プシュケ【8/22完結】

草刈絢衣

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Twelve(3)

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 7日の夜、ドン・フィオーレに指示された通り、チェリオはユーリと共にミクシアに戻ってきていた。ウォルナットとは空気が違う。どこか淀んでいる。日が沈んでいることもあり、人通りはほとんどなく、不気味なほど静かだ。

 指定されたのは下流層街の迎賓館近く。そのあたりにオレガノ軍の駐屯地があり、例の男はまるでそこの様子を窺うように現れるのだと聞いている。チェリオとユーリは裏路地に身を潜めて様子を窺った。

 どのくらいか経った頃、駐屯地の様子を探るように歩く男の姿が目に入った。フードマントを被っているものの、確かに背格好だけはドン・クリステンに似ている。似ているが、彼はもっと背筋が伸びているし、こんなふうに怪しげな動きはしないはずだ。チェリオは不審そうに男の動きを眺めた。

 男はオレガノ軍の駐屯地を一度眺めるように立ち止まったが、表に人影が見えたためか素通りしていく。そのまま角を曲がり、姿が見えなくなる。ユーリが顔を覗かそうとしたのを、チェリオは首元を掴んで静止した。

「じっとして息を潜めとけ」

 ユーリの耳元でささめく。チェリオは目を閉じて周囲の音に集中した。足音が遠ざかる気配はない。あちらの角に潜伏しているのか衣擦れの音がする。武器の類の金属音等はない。下流階層街の土地勘はないが、確か自分たちが潜んでいる路地は後ろから回り込まれるようなことはないはずだ。チェリオはユーリにここにいろと指示をして、風が吹くタイミングを見計らってするすると木に登った。

 木の上からなら男の動きがよくわかる。やはりオレガノ軍の駐屯地を気にしているようだ。路地から顔を出して、通りに誰もいないことを確認してまた姿を現す。オレガノ軍の駐屯地の様子を探ろうとするが、窓には暗幕が引かれており中の様子を窺い知ることはできない。男は大胆にもオレガノ軍の駐屯地のドアをノックした。

 人が出てくる気配はない。暗幕が引かれていることもあり室内からは灯りが漏れておらず、人の気配もしないように思える。いったいなにを探りにきたのか、男はドアの入り口になにかをスッと挟み込んだ。何事もなかったように立ち上がり、歩き出す。

 男は振り返る様子もなく、下流階層街のピアトラ地区の方へと歩いて行った。木から飛び降りてユーリの元に戻る。ユーリは男が挟んだものを不審そうに眺めている。

「なにかの書類かな?」

 そんなに分厚くはないが、封筒のようだ。武器や爆発物の類ではない。そんなものをそこに挟み込んでどうしようというのか。

 もう少し様子を見ようと告げ、息を潜める。それから5分もしないうちにアレクシスとベアトリスが戻ってきた。ドアの隙間に挟まれた封筒を手に取り、ベアトリスが不審そうに眉を顰める。

「別働隊の中間報告にしては杜撰じゃないです?」

 誰が指示したのか知らないけど不用心すぎると躾けておかなければとベアトリスが言う。アレクシスはふとなにかに気づいたように足を止めた。二人が怪訝な顔をするのが見える。

「やあ、見回りかね?」

 普段とやや声色が違うように思えるが、風邪気味なのか軽く咳をする。この声はドン・クリステンだ。物陰から様子を伺うが、どうみてもドン・クリステンそのものだし、本物か偽物かなんて区別が付かない。ベアトリスは会釈をして、ドン・クリステンを上目遣いに見た。

