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前編
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夜明け前。蒼く霞む水平線の向こうには、敵の艦隊が進行している。風が強く吹き荒れ、甲板上の乗員たちが次々と出撃準備を進めていた。九条湊は藍色の将校服を纏い、環境下に立って息をついた。今日、この鑑に就任以来初めての作戦実行を迎えようとしていた。
敵の接近を知らせる無線が入る。双眼鏡の向こうには、まだ暗い空一面に、黒点のように広がる敵影。九条は無線を握り、艦橋から広がるその影を睨みつけた。
「各機、出撃せよ!」
九条の声を合図に、次々と甲板から艦載機が飛び立っていく。轟音を立てて飛び去る零戦の群を見つめながら、大きく息をついた。
「敵編隊、視認!距離、およそ二〇!」
「敵機の数、三〇機以上!」
すかさず、無線が騒がしくなる。九条はレーダーと戦術マップに目を落とし、素早く目を走らせた。敵機の動きから、最適な迎撃ポイントを即座に判断する。それが航空隊指揮官・九条湊に任された仕事である。
「隊列を維持し、迎撃地点に誘導する。各機、敵機との交戦を避け、指定のポイントへ誘導しろ」
「応!」
だが無線越しに返事が返る中で、一人だけ沈黙している者がいた。九条は眉をひそめ、すぐにその名前を呼ぶ。
「成瀬中尉、応答しろ」
更に寸刻の沈黙の後、成瀬の無線から、戦闘中にしてはあまりに落ち着き払った声が届いた。
「……大尉、すみませんが、これじゃダメです」
「何?」
「このままだと、迎撃地点に着く前に囲まれます」
「……貴様、命令に反するつもりか」
「しかし、このままでは皆墜とされます」
その言葉を最後に、成瀬の機体が編隊から大きく逸れた。そしてさらに速度を上げたと思えば、単独で敵編隊のど真ん中に突っ込んでいった。
「成瀬、戻れ!隊列を維持しろ!」
九条は無線に向かって、唾が飛び散るほどに大きく叫んだ。だが成瀬は意に介さず、敵機の群れへと真っ直ぐ飛び込んでいった。成瀬の機体が急降下する。高度差を一気に利用し、敵編隊の裏をかいた。
「っ……!」
その様子を見つめながら、九条は奥歯を噛みしめた。あまりにも無謀だ。見ていられない。
「敵機、撃墜!」
だが次の瞬間にそう叫んだのは、成瀬機からの無線であった。成瀬の奇襲により敵の隊列が崩れ、迎撃の隙が生まれたのだ。
九条はその声に目を見張った。怒りとは似て非なる何かで、体がわなわなと震える。だがすかさず我に返り、指示を飛ばす。
「全機、攻撃開始!」
隊は成瀬の機体を筆頭に、隊列を維持しながらも混乱した敵機を確実に仕留めるように動いていく。やがて戦況はこちらに傾き始めた。
「敵機、残存機十以下!」
「撤退を開始しました!」
勝利を伝える無線が届き始める。だが、九条はすぐには安堵しなかった。成瀬の機体が、まだ敵の背後に張りついていたからだ。
「成瀬、戻れ!追撃は不要だ!」
「いや、もう一機いけます」
「成瀬!」
九条の怒声と同時に、成瀬の機体が急旋回し、最後の敵機を撃墜した。だが、敵機を落とす瞬間、成瀬の機体の主翼を銃弾が掠めた。成瀬の機体が一瞬ふらつく。
「あの馬鹿が……っ!」
九条は指示を諦め、ただ拳を震わせながらその様子を眺めていた。
「――以上が、今回の戦闘の報告だ」
作戦終了後の会議室。九条は淡々とした声で話し、黒板に貼られた戦闘マップを指した。
「敵編隊の撃墜数は二〇機。残存は撤退し、こちらに損失はなし」
室内には、各中隊のパイロットたちが整列していた。整備士や情報士官も同席し戦闘データを分析する、作戦後ブリーフィング。結果だけ見れば、今回の戦果は文句なしの金星だった。
「だが、問題点もある」
そう言って九条は素早く成瀬の方を見やった。視線がぶつかる。相変わらずの余裕綽々といった表情に、思わず力がこもる。
「成瀬中尉。貴様の機転は認めるが、最後の追撃はどう考えても不要だったな」
「はっ。それでも無事、帰還いたしました」
