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episode4.初コミケ
4話-⑥
「そういえば、茜って幸子先生と知り合いだったんだな」
茜の顔が一瞬、引き攣った。茜にとって、幸子先生の話題は触れてほしくない話題なのだと察した。
「うん。実はね。ずっと黙っててごめんね」
触れない方がよかったのかもしれない。
人には触れてほしくない話題だってある。
茜にとって幸子先生はその類だったのであろう。
無神経なことをしてしまったな。今すぐ話題を変えよう。
「いや、黙ってたことは大丈夫。気にしてないからさ」
人には色々事情があり、話せることと話せないことがある。
俺は幸子先生と知り合いだということを黙っていたことよりも、二人の間にある溝の方が気になってしまった。
「本当?ならよかった…」
先程まで強ばっていた茜の顔が、一気に安心した表情へと変わった。
俺も心の中で安心することができた。こっちも傷つけたり怒らせたのではないかと、内心ヒヤヒヤしていたからである。
「そんなことで怒んないよ。寧ろサプライズを仕掛けてくれたことが嬉しかった」
「サプライズはね、先輩のアイディアなの。
私は事前に話しておきたかったんだけどね…」
人を貶めようとしたり、悪く言わない茜が、珍しく人のせいにしようとしていた。
二人の間に何かあるわけじゃなく、茜個人の問題なのだということが分かった。
「そうだったんだ…。俺的にはどちらであっても、憧れの人を紹介してもらえたわけだから、嬉しいよ。本当にありがとう」
すると、茜は申し訳なさそうな表情をした。
もしかして俺、気づかないうちに茜を傷つけてしまったのか?!と内心一人焦っていると、茜が先に口を開いた。
「お礼を言ってもらえる程のことじゃないよ。
だって私、心の中のどこかで先輩と知り合いだってバレたくないって思う自分がいたから」
あれ?紹介しようと思っていたわけではなかったということなのか?
だとしたら、俺が幸子先生にお会いすることができたのは、茜の意思ではなく、幸子先生の意思だったということになる…。
「それはどうして?普通なら自慢したくなるものじゃない?」
茜の表情は更に曇り、戸惑っているように見えた。
誰しも有名人と知り合いだからといって、嬉しいわけではないのだと、この時知った。
「ねぇ、美咲くん。私の過去の話をしてもいい?」
今から話すことに、幸子先生が絡んでいるのだと察した。
「うん。俺でよければ」
「ありがとう。美咲くんだから話せる話かな。
今まで誰にも話してこなかった話…です」
茜はゆっくりと過去について話し始めた…。
*
私はずっと先輩が羨ましかった。
見て見ぬふりを続けたかった。自分に才能がないことなんて…。
初めて誰かに胸の内を話すため、少し緊張している。
美咲くんだから話せるなんて大見得切ってしまったが、本当は嫌われないかどうか不安な自分もいる。
そんなことで美咲くんは嫌わないなんて分かってはいても、先輩のことを好きな美咲くんに、先輩のことを悪く言う自分を見られたくない気持ちが強かった。
「ねぇ、美咲くん。身近に凄い才能を持った人っていた?」
いきなりこんな質問をされても、美咲くんを困らせてしまうだけなのは分かっている。
それでも、確認しておきたかった。もし、いたとしたら今から話しやすくなるからである。
「うーん…どうだろう?いたかな?多分、いたとは思う。でも、俺に才能がないから、その人のことを覚えていないだけだと思う」
大抵の人はそうだ。一々、人のことなんて覚えてはいない。
しかし、自分が欲しいと思う才能を持っている人がいたら、話は別だ。
「私はね、いたよ。それが先輩なの」
美咲くんは一瞬、驚いた表情を浮かべた。
そして、すぐに私と向き合ってくれた。
「それって…具体的にどういうことなの?」
私が昔、絵を描いていたことを美咲くんは知らない。
今からそのことについて、説明することにした。
