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前編
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そんなことを考えながら廊下を歩いていたとき、不意に報告書の綴じミスを思い出した。封じ直すには、会議室に隣接する執務室まで戻らなければ。先程椅子に座り込んだところを見ると、もしかしたらまだ奴がいるかもしれないが。
「……仕方ない」
九条は小さくひと息つき、踵を返した。いたらもう一言くらい文句を言ってやろうと思っていた。会議室に着くと、案の定少し開いた扉から成瀬の姿が見えた。しかも口には葉巻タバコを咥えている。艦の規定で、喫煙所外での喫煙は固く禁じられているはずだ。叱り飛ばしてやろうと思い扉に手をかけたその時、死角から聞き慣れない若い声が漏れ聞こえた。思わず、扉にかけた手が止まる。
「……成瀬中尉!俺、また守られちゃった気がします」
声の主は、どうやら成瀬と同じく第一中隊に属する伊吹航少尉のようであった。てっきり成瀬一人だと思っていたので、九条は思わず扉の影に身を隠した。
「俺は成瀬さんのやり方、間違ってるとは思いません!兵学校出身の人たちには、現場の動きなんてわからないですよ」
陰口とも取れるその言葉に、九条は眉を寄せた。
この伊吹という男は、確かまだ二十そこそこの若手で、数ヶ月前に戦果を挙げてこの部隊に配属されたばかりだという少尉である。成瀬と同じく予科練の出身で、言葉遣いや態度にも多少の粗さが見られるが、操縦技術には光るものがあると聞いていた。訓練の様子から察するに、成瀬も伊吹を目にかけているようであったが、なるほど伊吹も随分と懐いているようだ。
九条は黙って踵を返そうとした。正規士官と特務士官の溝は深い。くだらない陰口などを聞いて、また無駄な怒りを燃え上がらせたくはなかった。
だが、それに続いた成瀬の低い声に、思わず足を止める。
「……伊吹、お前は九条大尉のこと、どう思ってる?」
予想外の問いに、二人の会話がしばし止まる。九条は思わず聞き耳を立てた。伊吹の返答はない。当然だろうと思った。訓練を共にしているとはいえ、まだ初対面から一週間だ。どう思っているという程ものものないだろう。
「じゃあ、質問を変える。お前は俺のように飛べるか?」
「……いいえ」
その質問には、伊吹は比較的早く回答した。その返答に、九条はわずかに息をついた。まるで試験の答案を読むような、変な感覚だった。こんな覗き見のようなことはやめて早く去るべきだと分かっていたが、なぜか足が動き出してくれなかった。
だが次に聞こえた言葉に、九条は今度こそ固まってしまった。
「いいか、伊吹。隊というのは基本的に、九条大尉みたいな指揮官がいるから成り立っているんだ。俺みたいなのが好き勝手やってお前らが生還できるのも、優秀な指揮官がいるからだ」
大きくはっきりとした声。あのふざけた態度の裏に、こんな冷静な自己認識があったとは。驚きと戸惑いが胸に同時に灯ったせいで、一瞬脈が乱れた。声を荒らげてしまった直後だったからだろうか。息を整えるふりをして、襟元に手をやる。
「……だから、俺がいなくなった時には九条太尉の言うことを聞いて、堅実に戦うんだぞ」
九条は思わず視線を床に落とした。静かな廊下に、やや速くなった心音が漏れているような気がして落ち着かない。
「成瀬さんがそんなことを考えていたなんて、意外でした」
「ま、だからといって、俺が大人しくなるわけじゃないけどな」
成瀬の軽口に、笑い声が混じる。その言葉に、伊吹も笑ったようだった。
九条はやっとの思いで歩き出そうと足を動かした。だがその瞬間、最後の最後に視線を感じてしまった。恐らくこちらを見たわけではない。だがその視線の向き、微かな動作の変化で、自分の存在に気づかれたのだと悟る。視界の端で成瀬が煙草を唇から外し、ポケットへと押し込んだ。どうやら火はまだついていなかったようだ。九条は素早く身を翻し、再び歩き出した。まだ脈が速い。まさか、成瀬の口から自分の講評が聞けるとは思ってもいなかった。しかも、あれほど素直な口ぶりで。