成瀬はそう言って仰々しく敬礼した。そのわざとらしい態度に、九条は思わず拳を握りしめた。
「主翼を破損しただろう」
「こちらは主翼のわずかな破損、対して相手は一機丸々失っています。戦果としては十分かと」
「だとしても、隊を率いる立場の貴様が好き勝手していい理由にはならん」
九条の語気が静かに荒くなり、室内の空気が緊張を帯びた。視線の端で、誰かが帽子を直すのが見えた。俯くような気配が連鎖し、眉や口角を動かす者もいた。その反応の一つ一つが、かえって九条の苛立ちを煽った。だがその中でただ一人、成瀬だけが微動だにせず、真っ直ぐな眼差しで九条を見つめ返していた。九条は震える拳を握りしめ、低い声で呟いた。
「貴様……死にたいのか?」
九条のその言葉に、成瀬の表情がわずかに変わった。
「いえ。生き残るためにやったことです」
「あの追撃がそんな訳ないだろう!」
思ったよりも何倍も大きく響いた声に、自分でも内心驚いた。指揮官として、感情を露わにすべきではない。それは理解しているはずだった。だがこの男だけは、どうしても許せなかった。
命令を無視し、それでも涼しい顔で帰還して、悪びれることも怖気付くこともなく、真っ直ぐにこちらを見つめている。胸の奥で、言葉にならない感情が蠢いた。怒りと、焦りと、苛立ちと――もう一つ、名のつけられない何か。
九条はついにその視線に耐えられず、ふっと目を逸らして拳を握りしめた。負けた気がして、涙が出そうな程に悔しかった。
「……今後またこのようなことがあれば、ペナルティを与える。解散」
九条が俯いたまま短く告げると、ざわめきながら人々が散り始める。その中で一人、部屋を出ずに椅子に座り込む成瀬の姿を認めた。その様子を横目にため息をつきながら、九条も会議室を後にした。
ーー全く、これだから叩き上げの特務士官はーー。
怒りは収まらず、艦内の廊下を歩きながら九条は内心そう悪態をついた。
名家の出で兵学校を首席で卒業した九条とは対照的に、成瀬は予科練を出て前線での戦功によって特務士官として任官された、いわば現場叩き上げの男である。戦果は確かでも、規律や組織というものを軽んじるその振る舞いは、指揮官としては厄介以外の何ものでもない。この予測不可能な駒をどう扱えばいいのか、九条にはまだ分からなかった。
敵の接近を知らせる無線が入る。双眼鏡の向こうには、まだ暗い空一面に、黒点のように広がる敵影。九条は無線を握り、艦橋から広がるその影を睨みつけた。
「各機、出撃せよ!」
九条の声を合図に、次々と甲板から艦載機が飛び立っていく。轟音を立てて飛び去る零戦の群を見つめながら、大きく息をついた。
「敵編隊、視認!距離、およそ二〇!」
「敵機の数、三〇機以上!」
すかさず、無線が騒がしくなる。九条はレーダーと戦術マップに目を落とし、素早く目を走らせた。敵機の動きから、最適な迎撃ポイントを即座に判断する。それが航空隊指揮官・九条湊に任された仕事である。
「隊列を維持し、迎撃地点に誘導する。各機、敵機との交戦を避け、指定のポイントへ誘導しろ」
「応!」
だが無線越しに返事が返る中で、一人だけ沈黙している者がいた。九条は眉をひそめ、すぐにその名前を呼ぶ。
「成瀬中尉、応答しろ」
更に寸刻の沈黙の後、成瀬の無線から、戦闘中にしてはあまりに落ち着き払った声が届いた。
「……大尉、すみませんが、これじゃダメです」
「何?」
「このままだと、迎撃地点に着く前に囲まれます」
「……貴様、命令に反するつもりか」
「しかし、このままでは皆墜とされます」
その言葉を最後に、成瀬の機体が編隊から大きく逸れた。そしてさらに速度を上げたと思えば、単独で敵編隊のど真ん中に突っ込んでいった。
「成瀬、戻れ!隊列を維持しろ!」
九条は無線に向かって、唾が飛び散るほどに大きく叫んだ。だが成瀬は意に介さず、敵機の群れへと真っ直ぐ飛び込んでいった。成瀬の機体が急降下する。高度差を一気に利用し、敵編隊の裏をかいた。
「っ……!」
その様子を見つめながら、九条は奥歯を噛みしめた。あまりにも無謀だ。見ていられない。
「敵機、撃墜!」
