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チャプタ―14

お犬様14

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 翌日、学校で裕樹は不機嫌な顔で朝のショートホームルームの時間に席についていた。姉の早紀には謝れたものの当人からは詫びの一言もなく、また元々怒りを抱いているのはおもに仔狛犬たちに対してのため一夜経っても腹の虫が鎮まらなかったのだ。
 突如、耳に息が吹き込まれた。思わず変な声が漏れる。視線を走らせると脇に、満面の笑みの遊がたたずんでいた。
「おまえ、朝からいい加減にしろよ」
「じゃあ、夜ならいいのか。さぞや雰囲気が出るだろうな」
「気色の悪いこというな」
「おれ、ゆうなら “いいん”だぜ」
 そっと、遊がこちらの片手を両手でつかんで持ち上げる。それを裕樹は全力で机に叩きつけた。
「くっ、やはり険しきは恋の道」
「お前がひた走るのはアホの道だろうが」
 朝から絶好調の友人に、裕樹は半眼にって彼をにらむ。
「いや、なんか機嫌悪いからここは俺が一肌脱いで機嫌を直してやろうと思ってな」
「なにが一肌だ、おまえは二肌も三肌も脱いで全裸だろうが」
「お望み通りにしてやろうか」
「誰が願望だといった」
 悔しいことにアホなやり取りをしているうちに、家で抱えた鬱屈とした思いが多少は散じるのを感じた。
「で、今度はなにを悩んでるのよ」
「い、犬の躾(しつけ)」
 まさか、仔狛犬の暴走ともいえず、とっさに思いついた狛犬に近い動物の名を口にした。
「そんなの簡単じゃね。躾の本を、図書館で借りるなり、本屋で買うなりすればいいだろ」
 いや、いくらなんでも犬の躾の本じゃ――と思いかけて、投げたボールを追いかける仔狛犬たちの姿を脳裏によみがえらせた。案外、うまくいくんじゃないか、そんな思いを抱いた。
 短い思案の末、
「ありがとうな、遊」
 と裕樹は友人に礼をのべた。
「ふっ、すべてをわかりあった仲じゃないか」
「おまえのその笑い方だと誤解をされるから止めろ」
 近くで女子がこちらを見て囁き合っているのを見て、裕樹は背筋に冷や汗が流れまたひとつ違う悩みが生まれた気配を感じた。
 そして、言われた通りに町内にあるショッピングセンター内の小さな本屋で買ってきた犬の躾の本の効果は絶大だった。
 躾にはふたつのタイプが存在する。動作のおすわり、おいで、待て、ついてこい、と禁止の噛み癖、飛びつき、悪戯といったものだ。
 裕樹もふくめてみな、なにかさせようとするのに叱っていたがそれが間違っていたことがわかった。
「一、おすわり」とふつうの掛け声で指示する。そして、手で仔狛犬の尻のあたりに当て、上からおすわりの体勢にする。それができたら一の頭を毛並みにそって軽く撫でて「よくやった、一」と褒める。このとき、実は一は抵抗していたのでテコの原理を使って半ば無理やりにこの姿勢に持っていっていた。さらに、すぐに立ち上がろうとするので腰に手を当ててすこしの間押さえつける。
「狛犬が犬と同じはずないじゃい」と疑問の目で見る常盤の視線が鬱陶しかったが、無策でいるよりはましだとしばらく裕樹は同じことをくり返した。
 すると、
「ウソでしょ」
 先に声をあげたのは常盤のほうだった。
 一が、手を当てられずともおすわりをしてそのままの体勢でいるのだ。
「早紀姉(ねえ)、美弥姉、来て」と彼女は隣の部屋で仔狛犬たちの相手をしている姉たちを呼んだ。とにかく仔狛犬の健全な成長には愛情を注ぐことが必要らしいから、放課後になれば部屋にこもることになる。
 襖を開けてふたりが顔を覗かせた。とたん、目を見開いた。
 一のやっていることを遊びと思った仔狛犬たちが十匹前後おすわりの体勢をとっているのだ。
「あら、すごいじゃない、どうやったの」
「この本に書いてある通りにしつけただけです」
 早紀のうれしげな声に、裕樹はすこしの誇らしさと手抜きをしたような後ろ暗さの入り混じった思いで応じた。
 あら、まあ、と彼女は声を立てて笑う。
「盲点だったわねえ。でも気づいたゆう君は偉いわ」「いえ」
 早紀の褒め言葉に裕樹は困惑する。なにしろ、本のことを教えてくれたのは友人の遊だ。まさか、この空気のなかでそれを言い出せるわけがない。
「気づけば誰だってできることだ」
「でも常盤、私たちは誰も気づかなかった。結果がすべてだ」
 不満げに反論しようとする妹に、美弥が情け容赦のない言葉をかけた。彼女は特に妖祓いのときがそうなのだが、寡黙だが苛烈な性格をしている。まるで自分がすべてを担っているような雰囲気を時折見せる。
 姉に否定された常盤は、八つ当たり気味に裕樹のほうを睨んだ。
 おいおい、なんでそこで俺が恨まれるんだよ――。

 ただ、仔狛犬たちの御し方がわかっても決して楽な道のりではなかった。
 なにしろ一〇八匹だ。お座りをすんなり数分ほどでしつけたとしても、一〇時間以上かかる。もちろん、教え込まなければならないのはおすわりだけではない。
 仔狛犬の癖にあわせての対処も求められた。
「ダメだ」犬の口を下顎から押さえ手前に引きつけ目を睨みつけてきつく叱る。これは噛み癖への対処だ。とにかくやりたい放題だったせいでかなりの仔狛犬がこの癖を持っていて辟易とさせられた。しかも暴れるのを止めたら優しく褒めなければならないのだ、祖父の件を巡って未だにわだかまりを狛犬たちに持っている祐樹には抵抗のある行為だった。
 さらに、飛びつきをおこなう仔狛犬も多かった。これは両手で突き放して叱ることで解消した。叱責したら一転して、また“優しい顔”の登場だ。この顔つきでよく言い聞かせろと本に書いてあった。
 もうひとつ、仔狛犬たちの代表的な困り癖は悪戯だ。とにかくなにか“物”があれば奪おうとする。これまでに、うっかりして財布、スマートフォンなどをダメにされていた。口にくわえたものを離させる場合には叱りながら取り出すのがいいらしい。書かれた通りに目を睨んで叱ると、確かに渋々といったようすで祐樹のMP3プレーヤーを返した。そのあとは本にしたがってゆっくり褒めた。

 とにかく地道な努力が数カ月つづいた。
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