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前編
第五話
しおりを挟むアーサーの手は頬を滑って、瞬きする間もなく第一ボタンを目指した。丁寧に剥がされていくそれを直視出来ずに、慌てて目を逸らした。
それに気づいたのか、アーサーは反対の手で器用に枕元のボタンを操作して電気を暗くした。その瞬間、雰囲気がなにかもっと確実なものになった気がして、余計に絶望的な気分になった。
それでもその熱を持った指が素肌に迫ってくる度、自然と呼吸が浅く、荒くなるのが止められない。
「キスするか?」
その声に、思わず顔を上げる。至近距離で見るアーサーは非常に心臓に悪かった。暗い部屋で影を落とす唇の窪みがやけに官能的に見えて、すぐに首を振った。「必要最低限の接触」に、どうしてそんなことな必要だろうか。
「して欲しくなったら、言えよ」
アーサーが唇の端をわずかに上げる。口が裂けても言うものかと思った。
「……あ……」
ついに胸元が完全に開かれ、アーサーの手が地肌に触れたとき、それだけで喉の奥からうめき声が抑えられなかった。思わず手の甲で口を覆うと、すくい上げるようにその手を取られた。
「我慢しなくていい。ここは完全防音だ」
アーサーの淡々とした声が腹立たしかった。そういう問題ではない。アルファの手によって自分から出る、そんな声が許せないだけで。
「う……っ、はぁ、」
それでも彼の指が胸の突起をなぞり始めると、もうそうもいかなかった。いくら声を噛み殺しても、手で押さえつけても、喉や指の間をすり抜けて止まらなかった。これまで丁寧に積み上げてきた何かをこのたった一つの手で崩されていくような、そんな恐怖が喉元を這い上がる。
それでも体に触れてくる指先は正確すぎて、まるで脈の位置も反射の強さも、すべて計算されているみたいだった。不覚にも、触られてもない腰が揺れる。頭がだんだん真っ白になって、形のはっきりしない熱だけがふわふわと宙を彷徨う。
「……はぁっ、それもう、いい……っ、です、制、服、……が、………っ」
理性を突き崩すような熱に、言葉が喉の奥に溺れた。その情けない言葉の羅列に、アーサーは耳元で答えてきた。
「もう、か?」
わざわざ色っぽく囁くアーサーにひどく苛立ったが、制服を汚したくなくて情けなく何度も頷いてしまった。
それを合図に突起を弄くりまわしていた指がベルトに降りたと思うと、今度は舌が腹筋から突起を擦り上げた。そして、突起に強く吸い付かれた。
「……あっ、」
その刺激があまりにも強くて、電気が走るような衝撃が襲ってきた。知らない感覚が肌の奥を這って、一気に快感の脈が波を打つ。まだダメだ、そう言い聞かせるのに、体の方がもう言うことを聞かなかった。
「あ、……っあ……」
全身の力が抜けた。たったそれだけで、達してしまったのだと気がついた。制服を汚してしまったことで、この制度に完全に負けた気がした。悔しくて、やるせなくて、視界がじわりと滲んだ。
「すまない、汚してしまったな」
目を合わせられなかった。責められているわけでも、労られているわけでもない。それが余計に屈辱的に感じて、怒りと自責が綯い交ぜになった感情が迫り上がる。
ベルトに伸びてくるアーサーの手を、思わず振り払った。
「どうした」
暗闇の中で僅かに眉を寄せるアーサーは、きっと未だ第一ボタンすらも外れていない。
「もう、いいです……っ」
声を出した瞬間、ついに涙がこぼれ落ちた。一度堰を切ってしまえばそれは留まるところを知らず、それはやがて嗚咽に変わった。
この完璧なアルファは、今一体どんな顔をしているのだろう。哀れだとでも思っているだろうか。それとも、自分で許可したくせに面倒な奴だと呆れているだろうか。
その逡巡の間、アーサーは言葉を選ぶように口を噤んでいた。いつもはすぐに口を開く彼にしては、珍しい間だった。
「……分かった。今日はここまでだ」
やっと聞こえたその声が妙に優しい気がして、突然申し訳なさに襲われた。
「……すみません」
「謝ることはない。シャワーを浴びよう。一人で大丈夫か?」
「……はい」
アーサーの顔を見ないように俯きながら、たったあれだけで満足に立たなくなった腰を必死に持ち上げた。霞む視界の中、なんとかドアノブに手をかけて、倒れ込むようにシャワー室に身を投げ出す。
手探りで明かりをつけると、普段使っているものとは比べ物にならないくらい、広くて清潔な空間が広がっていた。すぐに目に入る脱衣所の大きな鏡に映るのは、崩れきった自分の顔。 それに反して一度も崩れなかったアーサーの顔を思い出して、再び目頭が熱くなった。
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