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第3章 帰還
シェンウ家にて 3.
しおりを挟むサクが、中途半端に刺激されて、猛るにいいだけ猛ってしまった自分自身を鎮めようと、開けた窓から流れ込む清々しい空気にて深呼吸をしていた時、サラがにこやかに部屋を訪れる。
厳かにその場で傅き、ユウナに朝の挨拶を告げた。
「おはようございます、ご気分いかがでしょうか。朝餉の支度ができあがりましたので……姫さ……まっ!?」
ユウナを下から見遣ったサラの目が、次第に見開いた。
服ははだけ、乱れた姿を見せる、悩ましい風体のユウナ。
対するサクは、飾り紐で縛られた腰の片側にだけ、服をひっかけるように巻き付けている……半裸というよりほぼ全裸状態で、こちらに汗ばんだ背を向けている。
さらには荒い呼吸を肩でしているようで――。
「こらああああ、サクっ!!」
サラが、爆ぜた。
疾風の如く走り弾丸の如く跳ね、サクの腕を引いてこちらに向かせた。
そして――。
「へ!? お袋、なに怒って……」
バッチーーーーン。
「……いぃぃぃぃっ!?」
ハンをも怯ませる般若の形相にて、サラの張り手が息子の頬に炸裂。それは武闘大会上位者のサクいえども、躱すことができぬほどの早さだった。
普段はあどけなさを残す、愛らしい面持ちのサラ。
そこからの変貌に、ユウナの目は驚愕にまんまるに見開き、口もとをただ両手で覆って唖然と見守るしかできなかった。
「この不埒ものが――っ!! 姫様に、あんた姫様に――っ!!」
「違うよ、俺なんにもしてねぇって!! むしろ被害にあったのは、ずっと添い寝で我慢していた……」
「母さんは、辛い境遇におかれた貴い姫様をひん剥き、さらに全裸で添い寝するような卑猥な子に、育てた覚えはなああああいっ!!」
バッチーーーーン。
「――ってぇぇぇぇ!! なんで俺がっ!!」
……サクの両頬に、不本意な赤い手形がついた、そんな朝。
その朝は、ユウナが婚儀を迎える予定日の始まりであり、玄武殿の有様を知らぬ人々は……、凶々しい夜が明けた解放感からか、いつも以上に陽気に賑わい、婚礼祝福のための華やかな飾りつけをしていた。
誰もが、黒陵国内で起きた悲劇を知らない。
玄武殿で起こった謀反も、餓鬼が国内に雪崩込んでいることも。
華やかな色とりどりの花で飾られていく黒崙。
昨夜までの葬式のような陰鬱な空気は、住まう人々の嬉々とした明るさで吹き飛ばされ、新たなる幸福の象徴として婚儀を執り行う姫を祝う。姫の境遇を知らずして、未来の黒陵を担う夫を祝う――。
現実は辛辣で、和やかさの欠片もなく。
――さあ、姫様。覚えてらっしゃいます? 昔私が作った鶏粥、サクとおかわりして召し上がられましたよね? 私、腕を振るいましたよ。たぁんとどうぞ?
おいしいはずの食物の味は、ユウナから消え――、
――姫様、いいんです、お袋の味が口に合わなかっただけですよ。大丈夫です、無理せずにゆっくり吐いて……大丈夫ですから、姫様。
生きる為の体に、受け付けないものと成り果てている。
――ちょっと、待て待て、お袋待て!!
――問答無用、サク――っ!!
