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1その8
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マギエラの下宿先はソー・ホーに位置するブルーワー街の裏手にあって、彼女は、細い路地を行った先にある書店「フェアリーズ・シェルフ」の、二階に部屋を借りている。近くには、お洒落な繁華街であるリージェント街や、地下鉄の駅にもなっている円形広場ピカデリーサーカスがあって、ブルーワー街自体も、時間帯によっては自動車渋滞が発生する華やかな通りだ。街明かりに惹かれるあたりは女の子らしいと言えばらしいが、経済面を考えると、一般的な労働の収入では懐具合が心細くなりかねない立地だろう。実際、リージェント街より西には高級住宅街が立ち並ぶと聞く。
そうした事情から心配になって彼女を訪ねたのは、宿を出て別れた翌日のことだ。
ノックをして木製の戸を開けると、先日と同じ花緑青のドレスを着たマギエラに迎えられた。
「昨日の今日で訪ねて来るだなんて、話し相手が恋しくなったかしら?」
相好を崩した彼女は、締め切っていた窓をいくつか開けて、いそいそと部屋の換気を始めている。けれど、換気と言うには煤けた空気が入って来るばかりで、あまり意味のないことのように思えた。
「どうして。君が心配で来たんだよ」
「おかしなものね。わたし、水蒸気さえあれば食べ物なんて必要ないから、飢えに苦しむこともないのだけれど」
と言うのも、水蒸気は、街中に張り巡らされた金属配管でもって市井の人々に無償提供されているらしい。昨夜に訪れたパブでは、この水蒸気を使って調理をしていたし、ホワイトチャペル地区の路上でも、バルブを捻って家庭用だろう調理をする婦人を、何人も見た。薪を買うお金のない貧困層が生食をして食中毒になることを、防止するために、こうした加熱調理を国が推奨しているに違いない。
「僕はね、飢えよりも家賃が心配だよ」
「それはまあ、ゼンマイを巻く場所は、裸になる以上たしかに必要ですけれども……でも稼ぎが無いわけでもなければ、機巧術技師団の寄宿舎を出る際にお母様の物を色々と持って来たから、当面の下宿費用に心配なんていらないわよ?」
マギエラは「ほら」と言って、宝石やら宝飾品やらを放って寄こす。ゴロゴロと足元に転がるそれらを見て、千早は、己の懐具合と彼女のそれらとを比較し、少々暗澹たる気持ちにさせられた。
「あら、その様子だと、宝石は好きでなかったかしら? 一応、わたしの目もピンクオパールなのだけれど。だから、チハヤに嫌いだと言われるのは、ちょっと寂しいし悲しいわ」
「好きだけど……いや、そうじゃなくて」
ため息をつきたくなる。もう、帰ろうかな。
「そんな暗い顔をして……わたしが心配で来たと言うけど、チハヤこそ大丈夫? あなた、ちゃんと食べているの?」
「質素なものだけれどね。まあ、そこは軍人家系とあって慣れているからいいんだ。艱難汝を玉にす、だよ。人間は貧乏がいいよ、ってね」
「人間は苦労をしないと出来上がらないし、苦しいことを楽しみとする心掛けが大切である……だったかしら?」
「へぇ、エリーは碩学だね。驚いたよ」
マギエラのそれは、日露戦争でコサック騎兵を討ち破り名を馳せた名将、秋山好古少尉の言葉である。
「秋山支隊は素晴らしいし、彼自身も立派な軍人だわ。でもね、あなたは軍人家系とはいえ民間人でしょう? 貧乏が良いだなんて、彼に倣うにしても、慣れない土地でそれだと倒れてしまうわよ」
マギエラが呆れた顔をしたところに、ノックが響いて、書店の女主人が顔を覗かせた。
「マグヌスさん。昼食の用意が出来ましたけど、いつものように部屋にお持ちすればよいですね?」
「ええ。ありがとう、キーンさん。あ、それと彼にお紅茶を用意してくれるかしら? 大事な友人で、お客人なの」
「あのね、マグヌスさん。わたしはメイドじゃありませんのよ」
