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前編
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そのまま艦内を歩くうち、食堂の匂いが鼻をかすめた。腕時計に目をやると、ちょうど食事の時間帯のようだ。空腹を覚えていたわけではなかったが、何かを口にした方が思考の整理になる気がして、そのまま足を向けた。
扉を押し開けると、すでに何人かの士官が席に着いていた。カウンターで食事を受け取り、空いた一角にトレイを持って腰を下ろす。手を合わせたその時、頭上から低い声が降ってきた。
「これは噂の九条大尉殿」
低く落ち着いた声に顔を向けると、そこに立っていたのは佐伯洋介であった。
「……お前か」
江田島の海軍兵学校の同期で階級も大尉と同格のこの男だが、現在は九条の指揮下である第二中隊の隊長を務めている。兵学校を卒業してから同じ部隊で訓練をし、それから数年間配属を離れていたが、今回の赴任が決まってからまた何かと世話を焼いてくれている男だ。
「今日の戦闘、もう凄い噂になってるぞ。例の中尉、撃墜王の伝説に新しい一章を加えたって。で、上官がブリーフィングでブチ切れたと」
佐伯は九条の隣に腰を下ろすと、面白がるような口調で言った。整った顔立ちに理知的な眼鏡、どこか人を見透かすような視線は、兵学校時代から変わっていないようだ。
「……誰だ、そんなことを言っている奴は」
「皆、そこら中で言っている。お前は赴任してきたばかりだから知らんだろうが、成瀬は第一中隊の連中の中ではもともと伝説級だからな。英雄様が上官に叱責されるなんて、格好の話題だ」
ニヤニヤと笑う佐伯を横目に、九条はスプーンを手にしたまま小さく息を吐いた。狭い艦内は、噂が回るのがあまりにも早い。
「珍しいじゃないか、お前があんなに声を荒らげるとは」
「黙れ、何が英雄だ。独断専行、規律無視。あんなのを英雄視するようでは、隊全体の規律が乱れる」
その言葉に、佐伯が声を上げて笑う。
「何が面白い」
「すまん、お前が悩んでいるのが珍しくてな」
悩んでいるつもりなどなかったので、九条はその言葉にさらに腹を立てた。
「だけど、奴のおかげで隊は助かったんだろう?」
変わらぬ調子で続いたその言葉に、九条は再び息をついた。そうだ。まさにそれが、大きな問題なのだ。
「……その通りだ。奴の存在は、戦術の枠そのものを崩しかねない」
「でも結果は出してる。戦果は揺るがない。となれば、上層部は黙認するさ。結果を出す者には甘いのが、この組織だ」
そう言って佐伯はフォークを皿に落とした。九条はその横顔を横目に見ながら、黙ってスープを口に運ぶ。確かに、佐伯の言う通りだった。どれだけ破天荒な動きでも、その戦果は海軍全体の中でも圧倒的だった。
「……だが、やはり組織は統率で成り立つべきだ。成瀬がいくら優秀だろうが、たった一人の英雄に引っ張られて成り立つものは脆い」
そう言うと、佐伯は肩を竦めた。
「なら、使いこなせるように努力するんだな。隊長の英雄様とぶつかってばかりだと、隊そのものから見放されるぞ。これまでの指揮官のようにな」
軽口とも忠告ともつかない調子に、九条は眉をひそめた。言われなくとも分かっている。今回任されたこのポジションが短期間で何度も変わっている理由は、もうなんとなく検討がついていた。
「……俺には、何が求められているんだろうな」
思わず弱音じみたことを言ってしまったことを、すぐに後悔する。佐伯は何も聞こえてないとでも言うように、スープを口に運び続けている。いつもの軽口が返ってこなかったのが余計に居心地悪い。
合理的に判断し、冷静に指揮を執る。それが正解で、それしかないと思っていた。
けれど――この艦では、それが通じないのではないか。ほんの僅かだが、そんな予感が胸の奥に張りついて剥がれない。指揮官が迷っていては隊が揺らぐ。合理さと冷徹さが自分の武器だったはずなのに、それが通じないとしたら、自分に何が残るのだろう。
しばらくの沈黙ののち、佐伯が口を開いた。
「まあ、成瀬だって一人の人間だ。怒鳴りつけるだけじゃ、犬だって言うこと聞かんだろ。使いこなせれば、あんなにいいものもないと思うがな」
「話したところで、分かり合えるかーー」
言いかけて、ふと、つい先程聞いてしまったやりとりを思い出した。それと一緒に動揺まで思い出しかけたので、慌ててスープの最後の一口を口に運んだ。
ーーまあ、馬鹿で破天荒な男だが、少しは分かっているところもあるようだった。もしあの会話が本音なら、自分も少しは歩み寄る姿勢を見せるべきなのではないか。
「……まあ、検討しよう」
そう言うと、佐伯はなんとも意外そうに目を見開いた。
「九条の坊っちゃんが、今日はやけに素直だな」
「黙れ。俺はいつだって合理的なだけだ」
そう言うと、佐伯は眩しそうに目を細めた。笑っているようにも、牽制しているようにも見える。
「お前は今まで来た指揮官の中でも一番若い。成瀬と二つも離れてないだろう。期待されてるってことだ」
