ハルへ

はるのいと

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第四話「群青色のビー玉と彼女の涙」

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「絶対、あいつらの仕業だよ」
 
「やっぱそうかな……」
 
 小夜は来客用のスリッパをバタつかせながら、悲痛な表情を浮べた。
 場所は放課後の1年D組の教室。そこにはいつもの面々が顔を突き合わせていた。昨日の女子生徒たちとの一件――菅原に連れられ生徒指導室へと向かった彼女たちは、反省でもしたのかその後は小夜に手出ししてくることはなかった。
 
 だが今朝になって小夜が登校すると、彼女の上履きが綺麗さっぱりと無くなっていた。加えて学園のWEB掲示板には、小夜に対する誹謗中傷が数多く書き込まれている。

「どうしよう、如月君……私、怖い」

 小夜は悲痛な表情を浮かべた。だがそんな彼女をよそに、如月は先ほどから窓の外を眺めながら、スマートフォンで音楽を聞いていた。曲目は相変わらずのラジオ体操第一である。

「人が壮絶なイジメに遭ってるっていうのに、何を呑気に音楽なんか聞いてんのよっ!」

 小夜はいつぞやと同じように、如月の耳から強引にイヤホンをもぎ取った。

「自業自得だろ?」

「ちょっとくらい心配してくれてもいいじゃんっ!」

「困ったことになったね、心から同情するよ」

 如月は無表情のまま小夜を見つめた。そしておもむろにイヤホンを耳元へとはこんでゆく。

「いやいや、そういうことじゃなくて」

 今度は早苗が、如月のスマートフォンを強引にひったくる。すると彼は大げさに溜め息を漏らすと、心底うんざりした表情を浮かべた。

「何なんだよ。一体僕にどうしろと?」

「それを今から考えるんじゃない」

「考えたって無駄だよ。それにあの2年生が犯人とは、まだ決まったわけじゃないだろ?」

 あの女子生徒たちは、こんなちゃちな嫌がらせはしない。

「じゃあ、誰が犯人だっていうのよ」

 不満気いっぱいに早苗は口を尖らせた。

「僕に聞かれても知らないよ。なんせ相手は三島さんだからね、敵も多いんじゃないのかい?」

「まあ、確かにね」

「なに納得してんのよ」

 小夜が冷めた眼差しで親友を睨みつけると、早苗は苦笑いを浮かべながら話を本筋へと戻した。

「まあ、とにかく今日のところは、この子を家まで送ってあげてね」

「だから何で僕が? 荒川さんが送ればいいだろ」

「女同士で帰ってどうすんのよ? バカじゃないの」

「いざとなれば僕なんかよりも、よっぽど荒川さんの方が頼りになりそうだけど?」

「それどういう意味よ?」

「だってその二の腕、僕のよりもたくましいじゃないか」

「メガネ、ぶっ壊すわよ」

 早苗は眉間にしわをよせ、冷めた眼差しを向けた。一方、如月はいつもの無表情でそれを受け止める。暫しの間睨み合いが続き、程なくして見かねた小夜が二人の間に割って入った。

「まあ、まあ。二人とも落ち着いて」

「ふん、小夜に感謝すんのね」

 早苗は渋々といった様子で、如月から視線を逸らした。そして彼女の怒りが鎮火したことを確認すると、小夜はゆっくりと彼に視線を移した。

「如月君、面倒なのは分るけど正直ほんとに怖いの……だからお願い、送ってくれないかな?」

 小夜の上目使いが如月に注がれる。その瞳には薄っすらと涙が潤んでいた。
 ほんといいタマだな、この女。なんせ友人を巻き込み、自作自演までしてこの状況を作り出すんだから……。如月は冷めた眼差しを小夜に向けた。だが今そういったところで、彼女たちは絶対にその事実を認めないだろう。彼はそう思いつつ静かに吐息を漏らした。