そう言いつつも小さく微笑んだ書店の主は、しばらくすると紅茶とチキンカレー、それとトーストを持って現れ、それらをテーブルに置くと、千早の顔を見て物珍しそうに目をパチクリさせた。
「おや、もしや本物の日本人ですか?」
「チハヤというのよ。実を言うと昨日、彼に危ないところを助けていただいて、それでお招きしたの」
「それはそれは、とても素敵な出会いだったのですね」
頬を染めて言うマギエラに、目を細めてうっとりしたキーン夫人は「ごゆっくり」と言い残して出て行ったが、きっと何やら勘違いをしていたに違いない。
「あんな言い方をして……」
「あら、わたしにとって危ないところだったことに変わりはないわ。何か間違っていて?」
クスリ、と可笑しそうに笑う。「まあ、実のところを言いますとね、チハヤの印象を良くしておきたかったのよ。書店のキーン夫人は、この通り下宿屋の主人でもあるわけで、おまけに面倒見がいいの。使用人でもないのに、わたしのためにこうして毎食を用意してくれるのだけど、この身体では食べることも出来なくて、毎回の処分にはほとほと困っているのよ」
「なるほど」
捨てるのは勿体なかろうし、作っていただいた食事を粗末にするのは、心も痛むだろう。
「そこで、ね。これからは、あなたに食べてもらおうと思うの。もちろん、お金を払えなんて言わないわ。チハヤは貧乏が良いだなんて言うけど、悪い話でもないでしょう? どうかしら?」
渡航費用こそ官費での留学を許された身だが、その先の倫敦滞在は基本的に実費だ。千早家にそれなりの財があるとはいえ、ここを切り詰められるに越したことはない。それに、マギエラと会う回数が増えれば、蒸気機巧術や自動人形について話を聞く機会も増えるだろう。留学の目的と照らしても不都合はない。
「まあ、たしかにありがたいね」
「決まりね。わたし、今からキーン夫人にルーム・シェアの話を付けてくるから、その間チハヤは、チキンカレーでも食べてなさい。トーストに付けてもきっと美味しいわ」
「ああ、うん。……うん?」
今、なんと言った? ルーム・シェア?「エリー、もしかして同棲って言ったかい?」
「言ったわ。ここ、一人暮らしには広すぎるもの。わたしには寝床だって必要ないし、構わないでしょう?」
いやいや、構わなくない。機巧の身体がどんな構造をしているのであれ、マギエラの姿形は普通の少女と違わないのである。
「倫理的に問題があるよ。エリーは、女の子だろう?」
「そう? わたし、チハヤとなら問題ないと思ったのだけれど。だって、あなた随分な堅物だもの」
「いや。堅物、って。あのねぇ……」
怒ってもいいだろうか。「僕の祖国には、『据え膳食わぬは男の恥』って言葉があってだね……きみは、自分が美人だという自覚を持った方が良いよ」
「まあ、もしそんなことになっても大丈夫よ。恋人みたいにべたべたと肌を寄せ合ったところで、この服は、正真正銘の花緑青で染めてますからね。今、こうして換気しているのだって、あなたを思ってのことなのよ?」
意味も理屈も、さっぱり分からない。「知らない? この花緑青は原材料にヒ素を含むの。もちろん、なかなかの猛毒よ」
「……エリーは、僕を殺す気かい?」
と言うか、なんでそんな染料が服に使われているのだ。思わず椅子を引いてマギエラから距離を取れば、彼女はなにやら不服そうに脹れた。
「だから、こうして換気しているでしょう?」
何故だろう、ため息までついている。「仕方がないわね。チハヤと一緒に住むなら他の服を着るようにするわ。あなたがわたしに劣情を催した時は、この花緑青のドレスを着させてもらいますけどね。その場合でも、舐めたりキスしたり、そういうおかしなことをしない限り死ぬことなんてないから、安心しなさい」
「安心しなさい、って……それに劣情、ってきみね……」
うーん、なんだかなぁ。というか、あれ?「ちょっと待って。昨日、エリーは僕を誘惑したわけだけど……仮に、だよ。キスをしてたら、その時に僕は死んでたわけだよね?」
