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しおりを挟む「青葉の人生だ。青葉が決めたなら、もう……何も言わない。……それに、会わなくても、友達では居られる。
便利な時代だからな。連絡先、勝手に消すなよ」
海途は眉間に薄ら皺を寄せ、それでも柔らかな顔で青葉にそう言った。
結局、別れを示す、たった一言さえ言えずに、海途は違う言葉で誤魔化した。
それすら言えない小心者——……
大人になったはずの自分が、小さく小さく縮こまって怯えている——そんな幻覚さえ海途は見えそうだった。
言いたく無い——
まるで子供のように、頑なだった——
重苦しい空気に抗うように、少しでも軽やかに、労わるように、時折お互いの視線が、闇夜の中の白い光に照らされて交わる。いじらしくも痛々しい時間がそこには流れていた。
何も言わないのは、狡いと分かってる——
いつだって、肝心な事は何も言えない……——
青葉は、言葉を発する事さえ出来なかった。
海途と一緒に迎えたこの結末が、青葉がずっと感じていた痛みを薄れさせ、そっと包み込んで安らぎを運んできてくれるはずだ。
けれど、ここにきてその痛みが消えることが、青葉は不甲斐なくも恋しかった。
全てを奪い去ったあの雨の日に、例えそれまでの全てが黒塗りにされて、未だに悪夢に怯えても、どこか寂しさを覚えるなんて、おかしいのだろうか——
お互いが、元いた、あるべき場所へ戻る——
そうする他に、出来ることは無い。
今そうしなければ、必死に守ろうとした美しい思い出さえ粉々に壊れてしまう。
あれは幻想だったのかと疑ってしまう。
込み上げるほどお互いを求めたあの真心は、所詮生まれ持ったお互いの体質故の幻だったのだと——
もう、この恋は終わった——
二人の物語は、幕を閉じた——
綺麗な思い出だけが綴られて——
これで良かったんだ——
お互いが、これ以上傷付け合わずに済む最善の方法だ——
青葉は何度も何度も自分にそう語りかける。
姿形の見えないものを、いつまでも追い続けたあの日々も、今日で終わり——
青葉は止まらぬ涙を拭うのも忘れて、ただ、過去と現在の記憶の欠片を嵌めながら、時折海途を見上げる。
あの頃、私達は私達だったから、惹かれあったんだよね……?
Ωとか、αとか……
関係、無いよね……?——
あの雨の日の、苦しく茹だる様な情欲は、きっと私と何も関係無い
私は求めてない
私じゃない
Ωのフェロモンに当てられ、前後不覚となった海途が青葉に触れた時、青葉にはそれがただ嬉しかった。それと同時に、虚しく空っぽで激しく自分を嫌悪した——
だって、私が本当に欲しかったのは……——
いっそ、拙い言葉で、口にだしてしまいたい……
矛盾した葛藤と、解けない疑い、その中で唯一青葉がしっかりと受け止め切れれたのは、ただ、自らが今も海途へ寄せる、募る思いだけだった。
けれど、そんな思いを口にすれば、あの雨の日に起きた現実と、お互いが昂る熱に魘され手を伸ばしてしまった、あの日の記憶の裏付けが必要になってしまう。
そうすれば、また答えの出ない問いに、二人は囚われて苦しむのだ。
本能に侵された欲望でしか無かったのか……——
本当にお互いが慕い合い求めたのか……——
Ωとα、最も強く引き合う二つの体質が、真実を曇らせて、晴れない疑いがついて回る。
所詮、ただαを増やす為の繁殖行為——
そう思えばいっそ楽だった。
諦めがついて、惨めな自分を憐れむ事が出来た。
けれど、例え、そうであっても……
もう、青葉に確かめる必要は無い。
堪らなく、海途が好きだ——
αでは無く、彼が好きだ
彼が、彼だから好きだった——
そして今も、堪らなく惹かれている——
その気持ちを、受け入れて良いのだと青葉は思えた。今日、この日だから、許される——と……
現実ではない、曖昧で未熟な〝物語〟を、二人一緒に終わらせられた——
あの頃 ちゃんと二人はそこに居た——と海途は、頷いてくれた。
青葉は大きなため息を吐き、誤魔化すように、けれど精一杯、心からの笑みを浮かべる。
「……橘くんの幸せを祈ってるよ、ずっと」
二人が再会して、初めて海途が見る青葉の笑顔だった。
「……前見て歩けよ。またな……。青葉」
示し合わせたように、ゆっくり二人は別々の方へ歩きだした。
お互いの足音に耳を澄ませて、振り返らないように、ただ前だけを見ていた。
エンディングが流れた——
終わった。
10年懸けて、終わった、やっと……——
海途は自室に戻ると、何も考えずに済むように、ただ無心になるため浴室に向かう。
それなのに、心地よい暖かさのシャワーを浴びれば、あらゆる記憶が洪水のように思い返された。
そこに、梨緒の香りは無い。
あれだけ通っていた恋人の部屋にも、ここ最近はそれらしい理由を並べて足を遠ざけていた。
梨緒への想いに、偽りは無かった。
なのに今、自らが抱える胸の内を晒すことに、躊躇いと少なく無い罪悪感があった。
自分はなぜ青葉に、こんなにも……——
終わった
ちゃんと
もう良い
もう良い筈なのに……——
シャワーから流れる水の音が、変わらぬリズムで流れ続ける。
Ωへの執着……——
青葉への思い……——
晴臣の指摘が、露わになった海途の背を鋭く刺し、深く深く体を切り裂いていくようだった。
「確かに、正気じゃねぇ……」
そうポツリと溢し、海途はそれでも尚晴臣の放った言葉を、何度も反芻する。
答えが出ない焦ったさと不安、そして自己嫌悪が、過去の無垢な自分さえ疑いたくなる。
それでも、未だに雨が怖くて、大嫌いなのに——
晴臣は言った。所詮海途と杉崎は一緒だと……——
あの頃海途は、鮮烈な初恋を美化して、消化できない別れと抗えない流れを変えたかった。
未来を変えたかった。
けれど一人もがいて、苦しむ事が怖かった。青葉が消えて、その苦しみが現実になって。
拒絶されるのが耐えられなかった——
逃げる事
忘れる事
それで全て無かった事に出来ると思い込む卑怯な自分が、楽になる為に青葉は幸せにやってると思い込んだ——
そうであって欲しいと——
あの輝きは、失われてはいないと……——
今抱えるこの思いは……
一体、何なのだろう……
海途はただ、自らに尋ねる。
逃げた癖に胸を張って言えるのか?——
青葉がΩだなんて関係無かった、と——
海途の体は、未だ克明に青葉に触れた肌の感触、この世のものとは思えない艶やかでうっとりとする香り、どうしたって抗えない強烈な情欲を覚えている——
そして、Ωの色香にまんまと翻弄された、自らを罰したくなるほどの、過ちも——
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