ーーしかしだからといって、命令を無視していい理由にはならん。
そう自分に言い聞かせるように、九条は小さく息を吐いた。
「……仕方ない」
九条は小さくひと息つき、踵を返した。いたらもう一言くらい文句を言ってやろうと思っていた。会議室に着くと、案の定少し開いた扉から成瀬の姿が見えた。しかも口には葉巻タバコを咥えている。艦の規定で、喫煙所外での喫煙は固く禁じられているはずだ。叱り飛ばしてやろうと思い扉に手をかけたその時、死角から聞き慣れない若い声が漏れ聞こえた。思わず、扉にかけた手が止まる。
「……成瀬中尉!俺、また守られちゃった気がします」
声の主は、どうやら成瀬と同じく第一中隊に属する伊吹航少尉のようであった。てっきり成瀬一人だと思っていたので、九条は思わず扉の影に身を隠した。
「俺は成瀬さんのやり方、間違ってるとは思いません!兵学校出身の人たちには、現場の動きなんてわからないですよ」
陰口とも取れるその言葉に、九条は眉を寄せた。
この伊吹という男は、確かまだ二十そこそこの若手で、数ヶ月前に戦果を挙げてこの部隊に配属されたばかりだという少尉である。成瀬と同じく予科練の出身で、言葉遣いや態度にも多少の粗さが見られるが、操縦技術には光るものがあると聞いていた。訓練の様子から察するに、成瀬も伊吹を目にかけているようであったが、なるほど伊吹も随分と懐いているようだ。
九条は黙って踵を返そうとした。正規士官と特務士官の溝は深い。くだらない陰口などを聞いて、また無駄な怒りを燃え上がらせたくはなかった。
だが、それに続いた成瀬の低い声に、思わず足を止める。
「……伊吹、お前は九条大尉のこと、どう思ってる?」
予想外の問いに、二人の会話がしばし止まる。九条は思わず聞き耳を立てた。伊吹の返答はない。当然だろうと思った。訓練を共にしているとはいえ、まだ初対面から一週間だ。どう思っているという程ものものないだろう。
「じゃあ、質問を変える。お前は俺のように飛べるか?」
「……いいえ」
その質問には、伊吹は比較的早く回答した。その返答に、九条はわずかに息をついた。まるで試験の答案を読むような、変な感覚だった。こんな覗き見のようなことはやめて早く去るべきだと分かっていたが、なぜか足が動き出してくれなかった。
だが次に聞こえた言葉に、九条は今度こそ固まってしまった。
「いいか、伊吹。隊というのは基本的に、九条大尉みたいな指揮官がいるから成り立っているんだ。俺みたいなのが好き勝手やってお前らが生還できるのも、優秀な指揮官がいるからだ」
大きくはっきりとした声。あのふざけた態度の裏に、こんな冷静な自己認識があったとは。驚きと戸惑いが胸に同時に灯ったせいで、一瞬脈が乱れた。声を荒らげてしまった直後だったからだろうか。息を整えるふりをして、襟元に手をやる。
「……だから、俺がいなくなった時には九条太尉の言うことを聞いて、堅実に戦うんだぞ」
九条は思わず視線を床に落とした。静かな廊下に、やや速くなった心音が漏れているような気がして落ち着かない。
「成瀬さんがそんなことを考えていたなんて、意外でした」
「ま、だからといって、俺が大人しくなるわけじゃないけどな」
成瀬の軽口に、笑い声が混じる。その言葉に、伊吹も笑ったようだった。
九条はやっとの思いで歩き出そうと足を動かした。だがその瞬間、最後の最後に視線を感じてしまった。恐らくこちらを見たわけではない。だがその視線の向き、微かな動作の変化で、自分の存在に気づかれたのだと悟る。視界の端で成瀬が煙草を唇から外し、ポケットへと押し込んだ。どうやら火はまだついていなかったようだ。九条は素早く身を翻し、再び歩き出した。まだ脈が速い。まさか、成瀬の口から自分の講評が聞けるとは思ってもいなかった。しかも、あれほど素直な口ぶりで。
ーーしかしだからといって、命令を無視していい理由にはならん。
そう自分に言い聞かせるように、九条は小さく息を吐いた。
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