「大丈夫よ。させる気なんて毛頭なかったから」
それはまあ、そうでなければ困るが。「それに、ね。あなたが強引なことをしない人だ、って分かっていたからこそ、わたしはあの場でチハヤに声を掛けたのよ」
「そんな調子の良いことを言って……」
初対面で相手の何が分かると。「それとも、あれかな。見た目に優しそうだった、ってことかい?」
見た目もそうだけど、とマギエラは小さく笑った。
「ちゃんと確信に近いものがあったのよ。誤解の無いよう、順を追って説明してあげるわね」
「誤解ねぇ……」
まあ、聞くだけ聞いてやろう。
「ゼンマイが切れそうになっていたあの日わたしは、自分で脱げない服を、誰かに脱がせてもらうために、ロンドンに来たばかりの少年か青年を、それも優しい田舎者を捉まえようと決めて、朝から歩いて回っていたわ。とはいえ、売春なんてのは本来は夜の商売だから、日中ともなると、日陰者の多いイースト・エンドで探すことになるの。当然、余裕のない人たちばかりで、見た目だけ優しそうな人はともかく、優しい人はなかなかいないわ。わたしは、ドレスを脱いで逃げる算段を立てていたのだけれど、こんな街では、脱がしてもらう前に乱暴される危険も当然あって、相手選びには慎重になっていたわ。
え? 女性に脱がせてもらおうとは思わなかったか、って? そんなのは論外だわ。あなたは『現代のバビロンにおける少女の生贄』を一度も読んでいないから、そんな暢気なことが言えるのよ。いい? かのウィリアム・ステッドの果敢なるジャーナリズムが暴いたところによれば、娘の純潔を十ポンド少々で売りに出す母親が、当たり前にいるのがロンドンなの。彼の記事があって多少はマシになったとは言っても、ハズレを引いた時のリスクは、今でも大き過ぎるわ。手足を縛られてそのままベルギーかどこかに売り飛ばされでもしたら目も当てられないじゃない。性欲に忠実な男の方がずっと安全よ。
この下宿のキーン夫人ならどうだ、って? バカね。自動人形に部屋を貸す下宿屋があると思う? 胸の穴を見られたら、わたしが、この部屋に居られなくなるじゃないの」
「ば、馬鹿、って……」
そこまで言わなくても。
「ところで、チハヤ。ロンドンにはかつて二七〇〇弱という不名誉な数字が存在したわ」
「ええと、不名誉な? これはまた唐突だね」
「唐突? いいえ、そうでもないわ。これは一八四八年のロンドンで性病の治療を受けた、十代前半の少女の数なのよ。感染源のほとんどは売春だわ。もちろんこの数字は一番酷い時期の物だけれど、昨年の議会委員会の報告でも『児童買春には打つ手がない』そうだから、今も大差ないのでしょうね。それでいて正確な数字を開示したがらないのは、同盟国に対して恥部を隠しておきたい国家の思惑があるのかしらね。つまり何を言いたいのかと言うと、少女娼婦なんてのは、それくらいロンドンでは珍しくないということなのよ。
こんな状況だから、少女というだけでは、ロンドン市民は娼婦に優しくなんてしないわ。金で買ったから、ってだけで物扱いも珍しくないし、服を脱がされる前にどんな汚らわしいことをされるか分かったもんじゃない。そもそもの話、わたしのような少女を買う人となると、基本的にはロクでなしに違いなくて……だから、まあ、相手選びがすぐに行き詰ったのは、思えば道理だったわ。
そうして堤防でぼんやりしていると、随分と荒っぽい操縦の飛行機械がテムズ川に降りるのを見たの。あれはずぶ濡れに違いないと思ったわね」
言って、クスクスと可笑しそうにする。「それからしばらく後に、街を歩いていたら、パブの前で男と東洋人の少年がずぶ濡れでいるのを見てしまって。晴れた日の昼間から濡れ鼠というのも珍しいから、さっきの飛行機械に乗っていたのだわと思ったわ。仕事を終えた飛行士は目の所にクッキリとゴーグル痕が付いているから、男の方が飛行士で間違いない。すると東洋人の少年が客よね。遠くから来たのかもしれない――、そう期待してよく観察してみると、東洋人は、街中に張り巡らされた蒸気送配管を物珍しそうに見ていて、いよいよこれはロンドンに慣れていないと確信したわ。
