私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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「荷物すっくなっ……二泊三日の旅行かよ」
 
 青葉の古びたアパートのインターホンを押した人物は、焦りと戸惑いの表情を浮かべながらも、どこか素っ頓狂な調子で青葉に向かってそう言った。
 
 晴臣のそんな調子が先程の電話口の向こうの雰囲気とは全く違うので、正直青葉も拍子抜けだ。
 
 真夜中に近い時間帯にも関わらず、晴臣はいつもと同じスーツ姿で、青葉はもうシャワーを済ませ、すっぴんに髪を一纏めにしてジャージに近い格好だった。
 
 青葉は就寝前だったので仕方がない。
 
 けれど、パリッとしたスーツ姿のままの晴臣を見るに、距離があるところを急いで青葉の元へ車を走らせて来たのは青葉にもよく分かった。
 
 
 
 突然の連絡は、確かに青葉を戸惑らせた。しかし、晴臣をここまでさせる緊急性が高い事柄には、自分が絡んでいる——
 青葉を憂慮して——そんな晴臣の行動に、青葉はどうしても感謝より申し訳なさが募る。
 
 
 
 ここまでしなければいけない事柄——
 
 Ω——
 
 自身の持って産まれた性質以外に、青葉は心当たりは無い。
 
 
 けれど、こんな状況でも、出来ることは極々限られる事を、青葉は既に知っている。
  
 10年前にも、経験した——
 あの時——
 家族で緊急避難した時……——
 持って行けた物はほんの一握りだった。
 
 あの経験以来、青葉は余り物に執着しなくなった。いや、しないようにしていた。
 いつかまた、こうなることが分かっていたのかもしれない——
 
 
 
 晴臣にせっつかれるように車に乗り込んだ後も、本当に荷物はこれだけなのかと眉をへの字にして半ば呆れたように確かめる晴臣に、青葉は緊迫した空気に反してどこか気が緩む。
 
 あえて……そんな風に接してくれてるのかもしれないけど……——
 青葉の胸に、そんな思いが過った。
 
 車が走り出すと、外は小雨が降り始めていた。
 
 
 
 
「それで、どうしたの?急に……」
 
 予感が決して良いものでは無いのは青葉も分かっている。そして必ず、自身の性質が絡んでいることも……——
 それでも、確かめずにはいられなかった。
 
 
 
「……青葉、俺を信じれる?」
 
 ハンドルを握りながら青葉の方を向かない晴臣は、青葉の質問には答えずに青葉にそう尋ね返した。
 
 雰囲気がガラッと変わり、一向に視線の合わない横顔から発せられた言葉に、青葉はただ困惑する。
 
「何……言ってるの……?」
 
「俺さえ、本当は信じない方が良んだ……。お前、易々と車乗って言う通りにしてるけど……。そういう所、気をつけた方がいい……」
 
 晴臣はそう言って、一瞬苦虫を噛み潰したような顔をした。
 
 
 
「……杉崎が、青葉のこと探してる。
 青葉と杉崎が会った日から、その話題でずっと何人か盛り上がってた。
 ……ほとぼりがいつ冷めるか、様子は見てたんだ。杉崎がどこまで本気なのかも、分からなかった。
 でも、今日青葉の写真が流れてきた。 クラス同じだった女と会ったろ?あいつが写真流して、いろいろ言ってる。  もしsnsでΩとか流されたら、顔も割れてるし厄介だ。迂闊だったな。
 ……それにしても……自分から写真流すなんて、本当バカな女だよ……」
 
 晴臣はそう言い終えて、初めて青葉の様子をチラリと窺った。
 冷静で、落ち着いていて、それでいてどこか感情の無い晴臣の様子に、青葉の肌には不思議と鳥肌が立つ。
 
 初めて見る、晴臣の一面だった。
 
 感情を押し殺し、どこまでも暗い感情を晴臣は抱いているように青葉には見えた。鬼気迫る、とはまた別の、這うような絶対的な迫力に青葉は気圧される。
 
 それと同時に、青葉を襲った感情は、余りにも説明し難いもので、ただただ圧倒され青葉は顔を歪めた。
 
 
 ……杉崎 隆聖——
 
 あのαの男を、青葉はまだしっかりと覚えている。10年前も、そして今も——
 脳にこびりついて、決して拭えない。
 
 晴臣がここまですると言う事は、杉崎は本気で青葉を探しているということだ。
 
 Ωを探すα——
 理由は幾つだってある……——
 
 それらしい建前があれば、皆杉崎に恩を売りたいだろう——
 
 青葉の肩は、微かに震え始める。
 
 杉崎にとっていかにそれらしい建前であっても、Ω側の青葉が納得できるものなんて、きっと一つも無い——
 
 
 そして、あの時、偶然出会った同級生……——
 あんなに穏やかで幸せに満ちてるような人物の中にあるものは、一体何なのか——
 
 青葉にも想像はつかない——
 
 ただ、青葉が漠然と抱いていた、嫌われているような——という印象は、計らずしも決して好かれてはいなかったという現実と整合性が取れた気がして腑に落ちた。
 
 
 幸い、今まで青葉の写真や情報がsnsに流れた事は無い。いや、青葉が知らないだけで、暗に青葉を指すような内容の投稿はきっとあっただろう。
 だが、Ωである故に、それらの対処は迅速で重くない罰に処される。それは確実に抑止となっていた。
 幸い、直接的な被害も今の所は無い。
 
