私に残った物、もうΩしかありません。

塒 七巳

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 着いた先は、都心から少し外れた郊外にある街だった。
 
 真夜中のせいもあってか既に街は静けさに包まれ、近くにある商店街のシャッターは軒並み閉まっている。
 
 晴臣は慣れた様子で商店街すぐ近くにある大きめのマンションへ車を停めた。
 
 青葉は晴臣に促されるままマンションの敷地内へ入り、晴臣は勝手知ったるようにオートロックを鍵で解除してエレベーターへ乗り込む。
 
 目当ての部屋に着いた晴臣が玄関を開くと、自然と電気は点いた。
 
 「わっ……——」
 清潔感のある香りと、少ないがシンプルでセンスの良い家具が揃う部屋に、青葉は自然と声が漏れた。
 
 築年数が経っていると思われるどっしりとした外観に反して、部屋の中は隅々までリフォームされてまるでモデルルームのように整っていた。
 
 
「俺の投資用の物件。少し郊外だけど、商店街も薬局もあるし、もう少し行くと大きいスーパーもある。アクセスもそんな悪く無いから住みやすいと思う」
 晴臣はそう言って青葉の少ない荷物を部屋のソファの前へ置いた。
 
「住みやすいって……え、私?」
 
 青葉は戸惑ったまま、玄関で靴も脱がずに晴臣を見る。綺麗な部屋へズカズカと足を踏み入れるには流石に少し躊躇した。
 
「他に誰が居るんだよ。家賃は貸しにしとくから、暫くここ使えよ。生活に必要なものは最低限揃えてある」
 
 
「いや……いくらなんでも……——」
 青葉は咄嗟に首を振る。
 
 果たして晴臣にそこまでさせることは正しいのか——
 いくら青葉に頼る瀬が無いとはいえ……——
 
 青葉の表情は途端に曇りだした。
 
 
「俺が声掛けて部屋から連れ出したんだから、そこは責任取る。ほとぼり冷めるまではここに居れば良い。……貸しだ、貸し」
 
 そう言って晴臣は窓を開けて部屋の空気を入れ替えた。風に乗って香る空気は、湿っぽい雨上がりの匂いがする。
 
 
 畏まった態度を取れば、晴臣が逆に気を使ってしまうのを青葉も理解していた。 かと言って、易々と身に余る厚意に乗っかってしまうのは、いくらなんでも図々しい——
 今までもどれほど晴臣に助けて貰ったかは分からない——
 青葉は自分が晴臣の懐と情の深さに付け込んでいるだけで、支えてばかり貰っている事に、少なからずの罪悪感を抱いていた。
 だから——
 それでも対等に——と自身はΩである事も受け入れ、大丈夫なんだと晴臣に虚勢を張ってきた部分もある。
 
 幼馴染——
 昔と今を知る、唯一の人——……
 
 青葉は眉間に深い深い皺を寄せて、窓の外を眺める晴臣の背を見つめる。
 
 ——誰よりも信頼し、誰よりも長い付き合いの人物……その癖、オークションの事なぞ、青葉は晴臣に一言も言えていない。
 
 失望されるかもしれない……——
 
 そんな思いが過って、生々しい話題に晴臣を引き込むのは憚られた。
 やっぱりお前はΩなんだ——と晴臣に思われる事を青葉は嫌い、避けていたのは確かだ。
 
 
 
「……さすが……先生……。投資用だなんて……しっかりされてますねぇ……」
 青葉は暫く考え込んで、いつものように軽口を叩いてみた。あくまで自然に、務めていつもの間柄のノリでそう言った。
 だが、声は弱々しく、明らかに不自然だ。
 
 
「……アホか、ローン地獄だわ」
 あと先生ってやめろ、と晴臣は呆れたように笑って青葉を振り返ると、青葉の前に立って青葉のおでこを指で小突く。
 
「……弁護士先生に貸しなんて恐ろしくて恐ろしくて……」
 
「絶対回収するから、安心しとけよ」
 
 念押しするように、晴臣はそう言って青葉のおでこをまた軽く指で突いた。
 
 
 その後晴臣は時間も時間なので仮眠を取ると言って別の部屋へ行き、青葉は案内された部屋のベッドで体を横たえた。
 
 
 
