少しばかり柔らかさが戻り、サクは思わず顔を緩め、いつものような口調で返した。

「その調子です、姫様。さっきみたいにぶすっとしてると、可愛くねぇですから。かといってお袋のように喜怒哀楽激しくても、可愛くねぇですけど」
「か、可愛くなくて悪かったわね。それにサラは表情が魅力的だし、とっても可愛いわ。それはサラに失礼よ」
「狂暴さを隠してるお袋を、可愛い可愛いって猫可愛がりする奇特な奴は親父ぐらいなもんですよ。あんなのが可愛いのなら、黒陵の美姫と言われる姫様はどうなるんですか。それとも俺が親父のように、姫様を猫可愛がりして、その魅力的な表情とやらを作ってみます?」

 サクが真摯な表情を作り、ユウナの頬を撫でて言う。

「姫様は……すっげぇ可愛いです。他の女など及びもしねぇ。姫様、このまま……俺の腕の中に閉じ込めていいですか。俺の中で、その可愛い顔をずっと俺だけに向けていてくれませんか……?」

 僅か……ハンがサラに口にしている言葉を模しながら、そこに微かに自分の本心を織り交ぜたサクは、ハンと同じように無意識にその瞳をとろりとさせ、ユウナの反応を待つ。

「………」
「………」
「……おーい、姫様」
「……っ」
「な、なんでそこで顔を赤らめるんですか! 冗談に決まってるでしょう。いつもみてぇに、キーキー言い返して下さいよ。なんだか俺が、小っ恥ずかしい気障男みたいじゃないですか!」
「いや、その……」

 もじもじとする様は、〝可愛い〟だけに反応しているのではない。

「サク……お風呂……あ、いいの。何でもない」

 ユウナは思い出したのだ。とろりとしたサクの瞳から、浴場でサクとの睦み合いのような触れあいをしたことを。

「今さらかよ……」

 ぼそっと、密やかにサクは呟いた。

「姫様、昨日のはただの洗浄です。そこには、なぁんの特別性もありません。変に意識されると守れなくなっちまうから、もじもじは禁止です」
「……」

 ユウナは、割り切れるサクに恨みがましい目を投げた。
 あんな恥ずかしいことをしておいて、それは洗浄だと言い切れるあたり、サクは自分を女として意識していたわけではないのだろう。
 主人だから、そうしただけ。
 そこに寂寥感はあれども、なにかほっとする。
 昔と変わらぬ、いつものサクがいるから。
 ……自分は穢れ堕ちる寸前で、昔と同じ日常の世界で踏みとどまっていられるように思えるのだ。

「……ありがとう」
「ん?」
「サクのおかげで、少しだけ……薄れた。悪夢のようなこと……全部」

 〝悪夢〟。
 それが意味するところの重さを十分知るからこそ、サクは陽気に笑う。

「あれだけ洗浄したのに、少しだけですか。だったら今度はもっとたっぷりしてあげましょうかね。姫様、俺の洗浄をお気に入りのようだったし、洗浄係に拝命下さればいつでも!」
「……っ、サクの馬鹿! 馬鹿馬鹿っ!」

 真っ赤な顔でぽかぽかとサクの胸を叩くユウナに、サクは呵々と笑う。
 ユウナの結婚が決まってから、サクもまた、ユウナとこうして笑いあうことができなかった。
 奇しくも、ユウナが凌辱されたからこそ、絆が再度強まりこうした場面が早く訪れたことを複雑に思いながらも、ユウナの顔や心が少しずつ解れていく様を見れるのは、サクには嬉しかった。

 ……恋心を犠牲にして、どこまでも浴室での睦み合いを引き摺りたいことを、それ以上のものを望むのを堪えて、洗浄というひと言で笑って片付けたからこそ。

 彼の心知らぬからこそ、昔ながらの関係に戻れる。ユウナの心を立ち直らせるには、極力いつも通りにてサクが変わ
らぬことを信じさせねばならない。
 サクが〝男〟を見せれば。リュカや金の男のように、性的な欲を昂ぶらせてその体を求めれば、ユウナはきっとサクを恐れる――。
 たとえその行為の根底が、愛というユウナの心を求めるものであっても、リュカに裏切られた今のユウナにそれを理解させることは酷だ。
 そしていずれ消え去る彼が生を執着させることは、サク自身にとっても、残されるユウナにとっても苛酷だ。
 だからサクはいつものように笑い続ける。
 おどけて、軽口叩いて……道化者のように――。

「……やっぱり、サクといるとほっとする」

 サクと共にいることが日常であったユウナにとって、サクが……誰かの日常の一部でもあることを見せつけられて寂しかった。
 自分にとってサクしかいないように、サクにとっも自分しかいないと思ってくれるのが当然だと思ってしまっていたのは、それだけ玄武殿でサクとの交流が深かったためだ。ユウナの世界は、玄武殿での生活がすべてだった。
 時折揺籃に遊びにいっても、そこには必ずサクかハンがいて。
 黒崙の屋敷にも、そこにはやはりサクやハンがいた。
 サクが玄武殿に泊まらずにハンと黒崙の家に帰ることがあっても、それは必ず自分が寝た後で、目覚めた時には既にサクは傍にいたから。

 ユウナにとって、サクの次に馴染み深いのは父親のハンであり、サクと同性がゆえの気安さがあるものの、サラは自分と同じ女であり、サクとは異性となる。
 母親なのだから当然とは思えども、愛されているサクを思えば。
 そして母親を愛するサクを見れば――。

 そこにあるのは、自分を弾くような世界であり、どんなにおいでおいでと招かれようと、嫉妬にも似たもやもやとした気分になるのだ。
 だからこそ、自分がよく知るサクがいなくなってしまったような喪失感に居たたまれず、感情表現がますますできなくなってしまった。
 気遣ってくれるサラに悪いと思いながらも。
 だが、いつものようにサクとふたりだけならいつもの調子が出てくる。

「サクがいるだけであたし……頑張れそうな気がする……」

 未来は真っ暗でも、進んで行けそうに思える。
 ……ましてや、それがサクの願いならば。
 周囲に目を光らせているサクは、ユウナの呟きを聞き逃してしまった。

「姫様、なにか言いました?」
「ううん。なんでもない」

 ユウナは笑った。

――俺の中で、その可愛い顔を……ずっと俺だけに向けていてくれませんか……?

 サクの腕の中が、すごく温かくて気持ちがよかった。
 ずっと包まれていたいほどに。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...