向こう側で、私は。

3×3花

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第1話「大森林の中心で」

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 静かな空間。心地の良いそよ風。日が差し込む木々の間に、一人の少女が目を閉じて木の根を枕に寝息を立てていた。白いワンピース一枚を着た彼女は、冬でもないのに寒そうに震える。草木は彼女をまるで隠すようにゆらゆらと揺れている。どこからか逃げてきた小動物を守るように、ゆっくりと。少女はまるで優しく誰かの腕の中に包み込まれているかのように温かみを感じながら寝息を立てる。朝の森は、少女をどうにか起こさないように静かに、静かに息を吹いた。
 どれくらいの時が立ったのだろうか。少女はまるで今生命を吹きかけられたかのように目をぱっちりと開く。自分の状況を理解できないのか、ゆっくりと起き上がりあたりを見渡す。ぼーっとする思考回路、目の前に広がる広大な森林。風の優しいにおい。そのどれもが、無知な彼女には不安と安心を与えた。矛盾した感情に疑問を抱いた彼女は、自身の顔をペタペタと触る。なぜか、特に後頭部を執拗にさすった彼女は、小さくつぶやいた。

「ここ、どこだろう…。」

 一般的には、彼女は記憶喪失のような状態にあるといえるだろう。それは本人もなんとなく理解していた。彼女が覚えていることはたった一つ。それは自身が「ヒナ」という女性であることだ。しかし自分がどのような人間どころか、基本情報ともいえる家族構成や年齢が全く分からないのである。この不思議な状況は、彼女を混乱させるには容易だった。
 考えてもわからない。そんなことは考えるのをやめてしまおう。そう思ったとき、ヒナは自身がさっぱりした性格であることに気づく。そこに気づくと、彼女の自我がだんだんとはっきりしてきた。
「…そうね、考えても仕方ないことは、考えすぎちゃダメ。とりあえず、行動しましょう。」
 絶望的な状況、どうしようもない状況に立たされた時、人間はなぜか明るくなってしまうのかもしれない。これを空元気というのか、あきらめというのか。少なくともヒナはすでにこの世界になじみ始めていた。立ち上がったヒナは、すぐにしゃがみこんでしまう。いや、しゃがみこんでしまったのではなく、倒れこんでしまったといった方がいいだろう。ヒナは気づく。自身が満身創痍であることに。まるで、自分が生まれたてであるか、死んだばかりであるかのように、力が入らなかった。
「…どうしようかな…」
 ヒナは考える。すると、彼女の視界に赤い果実が目に入った。それは風の気まぐれか、彼女の目の前にぽとっと落ちてきた。ヒナは果実にとびつくと、毒がある可能性も考えず、むしゃむしゃと食べ始めた。毒があるか考えなかったのは、それが彼女が見たことのある形と色をしていたからである。そこで気づく。どうやらヒナは知識としての記憶はあるようだ。
「これはリンゴよね。甘くておいしい…。」
 不思議なこととはこのことを言うのか。リンゴを食べたヒナは見る見るうちに元気を取り戻し、立ち上がることができた。
「うん、もう大丈夫!じゃあ少し歩いてみようかな。」ヒナは森の中を歩き始めた。
 風と共に木々をかき分けて進む。ヒナの心に暖かい感情が沸き上がった。楽しいという感情である。
 しばらく歩き、ヒナはこの森が果てしなく広いことに気づいた。
「どこを見ても木しか見えない。遠くに出口とか見えないかな。」ヒナはなぜか外に出たいと強く願っていた。探求心の表れなのか、それとも隠れた使命感なのか、それを知る由はない。それでもヒナは歩き続けた。
 やがて、ヒナはこれまでに見えていた緑系の視界に灰色のものが現れ始めたことに気づく。人工の道だ。
「道路…?にしては狭いか。…どこかに続いてるのかな。」
 疑問と興味を持ちながら、ヒナはさらに歩く。すると、それがだんだんと、森の奥地に続いていることがわかる。いつの間にか彼女の頭の中では、この道路を追いかけることしか考えられなくなっていた。
 興味とは恐ろしいものだ。興味は興味を生む。そして生まれた興味はさらに興味を生む。人間の恐ろしいところはそこにあるのかもしれない。そう、底知れない好奇心だ。ヒナもまた例外ではなかった。
「…なあに、これ…」
 ヒナの目の前に広がるのは、古びた神殿だった。巨大な柱が崩れ、いくつか倒れている。しかし、その中心にある祭壇はまだその荘厳さを残していた。ヒナはふらふらと中心に向かって歩く。まるで、引き寄せられるように祭壇へと足を進め、やがて膝をついた。
 神殿の中心の階段を上った先にある小さな祭壇。その奥には、羽の生えた人間が空に何かを祈っている様子が石像になって表現されている。
 それが何なのか、ヒナはその知識を持たない。羽の生えた人間、自分とは違う人間。ヒナは石像が空に何かを祈る様子をじっと眺めた。
 頬を何かが伝い落ちる。ヒナの視界が不思議と曇っていく。雨ではなかった。
「あれ、なんで泣いてるの…?なんでこんなに悲しいの?…なんで…?」ヒナは理由のわからない涙に困惑するが、だんだんと悲しいという感情に支配されていった。ヒナは声を上げて泣く。祭壇の前で額を地につけて嗚咽した。まるで、石像が空に祈るように、ヒナは羽の生えた人間に何かを祈った。
 どれくらい泣き続けただろう。いつの間にかヒナは体力を涙に使い果たし、意識を失っていた。

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