明敏犀利の蒸気歯車機関(めいびんさいりのスチーム・ギア)Ⅰ

野村だんだら

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2 ローズマリー・レーンの切り裂き魔 その1

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 この古着街ローズマリー・レーンにはプライバシーなぞ無いも同然だ。まん中に道筋みたいなもの――街路などとえらそうに呼ばれている――がついていて、左右に家並みを分けてはいるものの、ぎっしりと店が並んでいるこの地域は、大家族がおさまっている、さながら一軒の家のようである。
 ――ヘンリー・メイヒュー。


 初めて食したチキンカレーなるスープは、なかなかに美味であった。
 して、マギエラに代わって昼食をいただいたものの、しばらく待っても彼女が戻って来ないため一階に降りて書店を覗けば、扉を開けたところに一人の少女が立っていて眼が合った。灰色がかった青い瞳が綺麗な彼女は、小さな身体に長い手足と、サラサラした亜麻色の髪をしていた。
 少女の第一印象として、深窓の令嬢という言葉がピタリとハマったように思えたのは、きっと書架を背に立っていたことが主な要因だったに違いない。というのもよく見たなら、レース編みのショールの下は、白く骨ばった肩だけでなく鎖骨の浮いた首元も剥き出しで、シノワズリを採り入れたドレスについても、胸元を飾る青色をした花柄の上に、微かな丸みを帯びた白い肌が大胆に覗いていたのだ。要するに、慎み深い淑女の召し物としては、控えめに言っても煽情的であった。
「あ、どうも……」
 千早が反射的に会釈をしたところ、訝しそうに首を傾げた彼女は、
「変わった服……」
 とひと言、目をパチクリさせた。「……ああ、もしかして。あなた、エリーの話にあった日本人?」
 少女は、どうやらマギエラの知り合いらしい。
「どんな話をしたか知らないけど、そうだと思うよ。僕は千早正純。君は、エリーの友人かい?」
「ええ。ここ二週間くらい仲良くしてもらっている、ミリアよ。ミリア・ウォルターズ。歳は十三だから、あなたと同じくらいかしら?」
 同じだって? とんでもない。千早は十八だ。いや待てよ、これは数え年だから英国式の満年齢なら……まあ、なんにせよ、だ。自分が周囲の者からどのように見えているのか、とても不安にさせられる。
「僕は、十七だよ」
「あら、見えないわ。すると、あれね。日本人って可愛いのね!」
「可愛い、って……僕に言わせれば、イギリス人は子供もまるで大人のようだよ」
 とはいえ、このミリアの場合は例外だ。大人でも子供でもない思春期の、膨らみかけの蕾のような少女は、無辜の乙女然とした容貌である。そんな彼女が煽情的なドレスを身に纏えば、危うい背伸びをしていると言うか、間違った大人の格好をしているといった印象になる。要するに、子供だ。
 ところがミリアは、千早の言葉を額面通りに受け取ったらしい。
「まあ! 褒めるのが上手なのね!」
 そう言って、可愛らしくもコケティッシュに笑う。「そうだわ。ミスター・マサズミから見てわたしが大人なら、あなたに提案があるの。今晩……いえ、なんなら今からでも、わたしを買ってくれない? ベッドの上で遊びましょうよ。ね、どうかしら?」
 ショールを下げて、肩を剝き出しにするミリアだ。服装からしてあるいはもしやと思ってはいたけれど……なんか、もう、デジャヴだった。
 しかしながら、昨日のマギエラは娼婦を騙っていただけに過ぎず、おまけに不慣れときていた。対して、目の前の少女はいかにも慣れた様子でいて、間違いなく本職だろう。きっぱり断らなければ、下手をすれば宿の部屋まで押しかけてきそうだ。
「遠路をはるばる倫敦に来たんだ。そんなことに使えるお金の持ち合わせなんて僕には無いよ。だから、他を当たると良い」
「そうねぇ、じゃあ……あなた可愛いから、優しくしてくれるなら安くしてあげるわ。今なら、この可憐な乙女の柔肌がなんと半ソヴリンと一クラウンそれぞれ一枚ずつよ。格安だわ。どう、買うでしょう?」
 ええと、半ソヴリン金貨が十シリングで、一クラウン銀貨がたしか五シリングだから……いやいや、計算している場合じゃなくて。
「あのねミリア、だから……」