だが次の瞬間にそう叫んだのは、成瀬機からの無線であった。成瀬の奇襲により敵の隊列が崩れ、迎撃の隙が生まれたのだ。
九条はその声に目を見張った。怒りとは似て非なる何かで、体がわなわなと震える。だがすかさず我に返り、指示を飛ばす。
「全機、攻撃開始!」
隊は成瀬の機体を筆頭に、隊列を維持しながらも混乱した敵機を確実に仕留めるように動いていく。やがて戦況はこちらに傾き始めた。
「敵機、残存機十以下!」
「撤退を開始しました!」
勝利を伝える無線が届き始める。だが、九条はすぐには安堵しなかった。成瀬の機体が、まだ敵の背後に張りついていたからだ。
「成瀬、戻れ!追撃は不要だ!」
「いや、もう一機いけます」
「成瀬!」
九条の怒声と同時に、成瀬の機体が急旋回し、最後の敵機を撃墜した。だが、敵機を落とす瞬間、成瀬の機体の主翼を銃弾が掠めた。成瀬の機体が一瞬ふらつく。
「あの馬鹿が……っ!」
九条は指示を諦め、ただ拳を震わせながらその様子を眺めていた。
「――以上が、今回の戦闘の報告だ」
作戦終了後の会議室。九条は淡々とした声で話し、黒板に貼られた戦闘マップを指した。
「敵編隊の撃墜数は二〇機。残存は撤退し、こちらに損失はなし」
室内には、各中隊のパイロットたちが整列していた。整備士や情報士官も同席し戦闘データを分析する、作戦後ブリーフィング。結果だけ見れば、今回の戦果は文句なしの金星だった。
「だが、問題点もある」
そう言って九条は素早く成瀬の方を見やった。視線がぶつかる。相変わらずの余裕綽々といった表情に、思わず力がこもる。
「成瀬中尉。貴様の機転は認めるが、最後の追撃はどう考えても不要だったな」
「はっ。それでも無事、帰還いたしました」
成瀬はそう言って仰々しく敬礼した。そのわざとらしい態度に、九条は思わず拳を握りしめた。
「主翼を破損しただろう」
「こちらは主翼のわずかな破損、対して相手は一機丸々失っています。戦果としては十分かと」
「だとしても、隊を率いる立場の貴様が好き勝手していい理由にはならん」
九条の語気が静かに荒くなり、室内の空気が緊張を帯びた。視線の端で、誰かが帽子を直すのが見えた。俯くような気配が連鎖し、眉や口角を動かす者もいた。その反応の一つ一つが、かえって九条の苛立ちを煽った。だがその中でただ一人、成瀬だけが微動だにせず、真っ直ぐな眼差しで九条を見つめ返していた。九条は震える拳を握りしめ、低い声で呟いた。
「貴様……死にたいのか?」
九条のその言葉に、成瀬の表情がわずかに変わった。
「いえ。生き残るためにやったことです」
「あの追撃がそんな訳ないだろう!」
思ったよりも何倍も大きく響いた声に、自分でも内心驚いた。指揮官として、感情を露わにすべきではない。それは理解しているはずだった。だがこの男だけは、どうしても許せなかった。
命令を無視し、それでも涼しい顔で帰還して、悪びれることも怖気付くこともなく、真っ直ぐにこちらを見つめている。胸の奥で、言葉にならない感情が蠢いた。怒りと、焦りと、苛立ちと――もう一つ、名のつけられない何か。
九条はついにその視線に耐えられず、ふっと目を逸らして拳を握りしめた。負けた気がして、涙が出そうな程に悔しかった。
「……今後またこのようなことがあれば、ペナルティを与える。解散」
九条が俯いたまま短く告げると、ざわめきながら人々が散り始める。その中で一人、部屋を出ずに椅子に座り込む成瀬の姿を認めた。その様子を横目にため息をつきながら、九条も会議室を後にした。
ーー全く、これだから叩き上げの特務士官はーー。
怒りは収まらず、艦内の廊下を歩きながら九条は内心そう悪態をついた。
名家の出で兵学校を首席で卒業した九条とは対照的に、成瀬は予科練を出て前線での戦功によって特務士官として任官された、いわば現場叩き上げの男である。戦果は確かでも、規律や組織というものを軽んじるその振る舞いは、指揮官としては厄介以外の何ものでもない。この予測不可能な駒をどう扱えばいいのか、九条にはまだ分からなかった。
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