ロンドンの汚物溜めにどっぷり浸かってそのまま身も心も委ねたような大人は最低だけれど、その点、初心で慣れてない東洋人の少年なら、彼等よりもずっと精神はマトモだわ。それに、極東の島国からこのロンドンまで来るには充分な教養が必要でしょうし、いわゆるエリートよね。すると本国では女の子に困ることもないでしょうから、わたしを相手に酷く乱暴なことをする恐れも少ない。とはいえ全く手を出してくれないのも流石に困る。見たところ年齢は十代半ばといったところだから、わたしとそういうことをするのにも抵抗は少ないはずで、頑張って誘えばきっと買ってくれるに違いない。
わたしは、こんな感じに考えて、そうして声を掛けたわ。実際、あなたはとても優しかったわよね。チハヤ、納得してくれた?」
マギエラの思考は、千早に言わせれば慎重と評すより臆病とでも言うべきものだ。けれどまあ、このような大都市で少女が一人で生きるには、臆病であるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「君が、限られた選択肢の中から最良の選択をしたということは、よく分かったよ」
ニコリと笑いかけたマギエラは、千早が頷きを返すと得意そうに胸を張っていた。
しかし、なるほど……。
「あの時のエリーが妙に必死な様子だったのは、そんな事情があったんだね」
「そうよ。なのに、せっかく巡り会えた優男のチハヤは、全然なびいてくれないんだから、困ってしまったわ。でもね、だからこそ今のわたしにとって、あなたはとても信頼の置ける堅物なのよ。
いいえ。もっと言うとね、わたし、あなたが気に入ったの。それと……ほら、せっかくのチキンカレーよ、冷めないうちに食べてしまって。わたしは、キーン夫人に話を付けてくるわ」
席を立ってマギエラは、上機嫌に続けた。「恋人と棲みたい、ってね」
悪戯っぽく笑った今のマギエラは、臆病でもなければ慎重さもすっかり消えている。大胆そのものを振り撒いたその背中は、あっと言う間に階下へと消えて、止める間なんて物は、まるでありはしなかったのである。
※①流行ったから。もちろん死人が出た。ナポレオンの死因とする説もある。お洒落は命懸けである。
※②1885年、この記事でステッドは実際に少女を買ってみせている。当然だが捕まっている。
そうした事情から心配になって彼女を訪ねたのは、宿を出て別れた翌日のことだ。
ノックをして木製の戸を開けると、先日と同じ花緑青のドレスを着たマギエラに迎えられた。
「昨日の今日で訪ねて来るだなんて、話し相手が恋しくなったかしら?」
相好を崩した彼女は、締め切っていた窓をいくつか開けて、いそいそと部屋の換気を始めている。けれど、換気と言うには煤けた空気が入って来るばかりで、あまり意味のないことのように思えた。
「どうして。君が心配で来たんだよ」
「おかしなものね。わたし、水蒸気さえあれば食べ物なんて必要ないから、飢えに苦しむこともないのだけれど」
と言うのも、水蒸気は、街中に張り巡らされた金属配管でもって市井の人々に無償提供されているらしい。昨夜に訪れたパブでは、この水蒸気を使って調理をしていたし、ホワイトチャペル地区の路上でも、バルブを捻って家庭用だろう調理をする婦人を、何人も見た。薪を買うお金のない貧困層が生食をして食中毒になることを、防止するために、こうした加熱調理を国が推奨しているに違いない。
「僕はね、飢えよりも家賃が心配だよ」
「それはまあ、ゼンマイを巻く場所は、裸になる以上たしかに必要ですけれども……でも稼ぎが無いわけでもなければ、機巧術技師団の寄宿舎を出る際にお母様の物を色々と持って来たから、当面の下宿費用に心配なんていらないわよ?」