「こんな時間にお一人でお出かけですか? ミクシアは随分と治安がよろしいのですね」

 補佐官はどうしました? と、ベアトリスが尋ねる。

「今日はプライベートなもので、彼は同行させていない」

 そうですかとベアトリスが笑みを深める。

「ところで、彼はどうしている?」

 彼とは? と、ベアトリスが問う。

「ミカエラと、ユーリ・オルヴェだよ。一緒ではないのか?」

 そう問われて、アレクシスが鼻で笑った。「報告してませんでしたっけねえ」と間延びした声で言う。

「准将は所用で本国っすわ。Sig.オルヴェに関しては知らねえな、拠点にいるのでは?」

「そうか、なら明日にでも訪ねてみよう。面白いことを小耳に挟んでね」

「おもしろいこと、ですか?」

 ベアトリスが尋ねると、ドン・クリステンが不敵に笑った。

「先代がフィッチと繋がっていたという証拠が浮上したそうだ。俺の別働隊がオレガノ軍に資料を渡しにきたはずだが、会わなかったかね?」

 アレクシスが封筒をひらひらと見せつけるように揺らす。ドン・クリステンは開いてみたまえと余裕ありげに笑った。アレクシスが無言でそれを開く。資料をめくり、鼻で笑う。

「癖が悪い人だ。レオナを拐かそうとしたのが先代だって?」

 ユーリがそのセリフに反応する。チェリオはすぐさまユーリの体を引っ張って路地の奥へと連れて行った。ブラフかもしれないと耳打ちする。ユーリも案外冷静なようで、それ以上踏み込もうとしない。

「あれは事故死との報告を受けている。ドン・クリステン、あのとき貴方はオレガノにいたはずでしょう。確かにきな臭い時期はあったけど、レオナがそれに巻き込まれる理由がない」

「フィッチとの密約さ。オレガノを脅し、取り入るためにね。そのために第二王子を拐かそうとしたが、失敗に終わった」

 アレクシスが眉を顰める。書類を封筒に戻し、ベアトリスに手渡した。

「准将に真偽を確かめさせる。オレガノは通信網を使用しない主義だから答えが出るのに数日はかかるが、その間Sig.オルヴェはどうすれば?」

「こちらの駐屯地に連れてきておくといいさ。なに、先代の犯した罪の責任を取らせるような真似はしない」

 ドン・クリステンが言って、胸ポケットからシガレットケースを取り出した。オイルライターで紙巻きタバコに火を点け、煙を燻らせる。チェリオは眉間に皺を寄せた。オイルライターの音が以前とはちがう。それにあのときは紙巻きタバコではなくかなり高級そうな葉巻を吸っていたはずだ。とすると、先代がどうこういうのも嘘ではないかと睨む。鼻につくほど甘ったるく、そして独特なタバコの煙が風に乗って漂ってくる。その煙を吸った途端、息を潜めていたユーリが大袈裟なほど体を震わせた。

「ユーリ?」

 喘ぐような短い息遣いだ。ガタガタと震えたかと思うと横から喉がひゅっと鳴るような音がしたあとでその場に膝から崩れ落ちた。どしゃりと音がして、アレクシスたちの視線がこちらに向く。

 幸いにして灯りがないため向こうからは姿が見えないはずだ。ユーリの体が異常なほど震え、息を吐ききれないのか浅い呼吸を繰り返す。口元を押さえ、えずきそうになるのをみて、これはヤバいやつだと気づいた。こんな状態のユーリを抱えて逃げるなんて無理だ。アレクシスが不審そうにこちらをみているのがわかる。夜目が効くタイプでよかったと思う反面、この状況をどう切り抜けようか考えた。

「ネズミでもいるのかね」

 ドン・クリステンがこちらに近づいて来る。ヤバいと思った途端、木の上からなにかが勢いよく飛び降りてきた。

 ジジだ。構えたナイフがドン・クリステンの腕を掠る。反射的に身構えたドン・クリステンを見やり、ジジが体勢を低くして唸る。その瞬間にアレクシスがレッグホルスターに手を掛けた。

「ナイス、エリザベートちゃん」

 ジジの行動ですべてを悟ったのか、アレクシスが素早くハンドガンを抜こうとしたが、ドン・クリステンがそれよりも早く走り去った。靴の音が遠のく。足音はまるで違う。重心も、そしてたぶん普段の歩き方もだ。ジジがそのあとを追っていった。ベアトリスがジジを見やったあとで、アレクシスを見上げた。