 暗がりの中、ぼんやりと部屋にある物の輪郭を青葉は眺める。
 
 晴臣への借りは、今の青葉にとってこの上なく有難い。けれど、重苦しい何かに縛られて、息苦しい——
 
 誰かに守られる——
 
 その状況は青葉にとっては崩壊のサインに思えるのだ。人生がガラリと変わり、家族がバラバラになった、あの時のように……——
 
 差し伸べられる手を振り払う力さえ、自身には無い。
 虚勢を張る余裕は既に無いのだ。
 かといって、私は大丈夫——と安心させられる材料も無い。その無力感が、青葉の首元を締め、息苦しさは増す。
 
 このまま、この暗がりに溶けてしまいたい——と青葉は漠然と思った。
 静寂に包まれた清潔な香りがするこの部屋で、ただ何にも追われる事なく、この罪悪感と情け無さも一緒に飲み込んで、
ただ暗闇の中に居たい——
 
 青葉は瞼を閉じる。
 
 瞳を閉じても変わらぬ暗闇は、居心地が良かった。今置かれている状況が、夢か現実かも曖昧にさせてくれるから——
 


 青葉が目が覚めた時、辺りはまだ暗かった。
 
 ほんの少し眠ったわりに、体は重く怠い。丸一日経過していたと気付いたのは、リビングにあるテーブルに置かれた、晴臣が用意したであろう朝食と書き置きを見つけた時だ。
 
〝残さず食べろ〟
 
 几帳面な字と、様々な種類のパンが綺麗な楕円のお皿に載せられていた。
 
 
 その優しさが温かいと同時に、あの時、あんな事しなければ……——と青葉は悔しく虚しさが募る。
 
 単なる気分転換だった——
 キラキラとした懐かしさに吸い込まれて、出来心で立ち寄った——
 それだけだ……——
 
 晴臣に渡されたスマホに付いている可愛いらしいマスコットキャラクターは、青葉にとって手厳しい戒めとなった。
 鈴木と言うかつての同級生から自分に向けられたのは、決して好意では無かった、という現実と共に——
 
 
 母となり、子を持ったかつての同級生——羨むほど眩しい温かい家族の姿—— 青葉に無いものを全て手にした鈴木がその下に抱いていたのは、恐らく自らに向けられる嘲弄——
 Ωの、かつての、話題の……そんな飾りの付いた、暇つぶしに持ってこいの偶然に鈴木は飛びついたのだ。
 
 
 青葉は全てが整った、けれども冷たい空気が漂う部屋の壁に背を付き、床に腰を下ろす。明かりを付けるのさえ、億劫だった。
 
 考えたく無いのに、考えてしまう—— 比べたくなくても、比べてしまう——
 
 10年、到底充実してたとはいえない長い期間、青葉が得たものはこの現状を変えたい、という衝動だけだった。この苦しみも、悲しみも、痛みも全て、ただ変えたいと抗った。
 進まぬテキストに向き合って、机の上で目覚めた朝も、悪夢を見なければそれで良いとさえ思っていた。
 
 変えたい——そう願っていさえすれば、Ωである自分の事を、ほんの少しだけ忘れた。自分は普通の人間だと、束の間の夢を見れた……——
 
 
 青葉は俯きながらフローリングを眺め、微かに震える体で大きなため息を吐きそうになった時、ポケットの中が大きく震え始めた。
 
 画面を確認すると、その相手は先日会ったばかりの相手だ。
 しかも青葉の許可無く青葉の連絡先を入手した人物でもある。
 適当な力で画面に触れた筈の震える指は、図らずしも、その電話を取ってしまった。
 
