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6.ハイドランジアは、冷酷な美にその身を染める

その茶は、縺れた糸を解いて

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 ◇◇◇

 和室の隅に、骨董のようにひっそりと置かれていた風炉と呼ばれる火鉢。
 圭子はそれに用意された炭を用いて、釜で湯を沸かし、なぜかバッグに入っていた帛紗と呼ばれる紅い布を取り出すと、慣れた手つきで畳んでいく。
 
 飲むときは器を左に回すか右に回すかくらいしか所作が思いつかなかった香乃は、圭子がすることすべてが物珍しく、ガン見状態である。

(圭子ちゃんは仕事では後輩ではあるけれど、こうしてみると凄い世界のお嬢様なんだわ……)

 どうせならば、和装姿の圭子にお茶を点てて貰いたかった。
 出来るならば、それを写メにとって、こけ嬢の勇姿を牧瀬に送りたかった。

 名取川流茶道の点前や作法は、香乃が思っていたものとは違い、奥ゆかしい大和撫子の嗜みというよりは、動作のひとつひとつが男性的で勇ましい。
 それは両手を八の字にしないで、両拳を畳につける挨拶も然り。
 武士のような作法は、物怖じしない圭子の性格に通じるものがある。

(でも茶道って、主がお客さんにお茶を点ててくれるものなんじゃ? これはおもてなしではないわよね……)

 違う流派の道具を使って、圭子の知る流派の茶を点て、屋敷の主に振る舞えと言われたのだ。
 圭子が冷ややかな目をしたのは、そのことに気分を害したからなのかもしれない。

 だが圭子は困った顔ひとつせず、実に堂々とした態度でお茶を点てている。
 当主はそれを慮る素振りはなく、名取川流の細かい作法を突っ込んで聞いてくる。
 それはただの興味というよりは、面接官の試験のようにも思えて、香乃の気分はよくなかった。
 
(まさか、圭子ちゃんの素性を疑って?)

 名取川文乃の姪を名乗る、家に乗り込んできた小娘。
 その正体を暴こうとしているのだろうか。

 そしてそれは、穂積も感じていたのだろう。
 彼が、質問を飛ばす父に向ける眼差しは、好意的には思えなかった。

 穂積は圭子の前で、香乃を巡って父との確執を曝け出している。
 それだけの親密な仲がなぜ生まれたのかを考えれば、圭子は香乃の擁護に現れたと邪推されても仕方がない。むしろ、それが正解なのである。

 猜疑心に満ちた空間――。
 居心地悪い中、河原崎の父親が、圭子が持参したらしい羊羹を切り分けたものを、皆に配った。
 透明な寒天の中には、河川をイメージした流線形に、花弁が散っているような模様が見え、納涼さが際立っている。
 ……まだ息子は、ネズミと格闘しているらしい。

 圭子は、人数分の茶を点てた。
 鮮やかな緑色をした薄茶が、香しい匂いを放つ。
 圭子は武家茶道の基本的な作法は説明したが、各々の好きな飲み方で飲んで欲しいと言った。
 
(さすが圭子ちゃん、わかってくれてる!)

 瞬きすら忘れて、緊張しながら名取川流作法を頭に叩き込んでいた香乃を思いやってくれたからだろう。
 気楽な心地となりながら、香乃は茶を口にする。

「……美味しい。こんなに美味しいお茶を飲むのは初めて」

 思わず笑みを零して感嘆した香乃は、無作法だったとはっとした。

「よろしいんですの。そう思って頂けたのであれば、光栄ですわ。なによりのお言葉です」

 だが圭子はにっこりと微笑むと、両拳を横につけて姿勢を正して言った。

「おば曰く、お茶とは……人生観を見つめ直す鏡のようなもの。作法という技法は、その鏡を磨くための精神修練にしかすぎません。心を覆った鎧を脱ぎ捨て、素の心で愉しみ、お茶がなにかに役立てるお手伝いをさせて頂けるのであれば、茶道に携わる者として、こんなに嬉しいことはございません」