 だが、今回はどこか違った気がした。
 
 それが杉崎の影響なのか、逆に十年も経ってしまったからなのかは分からない。
 
 
 青葉はただ茫然として黙り込んだ。
 
 
 車体を打つ雨の音が車内に響く。
 
 いつしか細かな雨粒は、本格的な雨へと変わっていた。
 
 この音——……
 この匂いさえ……
 雨粒一つであっても——
 
 全部が、未だに大嫌いだ——
 何度も何度も、いくら這い出ようと足掻いても、引き摺り戻される。
 振り払っても、まとわりついてくる——
 
 逃げようも無い——
 
 震える体と怯える自身を隠す位しか、青葉には結局出来なかった。
 何も無かったように虚勢を張ることしか、自分には出来なかった——
 
 
 
「……今、この状況で、一番大事なのは青葉が安心出来る事だ。だから、俺のこと——」
 
「信用してる」
 
 
 青葉は晴臣の言葉に被せるようにそう言った。見捨てないで——とも少し違う、けれど縋り付くような声で、俯きながら、青葉はそう呟く——
 そうであって欲しい——そんな薄らとした希望を青葉は捨てたく無かった。
 
「信用してる……」
 
 晴臣は横目で青葉を見ると、一瞬眉を顰め、車を路肩に寄せる。
 
 
 虚な青葉の瞳の奥を、晴臣は体を屈め、目を凝らして覗き込んだ。
 
 少しでも、その悲しみや痛みを和らげられるなら……——
 
 
 晴臣は徐に震える青葉に手を伸ばす。
 けれど、青葉の頬に触れるか触れないかの所で、晴臣の動きは止まった。
 
「なんて顔してんだよ……」
 
 晴臣は力の入らない声でそう言った。
 
 青葉の鼻先に、晴臣の指先がほんの僅かに触れる。
 青葉の震えた体は、息を呑むように一瞬大きく震え、そして止まった。
 
 
「……もし、何かが始まったら、それでもいつか、必ず壊れるのかな……
 それとも一度壊れたら、また……何か始まる……?
 βには、一体何が出来んだろうな……」
 
 晴臣は優しく、そしてどこか寂しげな虚しさを込めてそう呟いた。
 決定的な言葉でも無い、ただの独り言の様に、悲しげな声だけが車内に響く。
 
 
「……俺からも手は回せる。でもそうすると、今の青葉の苗字や状況がバレる可能性がある。それは、出来る限り避けたい。……とりあえず今は誰にも言わずに身を隠した方がいい……。アリサちゃんにも……。橘にも……」
 
 晴臣はそう言って体を少し起こすと、自身のスーツの内ポケットを探る。
 そしてそこから出てきたのは、パリッとしたスーツには似つかわしくないマスコットキャラのキーホルダーが付いたスマートフォンだった。
 
 青葉が見て回った、ポップアップストアにあった物と同じ物だ。
 
「全く、いつまでこういうの好きなんだよ……」
 
 フッと鼻で小さく笑った晴臣が、未だ顔を俯かせ、顔色の悪い青葉にそのスマートフォンをスッと差し出す。
 
 
「とりあえずそのスマホ使ってて。俺も、四六時中一緒には居れないから。まぁ、一応……お守りみたいなもん」
 
 そう言って、晴臣は優しく微笑んだ。
 
 青葉は少しだけ顔を上げて、差し出されたスマートフォンを受け取る。
 晴臣の気遣いは、確かに心強い。
 けれどそれと同じ位、自身の不甲斐無さと情けなさに、まともなお礼一つ言う余裕さえ、青葉には無かった。
 
 
 
 
 
「靴、似合うな……」
 
 晴臣は徐に青葉の足元に目を遣り、そう言う。
 青葉も未だ見慣れない真新しいしっかりとした靴——そこに、見慣れた穴はもう無い。
 
「……橘も、大概マメだな」
 
 晴臣がなんとも言えない呆れた笑みを漏らし、そして車はまた走り出した。



 晴臣には、やっぱり……なんでもお見通しなんだな……——
 
 青葉は晴臣の横顔を見る。
 
「……ありがとう。晴臣……」
 
 青葉がそう小さくお礼を言うと、晴臣は両眉を上げて大きく溜め息を吐いた。
 晴臣はアクセルを踏んで、先を急ぐ。
 
 フロントガラスは降り頻る雨を弾いて、車はより速く目的地を目指した。
 

 
 
 
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