マギエラは「ほら」と言って、宝石やら宝飾品やらを放って寄こす。ゴロゴロと足元に転がるそれらを見て、千早は、己の懐具合と彼女のそれらとを比較し、少々暗澹たる気持ちにさせられた。
「あら、その様子だと、宝石は好きでなかったかしら? 一応、わたしの目もピンクオパールなのだけれど。だから、チハヤに嫌いだと言われるのは、ちょっと寂しいし悲しいわ」
「好きだけど……いや、そうじゃなくて」
ため息をつきたくなる。もう、帰ろうかな。
「そんな暗い顔をして……わたしが心配で来たと言うけど、チハヤこそ大丈夫? あなた、ちゃんと食べているの?」
「質素なものだけれどね。まあ、そこは軍人家系とあって慣れているからいいんだ。艱難汝を玉にす、だよ。人間は貧乏がいいよ、ってね」
「人間は苦労をしないと出来上がらないし、苦しいことを楽しみとする心掛けが大切である……だったかしら?」
「へぇ、エリーは碩学だね。驚いたよ」
マギエラのそれは、日露戦争でコサック騎兵を討ち破り名を馳せた名将、秋山好古少尉の言葉である。
「秋山支隊は素晴らしいし、彼自身も立派な軍人だわ。でもね、あなたは軍人家系とはいえ民間人でしょう? 貧乏が良いだなんて、彼に倣うにしても、慣れない土地でそれだと倒れてしまうわよ」
マギエラが呆れた顔をしたところに、ノックが響いて、書店の女主人が顔を覗かせた。
「マグヌスさん。昼食の用意が出来ましたけど、いつものように部屋にお持ちすればよいですね?」
「ええ。ありがとう、キーンさん。あ、それと彼にお紅茶を用意してくれるかしら? 大事な友人で、お客人なの」
「あのね、マグヌスさん。わたしはメイドじゃありませんのよ」
そう言いつつも小さく微笑んだ書店の主は、しばらくすると紅茶とチキンカレー、それとトーストを持って現れ、それらをテーブルに置くと、千早の顔を見て物珍しそうに目をパチクリさせた。
「おや、もしや本物の日本人ですか?」
「チハヤというのよ。実を言うと昨日、彼に危ないところを助けていただいて、それでお招きしたの」
「それはそれは、とても素敵な出会いだったのですね」
頬を染めて言うマギエラに、目を細めてうっとりしたキーン夫人は「ごゆっくり」と言い残して出て行ったが、きっと何やら勘違いをしていたに違いない。
「あんな言い方をして……」
「あら、わたしにとって危ないところだったことに変わりはないわ。何か間違っていて?」
クスリ、と可笑しそうに笑う。「まあ、実のところを言いますとね、チハヤの印象を良くしておきたかったのよ。書店のキーン夫人は、この通り下宿屋の主人でもあるわけで、おまけに面倒見がいいの。使用人でもないのに、わたしのためにこうして毎食を用意してくれるのだけど、この身体では食べることも出来なくて、毎回の処分にはほとほと困っているのよ」
「なるほど」
捨てるのは勿体なかろうし、作っていただいた食事を粗末にするのは、心も痛むだろう。
「そこで、ね。これからは、あなたに食べてもらおうと思うの。もちろん、お金を払えなんて言わないわ。チハヤは貧乏が良いだなんて言うけど、悪い話でもないでしょう? どうかしら?」
渡航費用こそ官費での留学を許された身だが、その先の倫敦滞在は基本的に実費だ。千早家にそれなりの財があるとはいえ、ここを切り詰められるに越したことはない。それに、マギエラと会う回数が増えれば、蒸気機巧術や自動人形について話を聞く機会も増えるだろう。留学の目的と照らしても不都合はない。
「まあ、たしかにありがたいね」
「決まりね。わたし、今からキーン夫人にルーム・シェアの話を付けてくるから、その間チハヤは、チキンカレーでも食べてなさい。トーストに付けてもきっと美味しいわ」
「ああ、うん。……うん?」
今、なんと言った? ルーム・シェア?「エリー、もしかして同棲って言ったかい?」
「言ったわ。ここ、一人暮らしには広すぎるもの。わたしには寝床だって必要ないし、構わないでしょう?」