 圭子の言葉が香乃の心に染み渡る。

 お茶の基本はお茶そのものを愉しむものであり、作法は茶を引き立てるための副産物である。
 器を右に回そうが、左に回そうが、茶の味は変わらない――そう思うと、当主への身構えが、楽になった気がした。

 当主の持つ『副産物』に惑わされて、本質を見誤るな。
 
 圭子にそう言われている気がして、香乃の背筋が自然にすっとまっすぐになった。
 呼吸がきちんと出来る。
 心なしか穂積の顔つきも、強ばりが解けている気がする。

(大丈夫。感情的にならず、その奥のものをちゃんと見れるはず)

 圭子は引き続き言った。

「未熟な若輩ながら申し上げます。ご当主とご令息との間にどのような取り決めがあろうとも、第三者にとっては、次期当主にさせるための口実にしか聞こえません。それを理由に係長……香乃さんを却下しようとするのなら、些か腑に落ちない点がございます」
「……なんだ」

 切り込んだ圭子に、当主は威圧的に尋ねる。

「ご令息の碧眼の扱いについて」

 当主と穂積の手がぴくりと反応した。

「ご令息の碧眼は、現在……真宮家で本当に特別な意味を持っていますか?」

 お茶を飲んで素に戻っていたのか、この親子の反応はやけに素直だった。

「な、なにを言いたい?」
「いえ、ただ……。次期当主たるご令息以上に力を持つ、碧眼のどなたかがいらっしゃるのではと」

 静寂の中、淡々とした圭子の声が響き渡る。

「その方をご令息よりも重んじているとなれば、ご当主とご令息との約束事の効力は弱まる。もしも次期当主なみの力をその方にお与えになっているのであるのなら、ご令息は約束を履行する義務を負わない。それなのにご当主は、いまだご令息に昔の約束が引き続き有効だと言い、その名の下に香乃さんを引き離そうとする。わたくしがひっかかるのはその点でございます」

(圭子ちゃんは、彼以外の次期当主なみの権力を持つ人間が、この真宮の家にいると見ているの?)

 それは誰?

「……それは推測の域を出ぬ」

 当主は微動だにせず、憮然とそう言った。

「はい。あくまでそれはわたくしの推測。それを見極めるのはわたくしの役目ではございません」

 圭子は穂積を見つめた。

「この真宮家においては複雑な上下関係がおありになるよう。なぜ〝それ〟を守らねばならないのか、なぜ〝それ〟を優先しないといけないのか、解き明かすのはご令息の役目」

 勿忘草色の瞳に光が点る。

「ご令息には、すべてを知る権利がある。なぜなら彼は、ご当主にはない碧眼だから」

 すると当主は歪んだ笑いを見せる。

「外部の者になにがわかるというのかね」
「外にいるからこそ見える小さな綻びがある。たとえば、和の中にどうして洋を作らねばならなかったのか。たとえばどうして、血の繋がりよりも碧眼を尊重するのか」

 当主は答えない。

「血の繋がりで言えば、従姉の香乃さんではなく、分家の志帆さんをご令息の連れ合いにしようとしていることもそう。ご当主も香乃さんのお母様も、反対する理由がおありと思われます」

(ちょっと待って……。改めて考えてみたら、凄く嫌な予感がしてきたんだけれど……)

 まさか、自分が近親相姦の末に生まれたとかいうことはないだろうか。

 母親と当主は母親が違う。それを知ってか知らずか姉と弟で愛し合い(あるいは暴行を受けて)、妊娠してしまい、花屋の父親はカモフラージュのために駆け落ちの形で結婚した、とか。

 母は真の父親である当主に娘の顔を見せに、本家に来ていたのだろうか。

(私と彼は、姉と弟だから……反対されていた?)