「私、大学時代に漫研に所属していたの。
それで漫研に所属していた頃はよく漫画を描いててね、今日みたいな同人イベントに同人誌を出したりしてたの」
「すごいじゃん。俺はそんな茜のことをカッコいいって思うし、尊敬する」
美咲くんは素直にそう心から言ってくれたのかもしれないが、今の私にはあまり嬉しくない言葉だった。
「ありがとう。そう言ってくれて。でも、私はとある人がきっかけで、絵を描くこと自体から遠ざかるようになったの…」
きっと美咲くんはこれ以上の言葉を言わずとも、この先の展開を察したと思う。
そう。私は先輩がきっかけで絵が描けなくなってしまったのだった。
「当時の私は、ただ絵が描けるだけで楽しかったし、幸せだった。
だから、先輩と一緒に絵を描く時間がとても楽しくて。毎日一緒に絵を描いては、お互いの絵を見せ合ってた…」
あの頃の私はネットにも絵を載せたりもしていた。
とにかく絵を描くことが楽しかった。隣に先輩がいたから楽しかったんだと思う。
「最初は楽しければそれでよかったはずなのに、ある日突然、先輩と大きな差をつけられて。
めちゃくちゃ悔しくて。どうして?私には…って思うと苦しかった…」
あの頃から先輩は絵が上手く、もうプロのレベルに達している人だった。
寧ろこの絵のレベルでデビューできないのがおかしいってくらいに…。
だから、私が先輩に足元も及ばないことは百も承知のはずだったのに、ずっと隣に居たから、感覚が麻痺し始めたのかもしれない。
勘違いしてたと思う。自分もそこそこいけるんじゃないか…って。
「先輩が商業漫画家としてデビューすることになって、嬉しいことなのに素直に喜べない自分がいて…。
いつしか先輩と自分との間にある大きな差に打ちのめされて。
段々、絵を描くことが楽しくなくなっていって、就職を機にそのまま絵を描くことを辞めたんだ」
羨ましかった。自分のなりたいものになれる先輩が…。
私は絵で食べていけないことを分かっていたので、今の会社に就職した。
本当は今だって絵が描きたい。もっと上手くなりたい。
でも、絵を描こうとすると先輩の顔が浮かんでしまい、自分の絵の下手さに落ち込んでしまう。
だからもう絵は描けない。描くことができない。
「でね、今日、先輩の生き生きしている姿を見ていたら、なんだか昔の自分のことを思い出しちゃって…。懐かしくなったっていうお話です」
最後はなんだかこのまま暗い話で終わらせたくないという気持ちになり、適当にまとめた。
こんなまとまりのない話を聞かされても、美咲くんは困ると思う。
それでもなんだか美咲くんには、話を聞いてほしいと思った。
「なるほどね…。茜の気持ちはなんとなくだけど、分かるかな」
え?美咲くんも?!遠慮して話を合わせてくれているだけかもしれない。
それでも、大切な友達から言われると、不思議と卑屈な感情は心の中から消えた。
「俺も過去に色々あるじゃん?だから、どこか臆病なところがあって。一歩前へ踏み出す勇気が持てない時ってあるんだ。いつももう少し自信がほしいなって思う」
皆が皆、自信を持って生きているわけではない。
美咲くんも美咲くんの過去があって、綾香だってそう…。
私ももっと自信がほしい。過去を乗り越えるために…。
「でも、自信って一番難しくて。これってある意味、一瞬の才能だと俺は思う。
だってある意味、自分に自信がないと、自分が綺麗だとかカッコいいだとか思えないじゃん?」
確かに…。美咲くんの言う通りかもしれない。
自信を持つのも一種の才能だ。それが一番難しいことなのかもしれないが…。
「そうかも。ある程度、自分に自信がないと難しいかも」
「だろ?俺らってさ、ヲタクだから。自分の好きなものへの想いなら、誰にも負けねー自信あるじゃん?」
「うん。それなら…ある」
「だからさ、茜は茜でいいんだよ。茜がどうしたいかなんだよ」
私がどうしたいか…。考えたことすらなかった。
絵を描く苦しみの方が大きくて。具体的な目標なんてなく、ただひたすら先輩と比べてばかりいた。