いやいや、構わなくない。機巧の身体がどんな構造をしているのであれ、マギエラの姿形は普通の少女と違わないのである。
「倫理的に問題があるよ。エリーは、女の子だろう?」
「そう? わたし、チハヤとなら問題ないと思ったのだけれど。だって、あなた随分な堅物だもの」
「いや。堅物、って。あのねぇ……」
怒ってもいいだろうか。「僕の祖国には、『据え膳食わぬは男の恥』って言葉があってだね……きみは、自分が美人だという自覚を持った方が良いよ」
「まあ、もしそんなことになっても大丈夫よ。恋人みたいにべたべたと肌を寄せ合ったところで、この服は、正真正銘の花緑青で染めてますからね。今、こうして換気しているのだって、あなたを思ってのことなのよ?」
意味も理屈も、さっぱり分からない。「知らない? この花緑青は原材料にヒ素を含むの。もちろん、なかなかの猛毒よ」
「……エリーは、僕を殺す気かい?」
と言うか、なんでそんな染料が服に使われているのだ。思わず椅子を引いてマギエラから距離を取れば、彼女はなにやら不服そうに脹れた。
「だから、こうして換気しているでしょう?」
何故だろう、ため息までついている。「仕方がないわね。チハヤと一緒に住むなら他の服を着るようにするわ。あなたがわたしに劣情を催した時は、この花緑青のドレスを着させてもらいますけどね。その場合でも、舐めたりキスしたり、そういうおかしなことをしない限り死ぬことなんてないから、安心しなさい」
「安心しなさい、って……それに劣情、ってきみね……」
うーん、なんだかなぁ。というか、あれ?「ちょっと待って。昨日、エリーは僕を誘惑したわけだけど……仮に、だよ。キスをしてたら、その時に僕は死んでたわけだよね?」
「大丈夫よ。させる気なんて毛頭なかったから」
それはまあ、そうでなければ困るが。「それに、ね。あなたが強引なことをしない人だ、って分かっていたからこそ、わたしはあの場でチハヤに声を掛けたのよ」
「そんな調子の良いことを言って……」
初対面で相手の何が分かると。「それとも、あれかな。見た目に優しそうだった、ってことかい?」
見た目もそうだけど、とマギエラは小さく笑った。
「ちゃんと確信に近いものがあったのよ。誤解の無いよう、順を追って説明してあげるわね」
「誤解ねぇ……」
まあ、聞くだけ聞いてやろう。
「ゼンマイが切れそうになっていたあの日わたしは、自分で脱げない服を、誰かに脱がせてもらうために、ロンドンに来たばかりの少年か青年を、それも優しい田舎者を捉まえようと決めて、朝から歩いて回っていたわ。とはいえ、売春なんてのは本来は夜の商売だから、日中ともなると、日陰者の多いイースト・エンドで探すことになるの。当然、余裕のない人たちばかりで、見た目だけ優しそうな人はともかく、優しい人はなかなかいないわ。わたしは、ドレスを脱いで逃げる算段を立てていたのだけれど、こんな街では、脱がしてもらう前に乱暴される危険も当然あって、相手選びには慎重になっていたわ。
え? 女性に脱がせてもらおうとは思わなかったか、って? そんなのは論外だわ。あなたは『現代のバビロンにおける少女の生贄』を一度も読んでいないから、そんな暢気なことが言えるのよ。いい? かのウィリアム・ステッドの果敢なるジャーナリズムが暴いたところによれば、娘の純潔を十ポンド少々で売りに出す母親が、当たり前にいるのがロンドンなの。彼の記事があって多少はマシになったとは言っても、ハズレを引いた時のリスクは、今でも大き過ぎるわ。手足を縛られてそのままベルギーかどこかに売り飛ばされでもしたら目も当てられないじゃない。性欲に忠実な男の方がずっと安全よ。
この下宿のキーン夫人ならどうだ、って? バカね。自動人形に部屋を貸す下宿屋があると思う? 胸の穴を見られたら、わたしが、この部屋に居られなくなるじゃないの」
「ば、馬鹿、って……」
そこまで言わなくても。
「ところで、チハヤ。ロンドンにはかつて二七〇〇弱という不名誉な数字が存在したわ」
「ええと、不名誉な? これはまた唐突だね」
