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チャプタ―10

お犬様10

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 一日中上の空で過ごしあっという間に放課後になった。やはりぼんやりしながら家路についていると、道の曲がり角から巨大な影が姿を現わした。
 蛟、祐樹は背筋を寒くする。話はついたはずだが、さらに供物を求めようという算段だろうか。
「小僧、すまなんだな」
 へ、と祐樹は間の抜けた声を出した。
「思い出したのだが、昔、散々追いかけまわし脅かしたわっぱだな。あのときは我も幼かった、許してくれ。我らが見える珍しい子どもについつい興味を惹かれたのだ」
 許してくれるか、と真剣な声で問われ「否」とは答えられない。はい、と祐樹は答えた。
「詫びだ、なにか困ったことがあれば我の神社に来い。力を貸せる範囲で貸す」
 蛟の謝罪に、祐樹の価値観のひび割れがさらに大きくなる。

 帰宅した祐樹は、常盤と同じ部屋でじゃれてくる仔狛犬たちの相手をしていた。彼女の表情は楽しげでありながらも、子どもをみる保育士のように真面目さがにじむものだ。
「おまえさ、分祀の家なのにどうしてわざわざこんな面倒事にかかわるんだよ。それに、女子なんだからファッションとか色々と他に興味があることがあるだろ」
 ふいに疑問が祐樹の口からこぼれた。あぐらをかいて彼に仔狛犬が群がっているのがしまらないが真剣な問いかけだ。
 そんな祐樹を常盤がにらみつける。実は、帰宅した祐樹は足音を殺して自分の部屋に向かってゲームに興じようとしたのだ。だが、常盤が先回りしており目論見は潰えてしまった。その不満もあって先のせりふが口をついて出たのだ。
「あたしの家も犬神の貸し出しをおこなってる。でも、分祀だから一の宮のここほどの力を祭神は発揮できない。だから、願い事をかなえるときは必ず人が見守り犬神が誤った行動を取らないように見張らなければならない」
「なんだよ、さらに面倒だなそれ」
 祐樹のせりふに、常盤の視線が鋭さを増した。
「でも昔、子どもだったわたしは、体調を崩した父さんの代わりを投げ出して遊びに行ってしまった」
「そのあとは」
「願い事を叶える対象は、男の子だった。『車が欲しい』っていう願いだったから、父親が気紛れで玩具の車を買ってくる、そういうふうに持っていくのがベストな選択だった。でも、犬神はそれが理解できなくて子どもに文字通り、車を与えた。キーが刺さった路駐されている車のもとに子どもを導いた。そして、サイドブレーキを引いていなかった車は、視野の利かない子どもが踏んだアクセルで急発進、彼は大怪我を負った」
 聞いているだけでも、下の上に苦いものが広がる。
「だから、わたしはお役目から手は抜かない」
 常盤がこちらを“あんたとは違う”とでもいいたげな顔で見やった。
 そんなこと求められても――俺は別になにか過ちを犯したわけじゃあいない、と祐樹は「へえ」と相槌を打って視線をそらす。
 ただ、一晩経ってみると、さすがにこの務めを軽んじることに対し罪悪感がわいた。
 同じ歳の常盤があんな必死な思いでいると思うと、しょせんは他人事で済ませるのはむずかしい。
 しかたないから、とりあえずしばらくようすを見てみるか――その結論に祐樹は落ちついた。それが“常識”というものだろう。いきなりひとつの物事に全力投球する人間はそうそういない。
 とりあえず願意成就、の手伝いをすると朝食の席で祐樹は申し出た。
 両親のあわい笑みが鬱陶しかったがそれは無視する。
「ちょうどよかたわあ、男の子の意見の聞きたいところだったから」
 長女の早紀がのんびりした口調で応じた。
「うちの学校の男子が恋愛成就の祈願をしにやって来たの」
「ああ、それで俺の意見が聞きたいったのか」
 だが、同時に疑問でもあった。果たして自分の好みや嗜好といったものがその男子のことを知るのに役立つのだろうか。