「考えたことなかったかも…。私、絵で何がしたいんだろう?」
「それは今からゆっくり考えていけばいいんだよ。まぁ、例えばイベントのレポをイラストで描く人とかいるから、そういうのでもいいし」
確かに…。それはアリかも。今の私にはそういったことからリハビリを始めるとやりやすいかもしれない。
「とにかく、俺の言いたいことはだな、茜の言う通り、確かに幸子先生は絵が上手い。だってそれはプロだから。
だけど、幸子先生と比べる必要はないと思う。大事なのは茜が描きたいと思ったイラストが描けるかどうかだと俺は思う。
…って、絵が描けない俺が偉そうなこと言ってごめん」
そんなことはない。美咲くんの気持ちがちゃんと伝わってきた。
忘れていた。好きなことへの情熱を。大事なのは好きだっていう気持ちだということを…。
「ううん。そんなことないよ。美咲くんの言う通りだと思う。
私、どこかで自分に期待しすぎてたんだと思う。夢を見てたから、現実を知って辛くなったというか…。
先輩が羨ましくて、自分もあんなふうになりたかったんだよね。
だから余計に悔しくて。比べても仕方のないことで、比べるようになったんだと思う」
私は漫画家になりたかったわけじゃない。
大好きな先輩に置いていかれるのが辛かったんだと思う。
もう先輩と一緒に絵を描けなくなるような気がしたから。
「夢は自由だから、夢を見ることは悪いことじゃないと俺は思う」
夢を見るのは自由だ。夢を見た自分が悪いわけじゃないことは分かってる。
それでも、あの頃の自分の考え方は甘かったと思う。
「分かる?だって先輩の絵の上手さって、常人からしたら天才だもん」
「分かるよ。だって俺、先生のファンだからさ」
すっかり忘れていた。美咲くんが先輩のファンだということを。
「そういえばそうだったね…。なんか美咲くんと話してたら、自分の悩みがちっぽけに思えてきたよ」
今まで誰かに話したことがなかった。
この話をすることで、先輩の悪口を言っていることになるような気がして、なかなか言えずにいた。
でも、不思議だ。美咲くん相手なら自然と話せた。
きっと美咲くんなら、痛みを分かち合えるような気がしたからかもしれない。
「それならよかったよ。俺も茜の話が聞けて嬉しかった」
彼は笑顔でそう言ってくれた。
なんだか彼の笑顔に救われた。この笑顔を見ていると落ち着く。
「それにあれだけ絵が上手い人が隣に居たら、比べたくなくても比べちゃうよ。俺でも同じ立場だったらそうなってたと思う」
誰しも自分の中にコンプレックスを抱えて生きてる。
もし、自分のコンプレックスを凌駕する人が目の前に現れたら、その人と比べてしまうのは、人間の本能なのかもしれない。
「本当?それならよかった…」
「うん。だって茜が絵を描いていることを知れたから」
え?そこ?!そんなに嬉しいことなの?!
「忘れてください…」
「えー。それはもう無理。だって俺、茜のイラストが見てみたいって思っちゃったんだもん」
墓穴を掘るとはこのことなのかもしれない。
もう取り返しがつかないことをしてしまったのだと気づき、手遅れなのであった。
「え?…でも、ブランクがあるし」
「なら見せられるようになったら見せて。それまで待ってるから」
そう言われると、どうも断りづらい。
でも、期待なんて持たせられない。いつ描けるようになるか分からないから。
「美咲くん、私、いつになるか分からないよ?だから、約束はできない…」
「いいよ。それでも俺はずっと待ってるから」
待たせるのは申し訳ないから、ちゃんと断ろう。
こうやって求められるのは嬉しいが、今の私にはまだ難しかった。
「ごめん…。それは難しいかも…」
描くことから逃げたくはないのに、まだ怖気付いてしまう自分がいた。
「茜、俺は今すぐに描いてほしいとは言ってないよ。
茜の心の準備ができるようになるまで待つからって意味だよ」
心の中を読まれているかのように感じた。
きっと私の重荷にならないようにしてくれたのだと思う。