「家はどこだい?」

「緑神駅から徒歩10分」

 小夜は潤んだ瞳のまま答えた。

 緑神駅か……そういえば駅前の商店街には、**ちゃんの大好物があったなあ。あの店はまだあるんだろうか。

「三島さん、駅前の商店街にマスダっていう精肉店はまだある?」

「マスダ? うん、あるけど……でもどうして?」

「いいや、別になんでもない。分ったよ、送ればいいんだろ」

「えっ、いいの?」

 如月が静かに頷くと、程なくして二人は帰宅の途につくことになった。



 相変わらず神無月駅までの道中では、小夜がひっきりなしに如月に喋りかけていた。それを彼が適当な生返事で返す。いつもの光景だ。因みに先日の歩道側云々の件をきっかけに、如月は常に道路側を歩かされていた。

「ねえ、今日は夕飯のお弁当買わなくていいの?」

 神無月駅に到着すると、小夜はショッピングセンターに顔を向けた。

「ああ、今日は別のとこで買うから」

「あっ、もしかしてマスダで?」

「うん」

「でも何でマスダのこと知ってんの? 如月君の家からはかなり離れてるでしょ」

「昔ね、よくあの商店街にいったんだ」

「へえ、そうなんだ。あっ、そうだ! なに買うか当ててあげようか」

「無理だと思うけど……因みに?」

「ジャンボメンチカツ弁当二つっ!」

 小夜が自信満々にピースサインを作ると、如月はかぶりを振りながら ”残念” と呟いた。

「ええ、1番人気なのに……じゃあ何?」

「あとで分かるよ」

 如月はそういうと、丁度よく到着した電車に乗り込んでいった。



 商店街に到着した頃にはすっかり日が落ちていた。辺りを見渡すと、店じまいを始めている店舗がちらほらと目につく。そんな中、幸いにもマスダ精肉店はまだ営業していた。
 
 店先では店主のタエ子が、威勢のよい声で客たちを迎えている。年の頃は70代といったところだが、はりのある声は未だ現役といった感じであった。
 
 あの頃と殆ど変わらない……。如月は店先の前で幼い頃の記憶を思い浮かべた。すると二人の存在に気付いたタエ子が、彼らに顔を向けてきた。

「あら、小夜ちゃんじゃないの。いま帰りかい?」

「うん」

「あらら、隣の坊やはもしかして彼氏かい?」

 店先のカウンターから身をのり出すと、タエ子はにやけた顔を小夜に向けた。

「そういいたいところなんだけどね。全然、相手にされないの」

「あらら……坊や、こんなかわいい子になびかないってことは、あんたもしかしてこっち系かい?」

 タエ子は頬の前で手を逸らすと、その・・の方々を意味するポーズを作った。

「注文いいですか?」
 
 この婆さんの話に付き合っていては、いつまで経っても夕飯は手に入りそうにないな。如月はそう思いつつ、タエ子の軽口を無視した。

「ノリの悪い子だねえ。はい、いいよ! ご注文は?」

「厚切りハムカツ弁当を2つください」

「あら、珍しい注文だね」

「今でも出来ますか?」

「うん、出来るよ。でも20分位掛かるけどいいかい?」

「ええ、構いません」

 如月は軽く頷くと、商店街の通りに目を向けた。



「あんなメニューあったんだ」

「裏メニューだよ」

 商店街を歩きながら、如月は辺りをゆっくりと見渡してゆく。二人は弁当が出来上がるまでの20分程の間、ここいらを散策することにした。

 昔はもっと広く感じたけど、こんなに小さい通りだったんだなあ。そういえば一度、二人して迷子になったこともあったっけ。彼は幼い頃の記憶に思いをはせながら、ゆっくりと商店街を歩いた。

「やっぱり懐かしい?」

「まあね。三島さんはこの街に住んでもう長いのかい?」

「ううん。高校に入ってからだから、まだ3ヶ月くらいだよ」

「それにしては随分と仲がよかったね」

「ああ、マスダのおばあちゃんと?」

「うん」

「そりゃそうよ。私って食材は全部この商店街で買ってるから、3ヶ月もあればここの人たちと仲良くなるのには十分よ」

「僕にはとても真似できないな」

 如月は自嘲した笑みを浮かべながらポツリと呟いた。
 懐かしい商店街を歩いてると、時間はあっという間に過ぎていった。そして約束の時間を少し過ぎたところで、二人はマスダへと戻った。すると弁当は丁度よく出来立てであった。

