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チャプタ―126
チャプタ―126
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天正四年(一五七八)、三月、大友家は日向に兵を進めた。
島津家は日向の南半分を掌握していたが、四月にはその境界線である耳川より北を大友軍は制圧し、九月には大友宗麟自身も日向に出陣した。軍兵の数は三万から四万にも及んだという。
大友軍と島津軍の衝突の舞台となったのは、高城川(耳川)だ。
この河川と切原川(きりばるがわ)が交わるあたりの台地上に高城(たかじょう)があり、両川に挟まれた要害だ。豊後街道とも接し、事実上の要衝だ。
守る城将は島津義久の信任篤い山田有信――兵の数は五〇〇に過ぎなかったが、城兵の士気は盛んだった。
一方、大友方では宗麟の意気とは逆に重臣の足並みが揃わず、十月二十日の攻囲開始以来、確たる成果をあげられずにいた。
――重臣たちの連携の不備には確固たる事由があった。
まず、敵が“島津軍”であることだ。剽悍で手強いことで名高く、宗麟の思うようにそう易々と打ち破れる相手ではない。
天正四年(一五七八)、三月、大友家は日向に兵を進めた。
島津家は日向の南半分を掌握していたが、四月にはその境界線である耳川より北を大友軍は制圧し、九月には大友宗麟自身も日向に出陣した。軍兵の数は三万から四万にも及んだという。
大友軍と島津軍の衝突の舞台となったのは、高城川(耳川)だ。
この河川と切原川(きりばるがわ)が交わるあたりの台地上に高城(たかじょう)があり、両川に挟まれた要害だ。豊後街道とも接し、事実上の要衝だ。
守る城将は島津義久の信任篤い山田有信――兵の数は五〇〇に過ぎなかったが、城兵の士気は盛んだった。
一方、大友方では宗麟の意気とは逆に重臣の足並みが揃わず、十月二十日の攻囲開始以来、確たる成果をあげられずにいた。
――重臣たちの連携の不備には確固たる事由があった。
まず、敵が“島津軍”であることだ。剽悍で手強いことで名高く、宗麟の思うようにそう易々と打ち破れる相手ではない。
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