多分、ここでもう一度断れば、美咲くんは優しいから諦めてくれるはず…。
しかし、ここで逃げるのは同じことの繰り返しのような気がして、なんだかそれは嫌だ。
もう逃げるのは止めよう。今すぐ変わろうとしなくたっていい。徐々に頑張っていけば…。
そう思うと、とても気持ちが軽くなった。
「時間かかるけど、それでもよければ…」
「え?本当にいいの?俺、図々しかったよね?」
「そんなことはないよ。とても嬉しかった。ありがとう」
あなたの言葉がなかったら、もう一度頑張ってみようなんて思わなかった。
美咲くんだから。私はもう大丈夫だと思えた。
「え?本当?!よかった…」
「本当だよ。私、自分のペースでもう一度、頑張ってみる」
きっとまた挫折する時も来ると思う。
その時は隣で美咲くんが支えてくれているような気がした。
だからもう大丈夫。これでようやく先輩という呪縛から解かれたような気がした。
「俺は傍で応援してるね」
「ありがとう。色々よろしくお願いします」
なんだかこのことをすぐに先輩に報告したくなった。
「茜、きたよ」
すると、良いタイミングで注文したメニューが運ばれてきた。
「お待たせ致しました、ハンバーグとステーキです」
美味しそう…。なんだか胸のつかえがなくなり安心したのか、お腹が空いてきた。
「食べよっか」
「だな」
先輩には後日報告することにした。
そして、これからはなるべく定期的に先輩に会うことにした。
今までの時間の埋め合わせするためにも…。
「ねぇ、追加でパフェ頼んでもいい?」
「いいよ。俺も頼もうかな…」
今日はとことん美咲くんと語りたい。
今日購入した同人誌のことや、最近ハマっているアニメ、それから先輩と過去に出した同人誌のこととか…。
こんな穏やかな時間が長く続けば、それだけで私はよかった。
「さて、パフェも頼みましたし、心置きなく語ろうぞ」
「だな。で、茜は何について語りたいんだ?」
そんなのもちろん決まっている。
「ねぇ、今期のアニメヤバくない?」
「ヤバい。既に推しカプができた」
だから知らなかった。この時、美咲くんが私のことをどう想っていたかなんて…。
それを知るのはまだ先のお話。今の私は呑気に美咲くんとヲタク話に花を咲かせるのであった。
茜の顔が一瞬、引き攣った。茜にとって、幸子先生の話題は触れてほしくない話題なのだと察した。
「うん。実はね。ずっと黙っててごめんね」
触れない方がよかったのかもしれない。
人には触れてほしくない話題だってある。
茜にとって幸子先生はその類だったのであろう。
無神経なことをしてしまったな。今すぐ話題を変えよう。
「いや、黙ってたことは大丈夫。気にしてないからさ」
人には色々事情があり、話せることと話せないことがある。
俺は幸子先生と知り合いだということを黙っていたことよりも、二人の間にある溝の方が気になってしまった。
「本当?ならよかった…」
先程まで強ばっていた茜の顔が、一気に安心した表情へと変わった。
俺も心の中で安心することができた。こっちも傷つけたり怒らせたのではないかと、内心ヒヤヒヤしていたからである。
「そんなことで怒んないよ。寧ろサプライズを仕掛けてくれたことが嬉しかった」
「サプライズはね、先輩のアイディアなの。
私は事前に話しておきたかったんだけどね…」
人を貶めようとしたり、悪く言わない茜が、珍しく人のせいにしようとしていた。
二人の間に何かあるわけじゃなく、茜個人の問題なのだということが分かった。
「そうだったんだ…。俺的にはどちらであっても、憧れの人を紹介してもらえたわけだから、嬉しいよ。本当にありがとう」
すると、茜は申し訳なさそうな表情をした。
もしかして俺、気づかないうちに茜を傷つけてしまったのか?!と内心一人焦っていると、茜が先に口を開いた。
「お礼を言ってもらえる程のことじゃないよ。
だって私、心の中のどこかで先輩と知り合いだってバレたくないって思う自分がいたから」
あれ?紹介しようと思っていたわけではなかったということなのか?