「それで、作戦はもう考えてあるのか」
「それはね」と早紀がのほほんと答える。
 それを聞くうちに祐樹の顔は険しくなっていた。
「いや、そんなの成功しないだろ」
「いいえ、絶対に成功するわ」
 おっとりした人柄かと思ったが、想像に相違して頑固に主張を通してくる。
 すると、隣の席の常盤が囁いてきた。
「姉は一度言い出したら絶対に曲げない、そういうことがたまにあるんだ」
「なにも、それが今回でなくていいだろ」
 常盤のせりふに、祐樹はなげきの言葉をもらす。
「おまえはどう思ってんだよ」
 祐樹の問いかけに。常盤は小さく肩をすくめた。小憎たらしい仕草だ。
 その終末、日曜日に早紀の“作戦”は実行される。
 場所は市内だ。繁華街の一角で、待ち伏せているとくだんの男子が思いを寄せているという女子がやって来た。祐樹も知っている、清楚な雰囲気のある女子で学年の人気女子ランキングでも上位に入る子だ。そんな女子を他力本願でどうにかしようというしているのだから、人間はつくづく卑しいと裕樹は思う。願い事というのは努力の上でするものだし、身の丈にまったく合っていないものを叶えるものでもない。
 諸事はともかく件(くだん)の女子は今、自分の意思で出かけてきたと思っているがそうではない。仔狛犬にそんな気分にさせられているのだ。ただし、“そんな気分”というところが重要で当人にまったくその気がないと効果はない。
 それと、仔狛犬の監視して早紀がややはなれて後ろに付き添っている。もはや、やっていることは興信所に近い。
「とりあえず、こっちは成功か」
 祐樹はつぶやく。男子のほうは、仔狛犬に呼び出しの手紙を運ばせたから女子を招くよりもっと簡単だった。もっとも、仔狛犬が手紙をきちんと運ぶ不安ではあったが。さらに、彼には仔狛犬に“好戦的な気分”になるように呪(まじな)いをかけさせてある。こちらの仔狛犬は常盤が担当している。
 と、くだんの男子が女子に気づいた。呪いのお陰で積極的だ。
 やれやれ、ここまではいいとして――全体のフォローにまわる裕樹は以後の作戦内容が不安でならなかった。
「来たな」
 あさっての方向から、やや後ろに次女の美弥が張りついている強面の男が近づいてくる。
 そして、例の男子の近くで思い切り鋭い眼光を放った。これが同種の人間同士ならすぐに喧嘩が始まっているはずだ。
 ん、と裕樹は彼らから目線をそらす。なにか、人とは違う気配を感じた気がするのだ。細い路地に向かって動物の影が消えた。猫――なのか、疑問に思っているうちに男子のほうに進行があった。
 彼は瞬時に身をひるがえし逃げ出したのだ。その光景に、彼がものにしようとしていた女子が唖然とした表情を浮かべる。
 しかも、憂慮していた事態が起きた。男に半ば取り憑いている仔狛犬が男子が遊んでくれていると勘違いして追いかけだしたのだ。外見上とはえ大の大人が、満面の笑みを浮かべ全力疾走する姿は妖の姿に匹敵する不気味さがある。
「待て」裕樹と、早紀が全力で追うが。後者にはまったく体力がなくすぐに音をあげた。
「ゆう君、お願い」という言葉とともに後ろに遠ざかっていった。
「自分で言い出しておいて」裕樹は叫びながらも、必死になって手足を動かした。こっちは典型的な帰宅部だというのに。逃げる高校生、追いかける強面の男、それらを追いかける少年、なんとも滑稽な構図だった。多分、世の中にはそうそう存在しない光景だ。

● ● ●

 気に食わない、気に食わない、気に食わない――。
 彼はいちじるしく機嫌をそこねていた。百八匹この仔狛犬が生まれたのだ。そのなかには犬神になるものもいるだろうし、その眷属である狛犬となるものもいる。
 どちらにしろ、自分たちにとっては目障りだ。
 数では随分と自分たちも多い。
 だが、全国の神社の境内を守るあいつらには敵わない。それが悔しい。
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