 
「青葉?今どこ?」
 スマホを耳元に当てる前に、青葉の耳にはどこか鬼気迫る、焦りの色を滲ませた海途の声が入って来た。
 
「……どこって」
 海途がなぜそう尋ねてくるのか、嫌でも青葉は察しがつく。
 
「青葉?」
 青葉が答えないでいると、海途はもう一度青葉の名前を呼んだ。
 
「……写真、もう見た?杉崎の事も、知ってるよね?」
 青葉は淡々と、か細い声で海途にそう尋ねる。海途の周りからはがやがやと騒がしい雑踏の音がした。
 
「ああ……。知ってる」
 雑踏の中からでもよく通る、抑揚も無い、冷たく冷静な声は、青葉が再会した頃の海途を彷彿とさせる。
 
 
「……青葉、暫く別の場所に居た方が良いと思う。俺が今借りてる所はセキュリティもしっかりしてる。俺は別の所でも寝泊まり出来るから」
 海途は恋人の家があるので、そう言ってるのだろう……と青葉も簡単に予想が出来た。
 
 救いの手を差し伸べてもらえる事は、幸福なことだ。勿論晴臣にだって言い尽くせない程青葉は感謝している。
 なのに、やはりどうして……こんなにも息が苦しいのだろう……——
 
 
「……誰かさんみたいに、突然家に来たりしてね」
 わざと、そんな笑えもしない皮肉を青葉は口に出した。
 しかし、海途が訪ねて来る事が出来たのだから、富と権力を持った杉崎にだって出来ない理由も確かに無い。
 海途がした事を負い目に感じているのは青葉も察していた。その負い目を青葉が利用しても、海途はきっとそれを分かった上で受け入れるだろう。
 
 けれど、これ以上海途の人生に首を突っ込む訳にはいかない。余計なトラブルの種には、青葉はもうこれ以上なりたく無かった。また罪悪感と情け無さが燻って、ジワジワと青葉の胸に痛みを生む。
 
 あの新しい靴を、履いてる癖に——……青葉は自身に対し、そんな痛いところを突く。
 晴臣の迎えが来る時、青葉は迷わず海途に贈られた靴を履いた。持っていけるものが少ないと、知っていて——
 
 
 10年懸けて、終わらせられたのに……——
 
 
「……もう、今違う所に居る」
 青葉がそう小さく言うと、少しだけ沈黙が流れて雑踏の音だけがよく聞こえた。
 
「……永瀬、手回すの早いな」
 分かってると言わんばかりに、鼻に抜けるような笑みが混じった声だった。
  
 穴の空いたスニーカーが、自分にはお似合いだ——
 青葉も、それは分かっている。
 
 
 
「……ごめん、もういい?もう休むから」
 それだけ言うのに、青葉は精一杯だった。
 
「……ああ、ごめん。……おやすみ、青葉。また連絡する」
 
 
〝おやすみ〟
 
 優しく、労わるような声色が、青葉の鼓膜を震わせる。
 聞いてはいけない言葉を聞いてしまった気がして、青葉はすぐに電話を切った。
 
 得体の知れない感覚が迫って来て、青葉の記憶は呼び起こされる。記憶に覆われる前に、青葉は急いでそれらを掻き消した。
 
 何が起こるか、明日に期待してしまうような、胸に小さく灯る光——
 その光は眩しい。目を覆ってしまいたくなるほど……——見ない方が良かったと、きっと後悔する。
 
 
 次の瞬間、暗闇を白い光がパッと照らし、青葉のスマホはまた震え出す。
 
 青葉が画面を確認すると、有紗からだった。
 
 そう言えば、連絡し忘れた……と青葉も直ぐに電話を取る。
 
「……有紗?」
 
 
「……もしもし、星川さん?」
 
 
 その声は有紗とは似ても似つかない、粘っこく低いしゃがれた男の声だった。
 
「アリサちゃんが呼んでるよー、星川さんを」
 
 途端に青葉の体にぞわりとした悪寒が駆け巡る。
 
「っ有紗……!有紗を出してっ……!」
 
 
「それは無理かな。アリサちゃん寝てるから。多分、暫く起きない」
 
「……何を……一体何をしたの?!」
 
 青葉の体は大きく震え、発する声はヒステリックに大きくなった。
 
「星川さんが来てくれたら、アリサちゃんすぐに帰れるよ。ここに来てね、場所送るから」
 
 受話器の向こうが何やらガチャガチャと言って、何やら揉めているような声がした。
 
 
 
「着いたら連絡しろ。逃げるなよ、話があるだけなんだから。分かるな?バカな事考えんな」
 
 先程と違う男の、重く、鋭い声がした。
 
 
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