だとしたら、俺が幸子先生にお会いすることができたのは、茜の意思ではなく、幸子先生の意思だったということになる…。
「それはどうして?普通なら自慢したくなるものじゃない?」
茜の表情は更に曇り、戸惑っているように見えた。
誰しも有名人と知り合いだからといって、嬉しいわけではないのだと、この時知った。
「ねぇ、美咲くん。私の過去の話をしてもいい?」
今から話すことに、幸子先生が絡んでいるのだと察した。
「うん。俺でよければ」
「ありがとう。美咲くんだから話せる話かな。
今まで誰にも話してこなかった話…です」
茜はゆっくりと過去について話し始めた…。
*
私はずっと先輩が羨ましかった。
見て見ぬふりを続けたかった。自分に才能がないことなんて…。
初めて誰かに胸の内を話すため、少し緊張している。
美咲くんだから話せるなんて大見得切ってしまったが、本当は嫌われないかどうか不安な自分もいる。
そんなことで美咲くんは嫌わないなんて分かってはいても、先輩のことを好きな美咲くんに、先輩のことを悪く言う自分を見られたくない気持ちが強かった。
「ねぇ、美咲くん。身近に凄い才能を持った人っていた?」
いきなりこんな質問をされても、美咲くんを困らせてしまうだけなのは分かっている。
それでも、確認しておきたかった。もし、いたとしたら今から話しやすくなるからである。
「うーん…どうだろう?いたかな?多分、いたとは思う。でも、俺に才能がないから、その人のことを覚えていないだけだと思う」
大抵の人はそうだ。一々、人のことなんて覚えてはいない。
しかし、自分が欲しいと思う才能を持っている人がいたら、話は別だ。
「私はね、いたよ。それが先輩なの」
美咲くんは一瞬、驚いた表情を浮かべた。
そして、すぐに私と向き合ってくれた。
「それって…具体的にどういうことなの?」
私が昔、絵を描いていたことを美咲くんは知らない。
今からそのことについて、説明することにした。
「私、大学時代に漫研に所属していたの。
それで漫研に所属していた頃はよく漫画を描いててね、今日みたいな同人イベントに同人誌を出したりしてたの」
「すごいじゃん。俺はそんな茜のことをカッコいいって思うし、尊敬する」
美咲くんは素直にそう心から言ってくれたのかもしれないが、今の私にはあまり嬉しくない言葉だった。
「ありがとう。そう言ってくれて。でも、私はとある人がきっかけで、絵を描くこと自体から遠ざかるようになったの…」
きっと美咲くんはこれ以上の言葉を言わずとも、この先の展開を察したと思う。
そう。私は先輩がきっかけで絵が描けなくなってしまったのだった。
「当時の私は、ただ絵が描けるだけで楽しかったし、幸せだった。
だから、先輩と一緒に絵を描く時間がとても楽しくて。毎日一緒に絵を描いては、お互いの絵を見せ合ってた…」
あの頃の私はネットにも絵を載せたりもしていた。
とにかく絵を描くことが楽しかった。隣に先輩がいたから楽しかったんだと思う。
「最初は楽しければそれでよかったはずなのに、ある日突然、先輩と大きな差をつけられて。
めちゃくちゃ悔しくて。どうして?私には…って思うと苦しかった…」
あの頃から先輩は絵が上手く、もうプロのレベルに達している人だった。
寧ろこの絵のレベルでデビューできないのがおかしいってくらいに…。
だから、私が先輩に足元も及ばないことは百も承知のはずだったのに、ずっと隣に居たから、感覚が麻痺し始めたのかもしれない。
勘違いしてたと思う。自分もそこそこいけるんじゃないか…って。
「先輩が商業漫画家としてデビューすることになって、嬉しいことなのに素直に喜べない自分がいて…。
いつしか先輩と自分との間にある大きな差に打ちのめされて。
段々、絵を描くことが楽しくなくなっていって、就職を機にそのまま絵を描くことを辞めたんだ」
羨ましかった。自分のなりたいものになれる先輩が…。
私は絵で食べていけないことを分かっていたので、今の会社に就職した。
本当は今だって絵が描きたい。もっと上手くなりたい。
でも、絵を描こうとすると先輩の顔が浮かんでしまい、自分の絵の下手さに落ち込んでしまう。
だからもう絵は描けない。描くことができない。
「でね、今日、先輩の生き生きしている姿を見ていたら、なんだか昔の自分のことを思い出しちゃって…。懐かしくなったっていうお話です」
最後はなんだかこのまま暗い話で終わらせたくないという気持ちになり、適当にまとめた。
