【本編完結】完璧アルファの寮長が、僕に本気でパートナー申請なんてするわけない

中村梅雨(ナカムラツユ)

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前編

第六話

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シャワー室の床に座り込みながら窮屈な下を脱ぐと、冷たい液体に下着が張り付いて気持ち悪かった。まだ切なくそそり立つそれには、ねっとりとした白濁が涙のあとのようにこびり付いている。

「うっ……はぁ、」

生温かいシャワーの下に座り込み、とりあえず一度だけ出してみるが、やはり一度くらいではどうにも落ち着かない。先程の気がおかしくなるような絶頂に比べれば、それはあまりにも淡白で。そのままもう一度吐き出しても、なかなか収まる気配がない。体は火照っているのに頭は嫌に冷静になってきて、一年の頃に授業で扱った論文を思い出した。
オメガのヒートにおいて、抑制剤と自己処理のみの群と、それらにアルファによる処理を加えた群で、潮の持続時間やオメガの生活の質を比較した試験。その論文によると、アルファによる処理を加えた群の方が全ての項目において対照群を上回るという結果になっていた。これが処理制度の根拠だと言う教官の話を、当時はくだらないと思いながら聞いていたが、なるほど確かにその通りかもしれない。あのまま続けていたら一体どうなっていたのだろう、などという考えが頭を過り、慌ててシャワーの温度を下げた。

「ふ……っ、ふう、」

三回目の絶頂を迎えたところで、ようやく熱が収まる気配があった。まだ完全ではなかったが、もしもまだアーサーが部屋にいれば、こんなに長くシャワーを使っていると怪しまれるだろう。先に帰ってくれと言えばよかった。深呼吸を繰り返して、シャワーを止める。
心做しか上等に感じるタオルで体を拭いていたとき、突然シャワー室のドアが叩かれる音がした。突然のことに、思わず体が固まる。

「な、なんですか」
「入るぞ」

アーサーの低い声が聞こえる。慌てて体をタオルで覆い数センチだけドアを開けると、涼しい空気が流れてくると共に、あの長身が目の前に立ちはだかった。

「な……なんですか……急に……」

目を合わせられず、俯きながら小さく答えた。
アルファならもっと気遣えよ、普通、入ってくるか?内心そんな悪態をつきながらも、面と向かって言えるはずもない。

「俺の訓練着の下を持ってきた。あと抑制剤も」
「え……」

だが、予想と違って優しく響いたその声に、思わず顔を上げてしまった。扉の隙間から覗く飄々としたアーサーと目が合う。差し入れられた手には、彼のイニシャル入りの緑色の訓練着と、青い錠剤。リースがいつも飲む白いものとは違う、見たことのない色の抑制剤だった。

「座薬だが、自分で入れられるか?」
「ざ……」
「入れてやろうか?」

アーサーが顔色変えずに放ったその一言に、リースは激しく動揺した。

「は……!?自分でできますよ!」

その妙な響きがあまりにも心臓に悪くて、礼も言わずに慌てて扉を閉めてしまった。ダン、と大きく音が響いたあとで、ただの医療行為を変に意識しすぎただろうか、と少し後悔する。

――でも、一応ほぼ初対面で、さっきあんな雰囲気になって……。
その上で、入れてやろうか……って、正気か?

頭の中で想像するだけで、全く耐えられそうにない。性行為以上に、あまりにも尊厳を傷つけられるシチュエーションのような気さえする。
でも、座薬の抑制剤なんて高価なもの、実物を見たのも初めてだ。指先で青く耀くそれを見つめているうちに、ある疑問が湧いてくる。

ーーこんなもの、どうしてアルファのアーサーが持っているんだろう。

誰かに使ってたんだろうか?学校じゃあ、パートナー云々には興味ないような感じだったけど、許嫁的なオメガがいる、とか……。

――じゃあやっぱり、なんで僕なんかに申請を?

そこまで考えて、慌ててぶんぶんと頭を振った。
考えたってしょうがない。今はそんなのどうだっていいことだ。今大切なのはこの熱を収めることだけで、それに都合のいいものがこの手にあるんだから、使わない手はないだろう。

「……う」

鏡を見ながら何となくで入れてみても、奥まで入り切らないのかすぐに出てきてしまう。入れたことにして捨ててしまおうかとも思ったが、何度も繰り返しているうちに、肛門への刺激によってかえって体が熱を持ってきた。これはまるで、ヒートの発作が出る前兆のような感覚だ。

「は……くそ……」

一体何分格闘していたのだろう。初めてとはいえ、こんなことも一人で満足にできないなんて、そんな自分に心底嫌気がさした。こんな自分だから、処理にアーサーの手を借りようだなんて思ってしまったんだ。そんなことを考えている間にも息はどんどん荒くなってきて、頭が朦朧としてくる。考えうる限りの最悪の事態だ。それでも、アーサーの手を借りるくらいなら、ここでこのまま死んだ方がマシなような気もする。

「はあ、はあ……」

こんなにひどいヒートは初めてかもしれない。抑制剤だってちゃんと飲んでいるのに、どうしてこんなに辛いんだろう。床の冷たさを求めて、体が勝手に横になった。ひんやりとした感触を全身で感じながら、それとは裏腹にどんどんと体は熱を持つ。
なんで今なんだろう。なんで今、こんな人生で一度も体験したことがないような強いヒートが来てしまったんだろう。
本当にこの熱をどこにも吐き出せなければ、このまま爆発して死んでしまうんじゃないだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、必死に酸素を求めて呼吸した。