九条はそれには何も返さず、席を立った。尚もニヤニヤと九条を見上げる佐伯の頭を、トレーの角で一つ小突く。その後で、視線が自然と食堂を見回した。成瀬の姿はない。それを確認して、ほんの僅かに息をついた。姿が見えないことに、安堵したのか、それとも落胆したのか、自分でもよく分からなかった。
扉を押し開けると、すでに何人かの士官が席に着いていた。カウンターで食事を受け取り、空いた一角にトレイを持って腰を下ろす。手を合わせたその時、頭上から低い声が降ってきた。
「これは噂の九条大尉殿」
低く落ち着いた声に顔を向けると、そこに立っていたのは佐伯洋介であった。
「……お前か」
江田島の海軍兵学校の同期で階級も大尉と同格のこの男だが、現在は九条の指揮下である第二中隊の隊長を務めている。兵学校を卒業してから同じ部隊で訓練をし、それから数年間配属を離れていたが、今回の赴任が決まってからまた何かと世話を焼いてくれている男だ。
「今日の戦闘、もう凄い噂になってるぞ。例の中尉、撃墜王の伝説に新しい一章を加えたって。で、上官がブリーフィングでブチ切れたと」
佐伯は九条の隣に腰を下ろすと、面白がるような口調で言った。整った顔立ちに理知的な眼鏡、どこか人を見透かすような視線は、兵学校時代から変わっていないようだ。
「……誰だ、そんなことを言っている奴は」
「皆、そこら中で言っている。お前は赴任してきたばかりだから知らんだろうが、成瀬は第一中隊の連中の中ではもともと伝説級だからな。英雄様が上官に叱責されるなんて、格好の話題だ」
ニヤニヤと笑う佐伯を横目に、九条はスプーンを手にしたまま小さく息を吐いた。狭い艦内は、噂が回るのがあまりにも早い。
「珍しいじゃないか、お前があんなに声を荒らげるとは」
「黙れ、何が英雄だ。独断専行、規律無視。あんなのを英雄視するようでは、隊全体の規律が乱れる」
その言葉に、佐伯が声を上げて笑う。
「何が面白い」
「すまん、お前が悩んでいるのが珍しくてな」
悩んでいるつもりなどなかったので、九条はその言葉にさらに腹を立てた。
「だけど、奴のおかげで隊は助かったんだろう?」
変わらぬ調子で続いたその言葉に、九条は再び息をついた。そうだ。まさにそれが、大きな問題なのだ。
「……その通りだ。奴の存在は、戦術の枠そのものを崩しかねない」
「でも結果は出してる。戦果は揺るがない。となれば、上層部は黙認するさ。結果を出す者には甘いのが、この組織だ」
そう言って佐伯はフォークを皿に落とした。九条はその横顔を横目に見ながら、黙ってスープを口に運ぶ。確かに、佐伯の言う通りだった。どれだけ破天荒な動きでも、その戦果は海軍全体の中でも圧倒的だった。
「……だが、やはり組織は統率で成り立つべきだ。成瀬がいくら優秀だろうが、たった一人の英雄に引っ張られて成り立つものは脆い」
そう言うと、佐伯は肩を竦めた。
「なら、使いこなせるように努力するんだな。隊長の英雄様とぶつかってばかりだと、隊そのものから見放されるぞ。これまでの指揮官のようにな」
軽口とも忠告ともつかない調子に、九条は眉をひそめた。言われなくとも分かっている。今回任されたこのポジションが短期間で何度も変わっている理由は、もうなんとなく検討がついていた。
「……俺には、何が求められているんだろうな」
思わず弱音じみたことを言ってしまったことを、すぐに後悔する。佐伯は何も聞こえてないとでも言うように、スープを口に運び続けている。いつもの軽口が返ってこなかったのが余計に居心地悪い。
合理的に判断し、冷静に指揮を執る。それが正解で、それしかないと思っていた。
けれど――この艦では、それが通じないのではないか。ほんの僅かだが、そんな予感が胸の奥に張りついて剥がれない。指揮官が迷っていては隊が揺らぐ。合理さと冷徹さが自分の武器だったはずなのに、それが通じないとしたら、自分に何が残るのだろう。
しばらくの沈黙ののち、佐伯が口を開いた。
「まあ、成瀬だって一人の人間だ。怒鳴りつけるだけじゃ、犬だって言うこと聞かんだろ。使いこなせれば、あんなにいいものもないと思うがな」
「話したところで、分かり合えるかーー」
言いかけて、ふと、つい先程聞いてしまったやりとりを思い出した。それと一緒に動揺まで思い出しかけたので、慌ててスープの最後の一口を口に運んだ。
ーーまあ、馬鹿で破天荒な男だが、少しは分かっているところもあるようだった。もしあの会話が本音なら、自分も少しは歩み寄る姿勢を見せるべきなのではないか。
「……まあ、検討しよう」
そう言うと、佐伯はなんとも意外そうに目を見開いた。
「九条の坊っちゃんが、今日はやけに素直だな」
「黙れ。俺はいつだって合理的なだけだ」
そう言うと、佐伯は眩しそうに目を細めた。笑っているようにも、牽制しているようにも見える。
「お前は今まで来た指揮官の中でも一番若い。成瀬と二つも離れてないだろう。期待されてるってことだ」
九条はそれには何も返さず、席を立った。尚もニヤニヤと九条を見上げる佐伯の頭を、トレーの角で一つ小突く。その後で、視線が自然と食堂を見回した。成瀬の姿はない。それを確認して、ほんの僅かに息をついた。姿が見えないことに、安堵したのか、それとも落胆したのか、自分でもよく分からなかった。
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