 もしそうであれば、近親相姦の末に生まれた子供もまた、近親相姦をしていることになる。
 目の前が絶望にくらりとする。

(いや、待てよ……)

――従姉弟がどうのの問題じゃない。あなたはこの先、その碧眼のせいで香乃を食らうわ。

 香乃のマンションにおしかけた母親は、確かそう言った。

――ええ。食らわれたら、誰かを食らって生きるしかない。……あなたの妹のように。

――私が真宮から駆け落ちしたのは、なにも恋愛のせいだけではない。抜け出したかったのよ、こんな気持ち悪い家から。そして私は娘を守りたいの、真宮から。

(違うわ。母さんが忌んでいたのは、当主ではなくて……碧眼だったわ)

 今はそれにかけたい。
 不可解な碧眼が理由だと。

「なぜ香乃さんは駄目なのか。それは、香乃さんがだけが担っている、真宮家において特別ながあるのではと、思うのです」

(わたしが担っている特別ななにかって……)

 香乃はふと思い出す。

(血……は特殊だったんだよね、確か。きーくんに血を送れるくらい)

 そしてそれを、当主は事前に調べていた。
 なぜそんな必要があった?

(う……わからん)

「そしてご令息もまた、香乃さんと結ばれてはいけない特別性があった」

(特別性……碧眼? なんで蒼い瞳の彼とわたしは駄目なの?)

 やはりどうしても、碧眼に意味がありそうだ。

 圭子の口調は、答えを知って勿体ぶって話しているというのではなく、穂積に問題点を客観的に伝えているかのようだ。
 そして穂積は、主観と客観を混ぜ合わせて、新たな答えを模索したらしい。

 やがて穂積の視線が圭子に合うと、圭子は微笑んだ。

「……とまあ、探偵気分を味合わせて頂きましたが、すべては推論。歴史ある家には、ミステリーがあって興味をそそられますわ」

 まるで他人事のような顔をして、圭子は深々と美しくお辞儀をした。

「長々と申し訳ございません。血縁者同士、積もるお話もおありでしょうに。それでは、わたくしは、名取川家流ネズミ退治方法を、河原崎さんの息子さんにでもお話していますわ」

 予定より大幅に遅れて、圭子は退場した。
 屋敷に騒動がおきていないのは、河原崎が空気を読んだからだろう。

(空気を読んでいないように見えて、空気をちゃんと読めるひとね)

 圭子が去ったあと、当主はくつくつと笑い出した。

「私の意趣返しに、きっちりと噛みつき、お前の背を押したとは。あの凶暴な娘を飼い慣らす人間を見てみたいものだ」
「……香乃の忠実な部下です」

 すると当主は香乃を一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。

(今のなに? ねぇ、なに!?)

 やがて静寂を、当主が破る。

「――穂積、あの娘の言葉でどこまで行き当たった」

 穂積は静かに答えた。

「香乃もまた、昔の俺と同じだったんですね。香乃は特殊な血を持つ。血以外……とりわけ免疫の部分でも、香乃の体には特殊性があるのかもしれません。彼女が真宮の誰かに、なにかあった時の代替品スペアとして扱われていた」

 香乃は驚いて穂積を見た。

「そして恐らく。香乃のお母さん……伯母もまた、誰かの生きてきたのでしょう。見たところ五体満足でしたが、体の中身はどうかはわからない」

(体の中身って……)

 それは、臓器のことを言っているのだろうか。

 そういえば、小さい頃に一緒にお風呂に入っていたとき、母の腹部に大きな傷痕を見つけたことがあった。
 昔大きな怪我をしたのだと、母が悲しげに言っていたことを香乃は思い出す。

「彼女は、子供を守るために家を出た。真宮の世界では、にあたる自分と同じ運命を辿らせまいと」

――私が真宮から駆け落ちしたのは、なにも恋愛のせいだけではない。抜け出したかったのよ、こんな気持ち悪い家から。そして私は娘を守りたいの、真宮から。

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