「唐突? いいえ、そうでもないわ。これは一八四八年のロンドンで性病の治療を受けた、十代前半の少女の数なのよ。感染源のほとんどは売春だわ。もちろんこの数字は一番酷い時期の物だけれど、昨年の議会委員会の報告でも『児童買春には打つ手がない』そうだから、今も大差ないのでしょうね。それでいて正確な数字を開示したがらないのは、同盟国に対して恥部を隠しておきたい国家の思惑があるのかしらね。つまり何を言いたいのかと言うと、少女娼婦なんてのは、それくらいロンドンでは珍しくないということなのよ。
こんな状況だから、少女というだけでは、ロンドン市民は娼婦に優しくなんてしないわ。金で買ったから、ってだけで物扱いも珍しくないし、服を脱がされる前にどんな汚らわしいことをされるか分かったもんじゃない。そもそもの話、わたしのような少女を買う人となると、基本的にはロクでなしに違いなくて……だから、まあ、相手選びがすぐに行き詰ったのは、思えば道理だったわ。
そうして堤防でぼんやりしていると、随分と荒っぽい操縦の飛行機械がテムズ川に降りるのを見たの。あれはずぶ濡れに違いないと思ったわね」
言って、クスクスと可笑しそうにする。「それからしばらく後に、街を歩いていたら、パブの前で男と東洋人の少年がずぶ濡れでいるのを見てしまって。晴れた日の昼間から濡れ鼠というのも珍しいから、さっきの飛行機械に乗っていたのだわと思ったわ。仕事を終えた飛行士は目の所にクッキリとゴーグル痕が付いているから、男の方が飛行士で間違いない。すると東洋人の少年が客よね。遠くから来たのかもしれない――、そう期待してよく観察してみると、東洋人は、街中に張り巡らされた蒸気送配管を物珍しそうに見ていて、いよいよこれはロンドンに慣れていないと確信したわ。
ロンドンの汚物溜めにどっぷり浸かってそのまま身も心も委ねたような大人は最低だけれど、その点、初心で慣れてない東洋人の少年なら、彼等よりもずっと精神はマトモだわ。それに、極東の島国からこのロンドンまで来るには充分な教養が必要でしょうし、いわゆるエリートよね。すると本国では女の子に困ることもないでしょうから、わたしを相手に酷く乱暴なことをする恐れも少ない。とはいえ全く手を出してくれないのも流石に困る。見たところ年齢は十代半ばといったところだから、わたしとそういうことをするのにも抵抗は少ないはずで、頑張って誘えばきっと買ってくれるに違いない。
わたしは、こんな感じに考えて、そうして声を掛けたわ。実際、あなたはとても優しかったわよね。チハヤ、納得してくれた?」
マギエラの思考は、千早に言わせれば慎重と評すより臆病とでも言うべきものだ。けれどまあ、このような大都市で少女が一人で生きるには、臆病であるくらいがちょうどいいのかもしれない。
「君が、限られた選択肢の中から最良の選択をしたということは、よく分かったよ」
ニコリと笑いかけたマギエラは、千早が頷きを返すと得意そうに胸を張っていた。
しかし、なるほど……。
「あの時のエリーが妙に必死な様子だったのは、そんな事情があったんだね」
「そうよ。なのに、せっかく巡り会えた優男のチハヤは、全然なびいてくれないんだから、困ってしまったわ。でもね、だからこそ今のわたしにとって、あなたはとても信頼の置ける堅物なのよ。
いいえ。もっと言うとね、わたし、あなたが気に入ったの。それと……ほら、せっかくのチキンカレーよ、冷めないうちに食べてしまって。わたしは、キーン夫人に話を付けてくるわ」
席を立ってマギエラは、上機嫌に続けた。「恋人と棲みたい、ってね」
悪戯っぽく笑った今のマギエラは、臆病でもなければ慎重さもすっかり消えている。大胆そのものを振り撒いたその背中は、あっと言う間に階下へと消えて、止める間なんて物は、まるでありはしなかったのである。
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