「はい、厚切りハムカツ弁当二つ。毎度ありっ!」

「どうも」

 如月が代金を支払い弁当を受け取とると、タエ子は目を細めながら彼を凝視した。

「坊や……前にどっかで会ったことあるかい?」

「あれっ、おばあちゃんナンパ? ダメだよ、彼は私が予約済みなんだから!」

「はははっ、ごめんごめん。でもどこかで――」

「昔何度かこの店に来たことがあるんで、そのせいじゃないですか」

 タエ子の言葉を遮ると、如月はビニール袋の中の弁当に目を向けた。

「そうかねえ。ああ、やだやだ。最近物忘れが酷くって……ほんと年は取りたくないもんだよ」

「十分過ぎるくらい若いと思いますけど?」

 如月は珍しく薄っすらと微笑みを浮かべた。

「あら、嬉しいこといってくれるねえ。坊や、また厚切りハムカツ食べたくなったら、いつでもおいで」

「ありがとうございます」

 如月は軽く頭を下げると、二人はマスダ精肉店をあとにした。タエ子は頬杖をつきながら、そんな彼らの背中を何かを思い出すようにぼんやりと眺めていた。



「年上の女性には優しいのね」

「どういう意味だい」

「さっき初めて見た、如月君が笑ってるところ。やっぱ普段ムスッてとしてる人が、時たま見せる笑顔って殺人級にグッとくるね。マジで鼻血出るかと思ったもん」

「別に僕はムスッとなんかしてないよ」

「いいえ、してます」

「してな……まあ、別にどっちでもいいけど」

「じゃあ、学生証見せてよ。そこには仏頂面した如月君の顔写真があるから」

 小夜は頬を膨らませながら、如月に詰め寄ってゆく。最初は無視をしていたが、あまりのしつこさに彼は致し方なく制服の内ポケットから学生証を取り出した。

 丁度その時だった、取り出した学生証と共に直径3センチほどの小さな筒形をしたピルケースが、道路へと投げ出され転がってゆく。すると如月は慌ててそれを取りに走った。

 そしてもう少しで、ピルケースに手が届きそうになったその時、彼より一歩早くそれを手に取る一人の男がいた。

 年齢は恐らく17~8といったところだろう。金髪に近い程にブリーチされた長髪。不自然なまでに青白い顔には、複数のピアスが付けられていた。

 そしてその男の周りには数名の男女が、ニヤついた笑みを浮かべながら、如月たちを見つめている。その中には先日、教室で小夜に絡んできた女子生徒たちの姿もあった。

「これ、なに?」

 男はピルケースを耳もとで振りながら、如月に顔を向けた。

「ただのピルケースです」

「ピルケース? クスリでも入ってんの」

「ええ」

「どれどれ」

 男はピルケースを開けると中を覗きこんだ。

「返してください」

 如月の感情を押し殺すような声が辺りに響いた。
 トクン、トクンと徐々に心臓の鼓動が跳ね上がってゆく。そしてゆっくりと負の感情に支配されてゆく感覚。ま、まずい、いつもの発作の前兆だ。よりによってこんな時に……。如月は瞼を閉じて必死に発作を押さえ込んだ。

 トクン、トクン、トクン、トクン、トクン……ダッ、ダメだ、もう限界だ……。如月は心の中で呟くと、静かに瞼を開いてゆく。すると彼の顔は、途端に能面のごとく表情を失くしていた。

「あれあれ、嘘はよくないな。ほら、クスリじゃないじゃん」

 男はピルケースから取り出したものを如月に向けた。それは夜空のように美しい、群青色のビー玉だった。

「返してください」

 如月は素早く男の前に移動した。

「勿論返すよ。ちゃんと、こっちのいうことを聞いてくれたらね」

 男はビー玉をピルケースの中に戻すと、不気味な笑みを浮かべた。

「ちょっと何なのよ、あんたらっ!」

 小夜はぐいぐいと、男に詰め寄ってゆく。だがそれを、ほっそりとした華奢な片手が素早く制した。彼女は何事かと思い、如月の顔を覗き込んだ。するとそこには、いつも彼とは違う深い闇のような瞳をした少年が佇んでいた。