こんなまとまりのない話を聞かされても、美咲くんは困ると思う。
それでもなんだか美咲くんには、話を聞いてほしいと思った。
「なるほどね…。茜の気持ちはなんとなくだけど、分かるかな」
え?美咲くんも?!遠慮して話を合わせてくれているだけかもしれない。
それでも、大切な友達から言われると、不思議と卑屈な感情は心の中から消えた。
「俺も過去に色々あるじゃん?だから、どこか臆病なところがあって。一歩前へ踏み出す勇気が持てない時ってあるんだ。いつももう少し自信がほしいなって思う」
皆が皆、自信を持って生きているわけではない。
美咲くんも美咲くんの過去があって、綾香だってそう…。
私ももっと自信がほしい。過去を乗り越えるために…。
「でも、自信って一番難しくて。これってある意味、一瞬の才能だと俺は思う。
だってある意味、自分に自信がないと、自分が綺麗だとかカッコいいだとか思えないじゃん?」
確かに…。美咲くんの言う通りかもしれない。
自信を持つのも一種の才能だ。それが一番難しいことなのかもしれないが…。
「そうかも。ある程度、自分に自信がないと難しいかも」
「だろ?俺らってさ、ヲタクだから。自分の好きなものへの想いなら、誰にも負けねー自信あるじゃん?」
「うん。それなら…ある」
「だからさ、茜は茜でいいんだよ。茜がどうしたいかなんだよ」
私がどうしたいか…。考えたことすらなかった。
絵を描く苦しみの方が大きくて。具体的な目標なんてなく、ただひたすら先輩と比べてばかりいた。
「考えたことなかったかも…。私、絵で何がしたいんだろう?」
「それは今からゆっくり考えていけばいいんだよ。まぁ、例えばイベントのレポをイラストで描く人とかいるから、そういうのでもいいし」
確かに…。それはアリかも。今の私にはそういったことからリハビリを始めるとやりやすいかもしれない。
「とにかく、俺の言いたいことはだな、茜の言う通り、確かに幸子先生は絵が上手い。だってそれはプロだから。
だけど、幸子先生と比べる必要はないと思う。大事なのは茜が描きたいと思ったイラストが描けるかどうかだと俺は思う。
…って、絵が描けない俺が偉そうなこと言ってごめん」
そんなことはない。美咲くんの気持ちがちゃんと伝わってきた。
忘れていた。好きなことへの情熱を。大事なのは好きだっていう気持ちだということを…。
「ううん。そんなことないよ。美咲くんの言う通りだと思う。
私、どこかで自分に期待しすぎてたんだと思う。夢を見てたから、現実を知って辛くなったというか…。
先輩が羨ましくて、自分もあんなふうになりたかったんだよね。
だから余計に悔しくて。比べても仕方のないことで、比べるようになったんだと思う」
私は漫画家になりたかったわけじゃない。
大好きな先輩に置いていかれるのが辛かったんだと思う。
もう先輩と一緒に絵を描けなくなるような気がしたから。
「夢は自由だから、夢を見ることは悪いことじゃないと俺は思う」
夢を見るのは自由だ。夢を見た自分が悪いわけじゃないことは分かってる。
それでも、あの頃の自分の考え方は甘かったと思う。
「分かる?だって先輩の絵の上手さって、常人からしたら天才だもん」
「分かるよ。だって俺、先生のファンだからさ」
すっかり忘れていた。美咲くんが先輩のファンだということを。
「そういえばそうだったね…。なんか美咲くんと話してたら、自分の悩みがちっぽけに思えてきたよ」
今まで誰かに話したことがなかった。
この話をすることで、先輩の悪口を言っていることになるような気がして、なかなか言えずにいた。
でも、不思議だ。美咲くん相手なら自然と話せた。
きっと美咲くんなら、痛みを分かち合えるような気がしたからかもしれない。
「それならよかったよ。俺も茜の話が聞けて嬉しかった」
彼は笑顔でそう言ってくれた。
なんだか彼の笑顔に救われた。この笑顔を見ていると落ち着く。
「それにあれだけ絵が上手い人が隣に居たら、比べたくなくても比べちゃうよ。俺でも同じ立場だったらそうなってたと思う」
誰しも自分の中にコンプレックスを抱えて生きてる。
もし、自分のコンプレックスを凌駕する人が目の前に現れたら、その人と比べてしまうのは、人間の本能なのかもしれない。
「本当?それならよかった…」
「うん。だって茜が絵を描いていることを知れたから」
え?そこ?!そんなに嬉しいことなの?!