「こちらも追いますか?」

「ほっとけ、ドン・フィオーレが手を打つだろ。ミカがいねえのに深追いしたら、アレさんの顔面ぐずぐずにされるわ」

 それよりと、アレクシスがこちらに向かって来る。チェリオは呼吸が怪しいユーリを引きずって潜んでいた路地を出た。

「Sig.オルヴェ!?」

「おい、誰か奥の処置室を開けろ!」

 アレクシスが駐屯地のドアを開叩いて大声で呼ぶ。オレガノの隊員たちはアレクシスから指示を受けて黙っていたのか、奥からバタバタと足音が聞こえて来て、ドアを開けた。

「ベベ、いけるか?」

「過呼吸だと思うけど、これは……。とにかく、安定効果のある丸薬を試してみます」

 アレクシスがユーリを抱き抱えて指示された処置室へと走った。ベッドに寝かせて声をかけるが、震えながら呻き声を上げるだけで反応がない。

「おい、ユーリ!」

「いつからこの状態に?」

「さっきの、ドン・クリステンの偽物が煙草を吸ったあとからだ」

「俺たちにはなにも影響がないことを鑑みると、薬物の類ではなくて、なんらかの拒絶反応としか思えねえな」

「もしそうなら、カルマじゃ効かないかも」

 言いながらもベアトリスがユーリに丸薬を含ませようとしたが、震えがひどく飲ませそうにない。ベアトリスはそうだと思いついたように声を上げて、バタバタと薬品箱がある棚へと走った。液体が入った遮光瓶と注射器を持って戻って来る。注射器の針を綿球で消毒し、遮光瓶から液体を注射器に規定量吸い込ませて、ユーリの腕まで袖を捲り上げた。アレクシスに固定するよう指示して、ユーリの腕を綿球で消毒してから注射針を刺す。

 手際よく薬液を注入し、腕から注射針を抜いて、そこを綿球で押さえた。ユーリははあはあと息の根の合わない呼吸を繰り返して、苦しそうに体を丸めていく。

「落ち着いて、ゆっくり息を吐いて」

 言いながらベアトリスがユーリの背中を撫でるが、頭を押さえてベッドに踞り、耳慣れない言語でなにかを言っている。まるで助けを求めているかのような声に、チェリオはユーリの肩を掴んでゆすった。