「返してください」

「キミら三島小夜ちゃんと、如月ハル君でいいんだよね?」

 男は如月を無視して小夜に問いかけた。

「だったら何なのよっ!」

「じゃあ、ちょっと俺らについてきてくれるかな」

「返してください」

「ちょっと付き合ってくれるだけで良いんだ。そこに車も止めてるし――」

「返してください」

 如月は表情を失くしたまま、暗い瞳で何度も同じ台詞を繰り返す。すると男はそのあまりのしつこさに、うんざりした様子で頭をかきむしった。

「ったく、さっきから何度も何度も、うるせえなあ……てめえ、殺されてえのか?」

 男は柔和だった表情を突然変えると、如月の胸元に刃渡り10センチ程のバタフライナイフを突きつけた。すると周りにいた男女が小声で奇声をあげる。

 如月を助けようと、小夜は男に掴み掛かろうとした。丁度その時だった、彼は素早くナイフの刃を右手で掴み、もう一方の手でナイフを握る男の手を覆うように握りしめた。

 当然のことながら如月の掌からは、真っ赤な鮮血が滴り落ちてゆく。小夜は両手で口を覆い、声にならない悲鳴を上げる。一方、男は無表情でナイフを握る彼に驚愕の顔を向けた。

「返してください」

「だ、だから俺らについてくれば――」

「傷害、殺人未遂……少年院じゃ済まないよ」

 如月はナイフを自身の首筋へと運んでゆく。その力は痩身の彼とは思えないほどに力強いものだった。

「お、おいっ! やめろって、マ、マジで洒落になんねえってっ! お、お前らもぼさっとしてないで、こいつを何とかしろよっ!」

 男は悲痛な叫びをあげると、周りにいる仲間たちに助けを求めた。だが突然の出来事に、誰一人としてその場を動くことが出来ない。如月は男に構うことなく、ナイフを自身の首筋に押し当ててゆく。すると首筋からは真っ赤な血が一筋流れ出した。

「如月君やめてっ!」

 小夜の叫び声が辺りに響き渡った。

「返してください」

「わ、わった、返すからっ!」

 男はへっぴり腰で、ピルケースを如月の目の前にかざした。

「三島さん、悪いけど受け取ってくれるかな」

「ほ、ほら、受け取ったよ。だ、だからお願い、早くナイフから手を放してっ!」

 小夜は震える手で男からピルケースを受け取ると、懇願するように叫んだ。

「キミがこの人に頼んだの?」

 如月は涙ぐむ小夜を無視すると、男の背後で驚愕の表情を浮かべている男女に目を向けた。そしてその中の一人に静かに視線を合す。その人物は先日、小夜に絡んできた化粧の濃い女子生徒だった。

「キミがこの人に頼んだのか? って聞いてるんだけど」

「違えよ! 俺らは――」

「あんたに聞いてるんじゃない」

 必死で否定する男の言葉を、如月の冷淡な声が静かに遮った。

「あ、あたしは……健介に頼まれて、そ、それで」

「健介……鈴木先輩のことかい?」

 女子生徒は無言のまま頷いた。

「で、彼には何て頼まれた?」

「あんたらを……」

「早く話さないと、この人が殺人者になっちゃうよ」

 口ごもる女子生徒に、如月は無表情な顔を向けた。そして無言でゆっくりと首筋にナイフを押し当ててゆく。

「ば、ばかっ、早くいえよっ!」

 男の金切り声が通りに響き渡った。

「拉致ってあんたをボコッたあと、その女を輪せって」

「ふうん、なるほどね。傷害に強姦か……三島さん、彼女の発言をスマートフォンで録画して」

 小夜はコクリと頷くと、すかさず女子生徒の発言を録画し始めた。

「ちゃんと録画出来たかい?」

 如月の問いかけに小夜は何度も頷いた。彼はそれを目線だけで確認すると、静かにナイフから両手を離した。

「これ以上、僕らに構えば次はこんなもんじゃ済まさない。分ったか?」

 如月の血塗れの手が男の顔にそっと触れた。途端に男の頬は真っ赤に染まってゆく。恐怖から彼の問いかけに男は答えることが出来ない。暫しの沈黙の後、如月は再度こう尋ねた。

「分ったのか?」

 すると男は唇を震わせながら、何度も頷いた。如月はそれを確認すると、ゆっくりと小夜に視線を移しこう問いかけた。

「三島さん、痴漢された時は?」

 如月の真意を瞬時に理解した小夜は、大声でキャーと叫んだ。それを機に男たちは蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げ出していった。