「忘れてください…」
「えー。それはもう無理。だって俺、茜のイラストが見てみたいって思っちゃったんだもん」
墓穴を掘るとはこのことなのかもしれない。
もう取り返しがつかないことをしてしまったのだと気づき、手遅れなのであった。
「え?…でも、ブランクがあるし」
「なら見せられるようになったら見せて。それまで待ってるから」
そう言われると、どうも断りづらい。
でも、期待なんて持たせられない。いつ描けるようになるか分からないから。
「美咲くん、私、いつになるか分からないよ?だから、約束はできない…」
「いいよ。それでも俺はずっと待ってるから」
待たせるのは申し訳ないから、ちゃんと断ろう。
こうやって求められるのは嬉しいが、今の私にはまだ難しかった。
「ごめん…。それは難しいかも…」
描くことから逃げたくはないのに、まだ怖気付いてしまう自分がいた。
「茜、俺は今すぐに描いてほしいとは言ってないよ。
茜の心の準備ができるようになるまで待つからって意味だよ」
心の中を読まれているかのように感じた。
きっと私の重荷にならないようにしてくれたのだと思う。
多分、ここでもう一度断れば、美咲くんは優しいから諦めてくれるはず…。
しかし、ここで逃げるのは同じことの繰り返しのような気がして、なんだかそれは嫌だ。
もう逃げるのは止めよう。今すぐ変わろうとしなくたっていい。徐々に頑張っていけば…。
そう思うと、とても気持ちが軽くなった。
「時間かかるけど、それでもよければ…」
「え?本当にいいの?俺、図々しかったよね?」
「そんなことはないよ。とても嬉しかった。ありがとう」
あなたの言葉がなかったら、もう一度頑張ってみようなんて思わなかった。
美咲くんだから。私はもう大丈夫だと思えた。
「え?本当?!よかった…」
「本当だよ。私、自分のペースでもう一度、頑張ってみる」
きっとまた挫折する時も来ると思う。
その時は隣で美咲くんが支えてくれているような気がした。
だからもう大丈夫。これでようやく先輩という呪縛から解かれたような気がした。
「俺は傍で応援してるね」
「ありがとう。色々よろしくお願いします」
なんだかこのことをすぐに先輩に報告したくなった。
「茜、きたよ」
すると、良いタイミングで注文したメニューが運ばれてきた。
「お待たせ致しました、ハンバーグとステーキです」
美味しそう…。なんだか胸のつかえがなくなり安心したのか、お腹が空いてきた。
「食べよっか」
「だな」
先輩には後日報告することにした。
そして、これからはなるべく定期的に先輩に会うことにした。
今までの時間の埋め合わせするためにも…。
「ねぇ、追加でパフェ頼んでもいい?」
「いいよ。俺も頼もうかな…」
今日はとことん美咲くんと語りたい。
今日購入した同人誌のことや、最近ハマっているアニメ、それから先輩と過去に出した同人誌のこととか…。
こんな穏やかな時間が長く続けば、それだけで私はよかった。
「さて、パフェも頼みましたし、心置きなく語ろうぞ」
「だな。で、茜は何について語りたいんだ?」
そんなのもちろん決まっている。
「ねぇ、今期のアニメヤバくない?」
「ヤバい。既に推しカプができた」
だから知らなかった。この時、美咲くんが私のことをどう想っていたかなんて…。
それを知るのはまだ先のお話。今の私は呑気に美咲くんとヲタク話に花を咲かせるのであった。
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