忍び働き口入れ(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)

牛馬走

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 小平次は小ぶりだが一匹の黒鯛を手に浜辺へともどった。
 つる草で背に即席の木剣を背負い、手には手製の棒を削った槍を背負ったふんどし姿だ。仕込み杖は海に落ちてしまったときに失くしている。あれは父の遺した物で江戸へと持ってきた唯一の品だった――その事実が脳裏をよぎり、疼痛を胸におぼえた。
 が、いらぬ誤解を吟に与えるわけにはいかない。砂地に横になる吟のもとにたどりついたときには小平次は表情を取りつくろっていた。
「若い衆の裸はやっぱり乙なもんだねえ」「魚と同じ末路をたどりたいですか?」
 こちらを心配させないようにだろう、吟が軽口を叩く。黒鯛を取り外し、棒の尖った先端を彼女へと向けた。小平次の反応に吟は口もとをゆるめた。だが、熱に浮かされた表情はあきらかに具合が悪い者の顔つきだ。
「すぐに捌(さば)きます」
 そう告げて、吟の側に残していた短刀を手に取る。これで木剣も槍も作った。人里にもどったら研ぎに出さないとならない。ましてや、塩水に浸かっている。
 ただ、小平次自身は特に異変には見舞われてない。壮健なものだ。それだというのに、首筋や脇、二の腕に寒気がまとわりつく。寒さによるものではない悪寒だ。
 こんな何もないところで重い風邪を患ってしまったのだ、吟はもしかすると命を落とすかもしれない――その予感がふり払ってもふり払っても脳裏に浮かんでくる。あのずば抜けて優秀だった父が落魄したのだ、だったら仲間が命を落とす公算も無視できるものではない。
 けれど、現実に吟がこんなふうになるまで小平次はそのことに思い至らなかった。
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