「おい、ユーリ! 落ち着けって!」

 チェリオの手を振り払い、切羽詰まったような声で誰かを呼ぶ。なにを言っているかわからなかったが、サシャの名前ははっきりと聞こえた。アレクシスが眉を顰める。

「まさかさっきのやつ、Sig.オルヴェが子どもの頃に誘拐しようとしたっていうやつなんじゃ」

「見た目を特定の人物と同じようにできるなんて、そんなことできんのかよ?」

 チェリオが尋ねると、ベアトリスがありますよと冷静な声で言った。

「戦火の絶えないフィッチでは、戦いで顔を負傷した兵士のために形成技術が発展していると聞いたことがあります」

「本物ならまずジジが襲うわけがねえ」

 窓がノックされる。アレクシスが窓を開けると、ジジがひらりと入ってきた。

「逃げられた、けど、この先の角を」

 といって、指をおり確認する。

「ひとつ、ふたつ。うん、ふたつ行った先の角を曲がって、壁にあるドアに入って行った」

 鍵がかかって入れなかったと、ジジ。

「地下通路か。その存在を知っているとすると、ドン・パーチェの息がかかっているやつだとみて間違いない」

「その地下通路を辿れば犯人の行方がわかったりしますかね?」

「あのタバコの臭いを追えば、なんとか。ただあの鍵はちょっと複雑で、開けるのに時間がかかる」

「チビちゃん、開けられないとは言わねえのな」

「そりゃそうだろ、鍵なんて仕組みがわかりゃ簡単に開けられる」

 問題はジジの鼻が良すぎて、別のにおいと撹乱されたらわからないってことだなと告げる。

 ユーリが苦しそうに唸る。はあはあと息を荒らげ、また頭を押さえた。

「これ、強制的にオトしちゃいます? この拒絶反応は普通じゃない」

「戦闘ストレス反応……的な? あのにおいがトラウマを抉るようなきっかけになったとすると、やっぱりあいつとは収容所か、もしくはフォルスで出会っているのでは?」

 ユーリの体がガタガタと震えている。息が整わないせいか顔色が悪い。ベアトリスから、チェリオとジジは少し離れていてくださいと言われ、ユーリの視界に入らない位置に移動する。

 ベアトリスが震えるユーリに声を掛ける。ステラ語ではなく、多分フォルムラ語だ。馴染みのない言語よりも子どもの頃からよく使っていた言語のほうが落ち着くと考えたのだろう。ユーリがぼそぼそとなにかを言っているけれど、聞き取れない。アレクシスもまた眉を顰めた。

「フォルムラ語に似てるけど、違わないか?」

「これ、たぶん古代イル・セーラが使っていたっていうやつです。まったく聞き取れないけど」

 どうしましょうと、ベアトリス。もう一度フォルムラ語でベアトリスが話しかけると、頭を押さえて震えていたユーリがほんの少し反応を示し、顔を上げた。息が荒い。頭痛のせいか、涙に濡れている。目の前にいるのがイル・セーラだからなのか、ユーリがベアトリスに手を伸ばし、袖を握りしめた。微かになにかをつぶやいた。

 ベアトリスが尋ね返す。ユーリはまた組んだ腕で顔を伏せるようにして、ベッドにうずくまった。胸と背中が激しく上下するほど荒い呼吸を繰り返していたけれど、ベアトリスが打った薬の効果なのか、少しずつ、少しずつその呼吸が穏やかになっていく。

「大丈夫ですか?」

 ユーリの意識がどれくらい戻っているのかを確認するためか、今度はノルマ語でベアトリスが話しかける。まだ呼吸は荒いものの、わずかに頷いた。

「あれは本物のドン・クリステン……ではありませんよね?」

 ユーリが顔を上げた。さっきまでよりは少し目に生気が宿っている。

「違う」

 震える声でユーリが言う。かなり掠れていて、やっと絞り出したような張り付いた声を出した後で、ユーリが咳き込んだ。ベアトリスが背中をさする。

 また震えがひどくなる。わずかにでも酸素を取り込もうとするためか開きっぱなしの口からひゅうひゅうと喉が閉められたような音がする。ベアトリスもそれに気付いたらしく、すぐに薬品棚に向かってガーゼタオルになにかの薬品を染み込ませてユーリのところに持って行った。柑橘系の香りが漂ってきた。

「ビターオレンジの蒸留水です。ゆっくりと呼吸をして」

 ベアトリスに促されるままにユーリが荒い呼吸をなんとか落ち着けようとしているのがわかる。喉を締めるような音が徐々に緩和していくのを聞きながら、チェリオは胸を撫で下ろすような気分になった。

 一体何が原因だったのか、こっちまで冷や汗をかいた。

「さっきのやつが何者かわかるか?」

 アレクシスが尋ねると、ユーリがちいさくうなずいた。

「ドン・ヴェロネージだ」

 あのタバコのにおいと感覚は間違いないと、ユーリが言う。

 ピエタの司令塔の名前だ。スカリアがヘコヘコしていたのはそいつに対してだったのだろうかとふと思う。

「ドン・ヴェロネージは行方不明だと言っていましたね」

「“ユーリ”がフィッチと組むわけがない」

 あんなのは嘘だとユーリの苦しそうな声がする。わかっていますとベアトリスがユーリの背中を撫でる。

「“ユーリ”はドラッグとフィッチが嫌いなんだ。昔、フィッチの要請でフォルスのイル・セーラが風土病を抑え込むために向かったんだけど、ドラッグ漬けにされて戻ってきたんだって言っていた」

