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しかし、己に為せないとは思えない。何故かは判らないが、出来る予感が胸中に兆(きざ)していた。
蔵人も自然と無形の位に鞱を取る。朝の空気をゆっくりと肺に吸い込んでは吐き出す――そうしていると、清浄なものが身内に満ち満ちていくような気がした。己の体と外との境界が曖昧になっていく。
あるところを過ぎると、鬱蒼とした森を抜け出したかの如く視界が開けた心映えがした。
いつの間にか、文五郎と対峙する己を俯瞰していた……
両者の間に雀が二羽舞い降りて、地面をつつき始める。人がいるというのに、欠片も警戒している様子はない。
しばらくすると、雀は空へと飛び上がった。
刹那、文五郎と蔵人は同時に動く――袈裟斬り、足もとへの一撃と同じ軌道を描いて袋鞱が奔(はし)った。目まぐるしく一瞬も停滞することなく互いに斬撃を放つ。矢を至近距離で射掛けるような迅(はや)さの応酬だ。
だが、勝ちを求める気持ちも焦りも心にはない。ただ、澄んだ湖面の如き心境に蔵人はあった。
――数十合の斬り合いを経て、互いに後ろへと大きく退く。
……その頃には、蔵人は自分が何をしているのかさえ判らなくなっていた。ただ、『勝つ』という目的だけがある。
「蔵人ッ!」と透徹とした表情を解いた文五郎が怒鳴った。
「――ッ」
はっ、と蔵人は我に返る。夢から覚めたような心境だ。
「おどんは……」
どうしたと――? 茫然とした思いを抱く。
「長く西江水の境地にあると、魂が虚無に呑まれる。御主は、呑み込まれようとしていたのだ」
文五郎が厳しい表情で何が起こったのかを明かした。
「『虚無に呑まれる』?」
蔵人は本能的に寒気を感じながら兄弟子の言葉を繰り返す。
「人らしさとは何だと思う、蔵人?」
文五郎がやや遠い眼差しをして尋ねた。
蔵人も自然と無形の位に鞱を取る。朝の空気をゆっくりと肺に吸い込んでは吐き出す――そうしていると、清浄なものが身内に満ち満ちていくような気がした。己の体と外との境界が曖昧になっていく。
あるところを過ぎると、鬱蒼とした森を抜け出したかの如く視界が開けた心映えがした。
いつの間にか、文五郎と対峙する己を俯瞰していた……
両者の間に雀が二羽舞い降りて、地面をつつき始める。人がいるというのに、欠片も警戒している様子はない。
しばらくすると、雀は空へと飛び上がった。
刹那、文五郎と蔵人は同時に動く――袈裟斬り、足もとへの一撃と同じ軌道を描いて袋鞱が奔(はし)った。目まぐるしく一瞬も停滞することなく互いに斬撃を放つ。矢を至近距離で射掛けるような迅(はや)さの応酬だ。
だが、勝ちを求める気持ちも焦りも心にはない。ただ、澄んだ湖面の如き心境に蔵人はあった。
――数十合の斬り合いを経て、互いに後ろへと大きく退く。
……その頃には、蔵人は自分が何をしているのかさえ判らなくなっていた。ただ、『勝つ』という目的だけがある。
「蔵人ッ!」と透徹とした表情を解いた文五郎が怒鳴った。
「――ッ」
はっ、と蔵人は我に返る。夢から覚めたような心境だ。
「おどんは……」
どうしたと――? 茫然とした思いを抱く。
「長く西江水の境地にあると、魂が虚無に呑まれる。御主は、呑み込まれようとしていたのだ」
文五郎が厳しい表情で何が起こったのかを明かした。
「『虚無に呑まれる』?」
蔵人は本能的に寒気を感じながら兄弟子の言葉を繰り返す。
「人らしさとは何だと思う、蔵人?」
文五郎がやや遠い眼差しをして尋ねた。
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