「何してる!」

その時、怒鳴り声と共に、ドアが勢いよく開いた。
アーサーだ。寮規を破った下級生を叱る時の、あの声……。

「……ごめ……なさ……」

リースがほぼ反射的に謝ったのとほぼ同時に、重いものが覆い被さってきた。
それがアーサーだと気付くより先に、熱の塊のような独り言が耳元にこぼれ落ちてくる。

「クソ……こんな……」

アーサーからそんな言葉が出るのを初めて聞いたからだろうか。その声はリースの体に実際以上の熱量を持って響いて、ますます浅い息を繰り返すことしかできなくなった。

――僕のヒートに当てられてるんだ。

逃げなきゃ。その一心で必死で抜け出そうともがいた。しかしうまく力が入らない体では、床を這うことさえもままならない。アーサーの呼吸が聞こえる。だんだん浅くなっている。理性の塊だと思っていたあのアーサーが変わってしまうのが、怖くてたまらなかった。

しかし、そう思った次の瞬間。
冷たい床が遠ざかり、二本の腕が背中に食い込んだ。重力から解放されたその感覚に、抱き上げられたのだと気付いた。恐る恐る顔を見上げると、そこには顔を顰めて必死に唇を食い縛るアーサーがいた。普段の彼とは似ても似つかないその表情に、リースは再び泣きたくなった。このままベッドに連れて行かれたら、きっともう逃げられない。

「……ごめんなさ……でも……いやだ……」

リースの声が、空気の中でひどく小さく響いた。アーサーの腕に力が入るのが分かる。もう逃げられないと、そう覚悟した。
だが、その瞬間。彼は大きく息を吸い込んだ。肩が上下し、胸の奥で荒い呼吸がひとつひとつ整っていく。

「……ちょっと黙ってろ」

低く呟く声は、苛立ちよりも、自分自身を抑え込もうとする響きを帯びていた。
目を閉じ、歯を食いしばり、背筋がピンと伸びたのが分かった。
抱きかかえた腕の力がほんの少し緩み、代わりに慎重な手つきに変わっていく。

ブーツの音が一歩ずつ、正確に刻まれる。
そのリズムは、さっきまで乱れていた本能の足取りではなく、主席士官候補生としてのそれだとはっきり分かった。

「ごめんなさい……」

なんと言ったらいいのかわからなくて、もう一度謝罪を繰り返す。アーサーはまるで訓練で傷を手当てする時のような手つきでリースをベッドに横たえると、何も言わずにシャワー室に向かった。そして、散らばった薬をそっと拾い上げて戻って来た。
しばらくして、潤滑剤と共に、指が沈み込む感覚が襲ってきた。

「……う……はぁ」

座薬を入れてくれたのだ。それでみぞおちが疼いたのは、あまりにも本末転倒だ。悟られないよう、掛け布団顔を埋めた。

「薬が効くまで少し休め。十分ほどで効いてくるはずだ」

アーサーはそう言うとすぐに遠ざかり、広いベッドの反対側の縁へと戻っていった。さっきまでのあの熱が嘘だったかのように、いつものスンとしたすまし顔で制服を整えている。掛け布団に包まると、シーツが心地よく裸体にまとわりついてきた。熱を鎮めるように小さく深呼吸を繰り返すと、消毒の香りがつんと鼻をつく。アーサーはベッドの縁に腰かけ、こちらには一切の興味もなさげに何やら難しそうな本を読んでいる。

「……今日は、すみませんでした」

小さな声でそう言うと、アーサーは本から視線を外し、ちらりとこちらを見た。

「謝ることじゃない」
「……いえ。お忙しい中面倒をかけて、本当にすみませんでした」

指先で掛け布団を弄びながら言うと、アーサーがふと目を細めた。そして少しの間を置いて、手元の本に視線を戻す。

「……別に。面倒だなんて、思っていない」

その僅かな間に、不覚にも胸が跳ねた。
制服の袖口を整える長い指。読んでいる本の上で、ほんの一瞬だけ止まったまつ毛。その一瞬、すべてがいつもの無表情なアーサーとは違って見えた。
体はもう熱を失いつつあるのに、胸の奥だけが急に息苦しくなる。
タオルの柔らかさが、肌にまとわりつくシーツが、どこか違う感触を帯びて感じられた。

アーサーは視線を戻し、また無表情にページをめくる。その横顔をしばらく見つめていたけれど、なんとなくこそばゆい感覚になってきて、そのあとは天井を眺めていた。

「治まってきたか?」

一体どれくらいそうしていたのだろう。しばらくして低い声が落ちた頃には、すっかりと熱は治まっていた。

「……はい。もう、大丈夫です」

それでも、なぜだろう。答えながら、再び胸の奥だけが薬の効き目に逆らうように速くなる。
そのリズムに合わせるように、シーツの端を指先でいじってしまう。

--なんだこれ。気持ち悪い。

先に立ち上がるアーサーの後を追う。制服のシャツに、アーサーの訓練着。こんな奇妙な格好で二人揃ってこの密室から出るなど、信じられないことだ。そわそわしてどうにも落ち着かない。
リースは俯きながら、初めての処理室を後にした。
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