「な、なにやってんのよっ!」

 小夜は血塗れの掌を、ハンカチで押さえながら叫んだ。その瞳からは、おためごかしではない本物・・の涙が溢れだしていた。

「ピルケース、返して」
 如月は囁くようにいった。すると小夜は手の甲で涙を拭いながら、無言でピルケースを手渡す。すると彼は安心したように微笑を浮かべると、小さく「ありがとう」と、呟いた。



狂気の出来事――その後、二人は小夜の自宅へと向かった。幸いなことに、5分とかからない場所に彼女のマンションはあった。このことから先の男たちが、小夜の自宅付近を張っていたということが分る。

「随分と立派なマンションだね」

「そうでもないよ」

 小夜は鞄から鍵を取り出すと、オートロックを開錠させた。

「それじゃ、僕はこれで」

「はあっ? 何いってんのよ、そんな傷でっ!」

 当然のようにその場をあとにしようとする如月に、小夜は怒鳴り声をあげた。

「別にこれくらい大したことないよ」

「ダメ、いいから入って」

 小夜はそういって如月を腕を掴むと、強引に自動ドアを潜った。そして嫌がる彼の手を引きながら、広々としたエントランスを通り抜けてゆく。小夜はエレベータの前に到着しても、如月の腕を放そうとしない。そんな彼女の手は微かに震えていた。

 久々の発作――我慢したが止められなかった……全ての感情がなくなり、痛覚も消えてゆく。急速に自分がどうなろうが、どうでもよくなってゆく感覚。そしてさっきのような行動に出る。自分でいうのもなんだけど、完全に狂ってる。如月は震える小夜の手を見つめながら、自嘲した笑みを浮かべた。



「ご近所の目もあるんだから早く入ってっ!」

 小夜は扉を開け部屋に入るように促した。すると如月は仏頂面のまま ”おじゃまします” と呟くと玄関口に足を踏み入てゆく。部屋に入ると如月はまずキッチンへと向かわされた。小夜は蛇口から水を出すと、彼の掌の血を洗い流してゆく。だが出血は一向に止まらなかった。

「ど、どうしよう、全然止まらない……」

「大丈夫だよ。明日になっても止まらなければ、病院で縫えばいいだけのことだから」

 如月はフェイスタオルを掌に巻き付けると、キュッときつく縛り上げた。

「どうして、そんなに冷静でいられるの?」

「パニクッても何の特にもならないだろ」

「そうだけど……そんなに大事なものだったの? さっきのビー玉」

 如月は無言で頷いた。

「だからって、あんなことまで……」

「僕は狂ってるんだよ。どうだい、これで嫌いになっただろ?」

「ううん」

 小夜は俯きながら、かぶりを振った。

「でもさっきの如月君……何か怖かった」

「だろうね。真っ当な感想だよ」

「でも――」

「それじゃあ、僕はこれで。タオルありがとう」

 如月はそういって玄関へと向かってゆく。すると小夜は縋るように、彼の華奢な背中に抱きついた。

「何のつもりだい?」

「お願い、泊まってって……」

「どうして?」

「……怖いから」

「ここにいれば安心だよ。それにさっき録画した動画がある限り、やつらもキミに手出しは出来ない。だから――」

「あいつらのことじゃないっ!」

 小夜は大声で叫ぶと、如月の体に回した腕に力を込めた。

「じゃあ、何が怖いんだい?」

「目を離したら如月君が消えてなくなりそうだから……」

「大げさだよ。ちょっと手を切っただけじゃないか」

「大げさなんかじゃないっ! 自分で気付いてないの? さっきの如月君、マジでおかしかったんだよっ! あの男が引いてなかったら、首に押し当てていたナイフは――」

 キミにいわれるまでもない。そんなことは嫌というほど分ってるよ……。

「たとえそうだとしても、キミには関係ない。だからその手を離してくれ」

「嫌だっ!」

「悪いけど、帰らなきゃいけないんだ……どうしても」

 如月は優しく小夜の手を振りほどいてゆく。すると彼女は涙を流しながら、その場にへたり込んだ。

「それじゃ」

 泣き崩れる小夜をよそに、彼は静かにマンションをあとにした。
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