 マジかとアレクシスが苦い表情を浮かべる。

「フィッチがイル・セーラを欲しがっているのは風土病を抑え込むためだと言っていたけれど、じつはそうじゃなく、別の理由があるということか?」

 それはわからないけどと言った後で、ユーリが苦しそうに息を吐く。また頭をおさえ、痛みにうめくような声をあげる。

「大丈夫か、Sig.オルヴェ」

 まだ少し荒い呼吸を繰り返しながらも、大丈夫と答える。けれどユーリは踞ったまま起きあがろうとしない。手も、体もまだ震えているようだ。

「カルマを」

 ベアトリスがいうと、ユーリは少し顔を上げて、はあはあと息を荒らげながら首を横に振った。

「さっきの薬とカルマでは、過剰反応を起こしませんよ」

 ぐっと息が詰まるような音がする。ユーリが胸を押さえてなにかを堪えるようにしたあとで、ベアトリスを呼んだ。

「カルマの配合率は?」

「コレットの葉、アンフィスの葉、トゥルスの葉をそれぞれ1:2:1の割合で配合し、最後にエルーパの粉末を薬匙の先にほんの少し混ぜたものをミエレッタの蜜で固めます」

 ユーリが大きく息を吐きながら、まるで吸い寄せられるようにベッドに体を沈める。そのまま喘ぐような呼吸で、そうかとだけ言った。

「カルマの配合率はどこも同じはずですが」

 ユーリが首を横に振る。

 心配そうに覗き込みながら言うベアトリスに視線を向けることもなく、ユーリは小声で全部違うと呟いて、もう一度大きく息を吐いた

「Sig.オルヴェ、あなたが常用していたカルマって、もしかしてユリウス・ヴァシオ・シャルトランからもらったものですか?」

 ユーリが頷いた。フォルスで気分が悪くなった後にもらったものだとぼそぼそという。

「それ、ガブリエーレ卿かどなたかが持っていたりしますか?」

「たぶん。エリゼに没収されたから」

「なにか心当たりでもあるのか?」

 アレクシスに問われ、ベアトリスが深刻そうな表情で肩を竦めた。

「カルマと名前は似ているけれど、通常頭部外傷を負った相手や脳血管性の症状のある患者にしか使わないものがあるんですよね」

「カーマの丸薬」

 ベアトリスがそうですと目を鋭くさせる。

「一応は脳圧を下げる役割だったり、頭部外傷による幻覚等の改善を図るためのものだけれど、カーマの丸薬は細工をすると記憶を操作するために使うドラッグに変化するため、オレガノではリナーシェン・ドク以外触れない法律ができています」

「ミクシアではわりとスタンダードだけど、安全性を考慮して権威以外の調合は認められていない。だから俺は調合率を知らないし、大体の本にも記載がない」

 また少しずつユーリの息が上がる。喋らなくていいとアレクシスが心配そうに言うのを横目に、ベアトリスが口元に手を当てた。

「もしかして、さっきのような発作はたびたび起きていませんでした? 夢で魘されるような感覚だったり、夢見が悪くて突然飛び起きたり」

「夢で魘されるのは、地下街に潜伏していた時にたびたびあった」

 ユーリの代わりにチェリオが答える。

「地下街に潜伏する前、カルマを補充しましたか?」

 ユーリが頷く。やっぱりとベアトリスが思案顔になる。

「カーマの丸薬の離脱症状ですね。あなたはなにも知らずにカーマの丸薬を服用していて、数が少なくなったから『本物のカルマ』を補充して地下街に潜伏した。でも薬効が違うので発作が起きそうな時に治まる代わりに、なにか幻覚のようなものを見ませんでした?」