どんなにサク達親子が陽気に振るまい、ユウナに少しでも元気を取り戻させようと、滑稽な母子喧嘩を繰り広げていても、ふたりが仲がよければよいほどに、逆にユウナに空々しく感じさせることになり、彼女に孤独感を植え付けた。
サクには温かい家庭がある。
サクには帰る場所がある。
それに対して自分は、すべてを失った。
苦痛を引き摺り、それを過去とは出来ぬ……国に仇為す異端者となりはてた。
凶々しい銀の色に染まり、かつての生来の色こそがまがい物となった、逆転された現実において、どこにも姫としての価値はなく。
それでも生きながらえているのは、サクが居るから。
サクに依存することで、寄生するようにして生きている。
ユウナの心は晴れることはなかった。このままだと駄目だ、サクの枷になってしまうと、抗う心に反するように、体が動かない。思考が巡らない。
サクやサラを気遣わせぬよう、愛想でも笑うことさえ適わない。心に従った表情が作れない。今まで自然にしていた喜怒哀楽が、作れない。どう作ればいいのかわからない。
今の自分は――歩いているだけの、生ける屍だ。
もしもリュカを待って私室にずっといたのなら、今頃、見る景色は違っていただろうか。
……否、リュカは自分を抱き、よくわからぬ〝玄武の鍵〟とやらを手に入れ、あの金色の元に駆けつけただろう。
どちらにしても、リュカにとって自分は道具であり、捨て駒なのだ。どちらにしても、これが定められた自分の運命には違わないのだ。
――苦しみ続けろ、永遠に。
「リュカ……」
苦しい。
苦しくてたまらない。
憎んでいるのなら、どうして殺してくれなかったのか。
「………っ」
……ユウナがリュカの名を呟く理由は恋しさゆえと思うサクが、密やかに顔から笑みを消して憂えた息をついたことに、ユウナは気づいていなかった。
そんなサクを、悲哀に満ちた眼差しで見つめているサラを、サクもまた、気づいていなかった。
シェンウ邸の貴賓室――。
ハン自慢の武具や、その武勲によりユウナの父親たる祠官から授けられた勲章や装飾品、武闘大会の優勝杯などが飾られている、名誉に覆われた煌びやかな部屋だ。
昔のユウナはこの部屋がお気に入りで、湯浴みの後はここに入り浸り、目を輝かせながらハンから説明を聞いていたものだったが、今はまるで興味を示さなかった。澱んだ目を、閉めきられた窓の外に向けている。
「姫様、お散歩しましょう」
突如パチンと手を叩いて提案したのは、サラだ。
「家に籠っているのは精神によくないわ。気分転換が必要よ。今日はお祭りが開催される予定だから、面白い催しもあるはず」
それは、ユウナとリュカの婚姻を祝うためのものであったが、辛くても現実に飛び出して前を見ないと、ユウナのためにならないと、サラはそう思ったのだった。
「しかしお袋、黒崙の民は姫様の顔を知ってるんだぞ? 婚礼の飾り付けをしている最中に、本人が現れたら……」
「どうせ婚礼は中止になるんだし、気になるのなら布で顔を隠せばいいわ。そうね、顔に傷を負った遠縁の子が、湯治に来たということで、私が連れて街を案内していることにすれぱ問題ないでしょう? 護衛のあんたが、意味ありげな少女と歩いて居たら、顔を隠していても一目瞭然だから……」
そこで言葉を切ったのは、屋敷の外が突如騒がしくなったからだ。
人々のざわめき。
複数の馬の音。
この屋敷の前で、馬の足音が止んだ。
慌てる下人の声と、荒々しい男達の怒鳴り声が聞こえる。
これは……。
嫌な予感を感じたのは、サラだけではない。サクの目もすっと警戒に細められ、不安気にしているユウナを勇気づけるように、片手に抱く。
「奥様、サラ様――っ!!」
その時、バタバタと足音がして、若い下女が駆け込んできた。
サクはユウナの顔を見られぬように、背中に隠す。
「皇主の……近衛兵が屋敷を改めたいと。その……サク様が中におられるのなら、引き渡すようにと……!!」
「……完全におたずねものね、サク」
「ああ。陽が昇ればすべてはないことにされる……そんなに甘い現実ではなかったみたいだ」
サラは下女に言った。
「サクが帰還したことは、近衛兵に話しているの?」
「はい……。門番が……」
部屋の外で、屋敷の主人の謁見もせぬまま、不躾にも荒々しく戸を開けながら、屋敷を勝手に見て回る狼藉者達の音に、サラの顔は無慈悲なまでに冷酷な顔つきとなる。
「私が時間稼ぎをしましょう。サク……、そこの窓から外にお逃げなさい。私があしらうから」
「俺、蹴散らかそうか?」
凜とした声でサラが言う。
「そんなことをしたらますますサクの状況が悪くなるだけでしょう。誰が息子を悪者にさせるものですか! 最強の武神将のハン=シェンウの妻のこのサラ、不在の夫の代理として、息子を護ります。ハンがいないからと、なめられてたまるものですか!」
威厳に満ちた姿に気圧された下女は言葉を失い、ユウナはまたもや勇ましいサラの変貌を唖然として見ていた。
サクだけが至って平然としており、愉快そうにその口は弧を描く。
「お~。お手並み拝見。じゃ、ちょっくら姫様と散歩行ってくるわ」
「ええ。そうして頂戴。サク――」
サクに放られたのは、壁に掛けられていた赤い鞘。それはサラがハンに嫁ぐときに持参した、実家に伝わる宝刀であり、名宝として一緒にこの部屋に飾られているものだった。
真っ赤な珊瑚で作られた鞘からは、刃があるようには見えない代物だ。
「初めてだな、お袋の宝物を俺に触らせたの」
「非常事態だからね。使い方はわかる?」
「なんとかなるだろうさ。振って固定すればいいんだろう? そんな話だったよな、確かこれは」
「そう。あんたならコツさえわかれば使えるでしょう。これを手にして、簡単にとっ捕まるんじゃないわよ」
「……ったりめぇだ。何年、武神将の息子やってると思ってんだ」
サクはにやりと笑うと、ユウナを両手で抱いて窓から外に出た。
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