 ふと、書店の入口脇にあるカウンターの方から、ため息がした。キーン夫人だ。
「前にも言ったと思うがね、ミリア。ここは書店であって娼館じゃないんだ。客を捉まえるなら外に出て、店から離れてやりな。児童買春を斡旋してるなんて変な噂が立ちでもしたら、こちとら困るんだよ」
「だって、前に外で客引きしてたら、警察に呼び止められたんだもん」
 子供らしく脹れるミリアに、キーン夫人はまたぞろため息で応じている。
「だからそんな仕事は辞めな、って前から言ってるんだ。それに聞いていれば、自分をあんまり安く売るんじゃないよ。あんたはまだ幼いが美人なんだ。お前さんさえよければ、ウチで働いてくれてもいいんだよ? きっと良い看板娘になるから、そうしてくれるとわたしも助かるし、さ。なんなら、学校にだって」
「ありがとう、おばさん。でも、いいの」
 素直な感謝を述べる口が穏やかに微笑みを湛えた一方で、直後に拒絶するとともにミリアが見せた表情は、ただ目を細めているだけの、取って付けた仮面のような笑顔だった。
「いい、って……あんた」
 痛ましいものを見るように眉を歪めて、それからキーン夫人は、言葉を選ぶように瞑目する。やがてかぶりを振った書店の女主人は、深々と長いため息を残して、カウンターの奥へと引っ込んでしまった。
「いいの? キーン夫人は助けてくれる、って言ってくれてるのよ?」
 見ればマギエラが、近くの棚の前で商品だろう本を立ち読みしていた。オスカー・ワイルドで、サロメ※①。真剣な声音のわりに頬が少し赤いのは、挿絵のビアズリーのせいだろう。彼の絵は少々扇情的で、千早の家では有害図書指定されている。
「いいのよ。だって、エリー。わたしには、わたしの居場所と仕事があって役割があるの。わたしがそこに収まっている限り、わたしを取り巻く全てが上手くいくのよ。なのに、そこから出て行くだなんて馬鹿げているし、考えられないわ」
「取り巻く全て、って……兄弟姉妹の幸せを願うのは立派だけど、あなたの言う『全て』にはミリア・ウォルターズが含まれていないじゃない」
 ミリアが、目をパチクリさせた。
「エリー。妹達のこと、知っていたの? わたし、話した?」
「それくらいのことは半月近くの付き合いがあれば聞かなくたって分かるわよ」
 肩をすくめて、立ち読み途中のサロメを閉じる。「書店に足繁く通うわりにあなたが買う物と言ったら一ペニーの新聞だけ。それもニ、三日置きに一部だけだわ。あと、この店に寄るのはリージェント街からの帰りらしいけれど、あなたが何か買った物を手にして現れるのを、わたしは一度だって見たことがない。ショーウィンドウの前でため息をついている姿なら、何度だって見たけどね。
 ミリア。あなた、街娼なら自分をより良く魅せるために着飾るものなのに、ウィンドウショッピングにかまけてそれを怠っているわね。
 それは何故か?
 稼いでいない、と言うわけではないわ。チハヤ相手に安くして十五シリングだもの。たぶん、普段は半ソヴリン云々なんて言わずに一ポンド以上を取っているわよね。ミリアは色白で可愛いし髪も綺麗で、おまけに積極的で肝まで座っているから、週に数ポンド……あるいは身体を労わらないで働くなら十ポンド近くを稼ぐのだって、きっと出来るのではなくて?
 それなのに新聞は数日置きだし、新しい服は買わない。そのシノワズリにしたって、上客を釣るには充分なくらいに綺麗だけれど古着だわ。一張羅を仕立てるなら、流行りはジャポネズリーだもの。暮らしに余裕がなくたって、若い娘はシノワズリを買ってまで着ない。だからそれは、裕福な家庭で育った母親が若い頃に着ていた、ドレスを、仕立て直した物ということになる。それと、アクセサリーだって、いつも同じ物を付けているから必要最低限しか持っていないでしょう?
 あなたはお金を稼いでいるのに、自分の身の回りにはまるで使っていない。すると、親族に仕送りをしているのではと考えるのは、健全で自然な思考だわ。そして、まともな親なら娘を娼婦になんてしないし、酷い親だったところで野放しの街娼になんてせず娼館に売るでしょうから、すでに死別しているものと思われる。
 あなたに残された家族は、兄弟姉妹……いえ、兄や姉がいたなら子供のミリアが身体を売る必要はないわね。だから、あなたが守っているのは、小さな弟や妹ということになるわ」