「たぶん。フォルスで初めてユリウスに会った時にも、似たようなものを見た気がする」

「薬が完全に抜けるまで、多分続きますよ。別の薬草で中和をできなくもないですが、操作されたあなたの記憶が戻らない可能性があります。
 カーマの丸薬はトラウマを抉るようなことが起きた時に服用させ、その『トラウマを想起させる出来事』を催眠で書き換えることができる厄介なものなんです」

「……だから、次々にいろんなことが起きたってこと? 俺の記憶を消すために?」

「思い出されては困るなにかがあるんでしょうね。本国にいる准将殿に、カーマの丸薬の対処法がないか尋ねてみます」

 そう言ってベアトリスが部屋を後にした。

「大丈夫かよ?」

 チェリオがユーリを覗き込み、声をかけた時だ。ユーリの体が大袈裟なほど跳ねた。恐ろしいものを見た時のような、恐怖に染まった表情を浮かべたが、相手がチェリオだと気付いたのか、どこか安堵したように頷いた。呼吸が荒い。あきらかなノルマに対する拒絶だ。

「Sig.オルヴェ、おまえドン・ヴェロネージたちにマワされただけじゃなく、なにか見たな?」

 ベッドに横たわったまま荒い呼吸を繰り返すだけだ。生理的に溢れてくる涙を拭い、鼻を啜る。ややあって、ユーリが口を開いた。

「収容所に連れて行かれるとき、フォルスの村の中で、オレンジゴールドの髪の女性を食ってた」

 村の入り口にあった水底が見えるほど澄んだ水の湖が血塗れで、そのなかには無数の遺体があった。そのほとんどが銀髪のイル・セーラ以外で、左側の眉付近に目立つ痣のある男が遺体の内臓を洗っていたとやや興奮気味にユーリが言う。

 だから東側のスラムでユーリが気分を悪くしたのかと納得する。

「その顔を他の場所で見たか?」

「フォルスの、国境警備隊」

 ユーリが震える声でそう言った途端、アレクシスが舌打ちをして耳慣れない言語で誰かを呼んだ。荒い口調で指示を出したあとで苛立ったような表情を浮かべて前髪を掻き上げる。

「俺が見たドン・レゼスティリにはそんな痣なんてなかった。フィッチの形成技術で消したか、あるいは顔を変えたか」

 アレクシスは苦い顔をして、ユーリの背中を撫でた。

「ウォルナットに戻ろう。ドン・ヴェロネージとドン・レゼスティリに繋がりがあるとしたら、駐屯地にいると危険が及ぶかもしれない」

 起き上がれるかと尋ねられ、ユーリが首を横に振った。体を起こそうとすると嘔気がつくのか気分が悪そうにうめく。また頭を押さえて苦しそうな息を吐いた。

「もう少ししたら落ち着くから」

 ふうふうと息を荒くして、ユーリが言う。アレクシスが無理をしなくていいと言いながらユーリの背中を撫でるのを見ながら、ジジに視線をやった。ジジは珍しくなにかを考え込んでいるようだ。

「どした、ジジ?」

 チェリオの声に、我に返ったようにジジが顔を上げた。

「あのにおい、どこかで」

「香水のにおいとかそういうのは、たぶんドン・クリステンのものを真似てんじゃねえの?」

「そういうんじゃない」

 そこまで馬鹿じゃないと言って、ジジが眉根を寄せたあと、そうだと声を弾ませた。

「フェリスの実と、コチアが混ざってる」

「コチア?」

「ポポリで採れる。こっちではダメなやつ」

「ドラッグに使われるものってことか?」

 そうとジジが頷く。

「Sig.オルヴェが飲んでいた薬、ときどきコチアのにおいした。コチアは痛み止めにも使う。あいつの血、古いにおい」

 古いにおいと言われても想像がつかない。流石のユーリも同じだったようだ。とにかくここにいるのは危ないからと、ユーリの回復を待ってウォルナットまで送るとアレクシスが言う。アレクシスが何かに気付いている様子だったけれど、ユーリの手前敢えて気付かないふりをした。

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