明敏犀利の蒸気歯車機関(めいびんさいりのスチーム・ギア)Ⅰ

野村だんだら

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1その4

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 随分と歩かされた気がする。
 少女に手を引かれるまま辿り着いたのは、テムズ川を背にして建つ一軒の宿屋だった。これの隣にある、壁材に赤レンガを使った建物の、一階には小奇麗なパブがあって、反対側にも、流行り物のブティックや雑貨を扱った店舗が、ショーウィンドウを配したレンガ壁のビルヂングに入っている。
 対して、こじんまりとしたその宿屋は、白の漆喰が清潔感のある外観ながらも、むき出しの柱や梁と筋交いはハーフティンバー様式とあって、ここに年季が入っているだけでもう、なんだか民家然としていた。中途半端に装飾の施された柱やベランダの柵などは控えめに言っても百年分のカビが生えたような古臭さで、地元の職人が意匠を凝らしただろうエントランスは、両隣をお洒落な店で固められていることも相俟って、幾分か窮屈な様相で収まっている。
「この外観でも部屋には一応、シノワズリを取り入れてるのよ。おかしいでしょう?」
 扉に手を掛けた少女は、ふと振り返った。「いい? ジャポネズリーに入れ揚げたミーハーな東洋趣味の令嬢と、それに付き合わされている東洋人、って風体を装えば怪しまれることもないから。とりあえず、今は黙って部屋まで付いて来てちょうだい。変に遠慮すると、却って児童買春を疑われて面倒よ」
 千早が「分かった」と頷きを返せば、少女は、自身の身の丈の倍はあるだろう扉を押した。華奢な体躯に重厚な木戸はいかにも重たそうで、隣に立って手を貸すと、振り返った彼女は、一瞬ほど意外そうな顔をしていたものの、すぐにニコリと微笑んだ。
「優しいのね、東洋人。わたし、誰に声を掛けるか迷っていたのだけれど、あなたを選んでよかったわ」
 よかった、ねぇ……。
 その割には、先程から人のことを東洋人、東洋人と。まあ、好意的な言葉を掛けてくれている以上、少女に悪気など無いのだろうが。
「千早」
「え? チ、ハ……ヤ? ええと、ごめんなさい。よく分からないわ。なに?」
「名前だよ。千早雅純。で、その東洋人、ってのは色々と十把一絡げに言われているようで、あんまり愉快じゃないからやめてほしい」
「ああ、なるほど名前……そう、チハヤ・マサズミね。けったいな響きだけど、異国情緒がして素敵。その響きが、あなたの国と言葉なのね」
 何が可笑しいのか、少女はクスリと微笑んだ。「わたしはマギエラよ。でも、そう呼ばれるのは好かないから、今だけの短い付き合いでも、あなたはエリーと呼んでちょうだい。チハヤ」
「するとエリーは、自分の名前が嫌いなのか」
「名前にも意味とか由来があってね、マギーって響きが嫌なのよ。まったく、お母様ったら安直に付けてくれちゃって……」
 そう言うマギエラは子供っぽく唇を尖らせて、やはり子供のような愚痴を零した。
 宿屋の一階は、その昔はパブとして賑わっていたのだろう。テーブルや椅子の脚で付けられただろう傷が、艶のある床板にあって目立っていた。受付はエントランスホール隅の方、窓から一番遠い位置にある。古いわりに小奇麗にしている建物の内では、その場所だけが唯一じめじめと陰気臭い雰囲気を漂わせると共にすっかり薄汚れていた。
 木製のカウンターには、コーヒーや紅茶などを零したのだろう痕が黒々と染み付いていて、今日なども半分ほどを液体で満たしたジン・トニックの瓶が、栓を抜いたまま置いてある。そんな受付にいた中年の女は、椅子にどっかりと腰を据えたまま赤ら顔をしていて、遠目にも酔っているだろうことは明らかだった。
 受付の女に声を掛けたマギエラは、先程とは打って変わって明るい声色になる。
「ただいま、アーシェ。見て! ホワイトチャペルで素敵な玩具を見つけちゃったの。部屋に入れるけど、構わないでしょう? それとも追加のコインが必要かしら?」
「うん? ああ、マグヌスのお嬢さんだね。好きにしなよ」
 マギエラにアーシェと呼ばれた受付の女は、溌溂としたマギエラとは対照的に、いかにも気だるげに応じている。「素敵な玩具」の正体を確認するでもなく、シッシッと蠅でも追い払うように、顔の前で手をひらひらさせてどうにも無気力な女だ。
「ありがとう、好きにするわ。半クラウンを置いておくから、これを使ってパブでお酒でも楽しみなさい。東洋じ……チハヤ、部屋はこっちよ」
 マギエラの手から引っ手繰るようにして施しの銀貨を受け取るくせに、ひと言の礼すらも無い。奇妙な女だ。
 とはいえマギエラに「黙って部屋まで付いて来て」と言われそれを承諾した手前、女の無礼な振舞いを咎めることもできない。気にした様子のないマギエラに倣って会釈をしつつ前を通り過ぎる千早を、ふと一瞥した女は、動物園のサルでも見るような哀れみと無関心の混じり合った、酷く冷たい眼をしていた。
「玩具、ねぇ……」
 女が、ぼそりと口を動かす。殆ど聞き取れないような声だったが、おそらく、次のように言っていたように思う。
「天使みたいな顔をして恐ろしいお嬢さんだよ。自分が何を言っているのか、東の山猿にでも犯されちまえば、少しは分かるようになるもんなのかね」
 正直、ギョッとした。
「チハヤ、どうしたの?」
 知り合って間もない少女は、しかし平気そうな顔をしている。
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