 ほぅ、と感嘆の息を、ミリアが吐いた。
「エリー、って……凄いのね。まるで話に聞くシャーロック・ホームズ※②だわ」
「小説の名探偵なら、会ったその場で全てを言い当てるわ。だから、そんなふうに褒めたって誤魔化されないわよ」
 言って、マギエラは顔をしかめた。「いい? ミリアの幸せは、あなた自身が願ってあげなきゃ、目の前に見えていたところで消え失せてしまうわ。自ら手放すだなんて、そんなのは駄目よ。性病を患えば終わりなのよ?」
「優しいね、エリーは」
「ちょっと、茶化さないでよ」
 ムッと小さく柳眉を逆立てるマギエラに、ミリアは目を細めて穏やかに笑った。
「茶化したつもりもなければ、誤魔化す気もないよ。妹達を養いながら自分の幸せも、ちゃんと考えてる。エリーには分からないかもしれないけど、街娼を買うお客さんだって悪い人ばかりではないわ。酷い人もいれば、良い人だって中にはいるの。
 たとえば……わたしね、常連のお客さんから文字を教わっているわ。その彼はね、わざわざお金を払っておきながらベッドに潜りもしないで、一晩中わたしの隣で一緒に机に向かってくれるの。もう、かれこれ一年くらいになるかしらね。おかげでね、前は看板の文字もさっぱりだったのに今では新聞が読めるわ。まあ、読むのに時間がかかっちゃうから、それで買うのが数日置きになるんだけどね。いつかは本を丸々一冊読みたいなぁ、って思っていて、それでこの店に通っているのよ、わたし。
 あと、ね。そう! この前はね、そろそろ数学も教えてあげるよ、って言ってくれたのよ! 数学よ! 数学! 学校にほとんど行けていないわたしなんかには、文字が読めるだけでも夢みたいなのに、それが足し算でない複雑な計算よ! きっと、色々な仕事ができるようになるのだわ!」
「ちょっと待って、ミリア。それって……」
 マギエラが、眉をひそめた。「お金を支払って勉強を教えてくれる、って……その人、あなたに何も要求しないの?」
「もしそうだとすると、なかなか大した人物だね、それは」
 なにせ、金銭の援助をすると共にミリアが自立できるよう、教育までしているというのが実態になる。慈善活動というやつだ。感心した千早は思わず声に出して男を褒めたのだが、マギエラは、どうやら信じ難いらしくミリアに詰め寄っていた。
「そんなの、おかしいわ。本当に何も要求しないの? 触れるのも、キスも、それ以上も?」
「そうよ。だから、寂しくって。いつも、わたしから誘うの。……けど、彼は全然乗ってくれなくてね。でも、そこがいいと言うか……」
 頬を染めて、うっとりと目を細めるミリアの様子に、マギエラが目をパチクリさせる。それから困ったふうに眉を寄せて、ふと千早を見た彼女は、すぐに視線を逸らして突然、ハァとため息まじりに肩を落とした。
「ミリア……あなた、その常連客が好きなのね? そうなのね?」
「だって素敵な人よ。最初からそうだったもの。花売り娘をしながら『遊びましょう?』って誘ったのは、コマーシャル・ロードでのことなんだけど、ショールを下げて色仕掛けをするわたしに彼は、『字は読める?』って訊くの。よく分からないけど変な人に声かけちゃったなぁ、ってその時は思ったんだけど、部屋に着くなり『脱ぐな』って言われて勉強会が始まって……今はね、あれは運命だった、って確信してるわ」
「それで、歳はいくつなのよ?」
「ひ・み・つ。まあ、心配しないで。恋に障害は付き物だわ。それに、困難を前にした時、恋の炎は燃え上がるのよ。だって……あぁ、ロミオ、あなたはなぜロミオなの? って有名なのがあるでしょう?」
「それ……最後ふたりとも死ぬわよ」
「あら、そうなの? ジュリエットが悲恋だなんて、残念だわ」
 残念だなんて言うわりには、ミリアのそれは、とてもどうでも良さそうな口ぶりだった。きっと、「所詮は作り話」ということなのだろう。


※①愛した男に拒絶されたため、生首にしてからサロメが口づけをする恋のお話。ちょっとおかしい(英国ではしばらく戯曲の上演が禁止されていたらしい。
※②言わずと知れた名探偵。部屋で拳銃をぶっ放す変人で薬中、あとバリツの使い手。ところでバリツってなに?
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