上 下
45 / 416
第三章 愛の確認

12、父の上京

しおりを挟む

予想違わず、櫻の父、江藤宏太郎は夕方の便で東京に出てきた。
まずは弟の家に行って詳細を聞かねばと、鼻息荒く、門を叩いたのだった。
「兄さん、ごめんよ。サクを止められなかった。あの子はもう手がつけられる状態じゃないよ。持って行った結納金は働いて返すと言っていたよ。」
「そんな不義理なことがあってたまるか!そのままお返ししたから、縁談は無しでなんて罷り通る世の中か!オラの畑だって広くしてもらったんだ。どうやって御恩をお返しすればいいんだよ!」
宏太郎は怒りで震えていた。なぜ弟がサクを止めてくれなかったのかも甚だ疑問だ。
「その新しい勤め先とやらに行って、サクを連れて帰ればいいんだろう。こっちだって出るとこ出るさ。」
「兄さん、よしておいた方がいいよ。今、サクには力を持っている商売人のところに行っているから。」
「力がなんだってんだ。銀座の決まりと秩父の決まりに違いはねえ!金持ちの道楽どもが、時間を垂れ流して楽しんでるんだろ。こっちから鼻へし折ってやる。」
「兄さんがどうするかは止めないよ。でも、田中の名前は出さないでほしいんだ。銀座や上野界隈ではすぐに噂は広まるからね。」
「お前、東京もんになったからって、あいつらの肩持つのか!早く、サクの勤め先を教えろ。」
そう言われると田中小次郎は望月洋装店の名刺を渡した。
「これは、省線で行ったら、どこで降りればいいんだ?」
「兄さん、有楽町で降りて、百貨店通りにあるよ。うちのものを、共につけようか?」
「ああ、そうしてくれ。なんなら、お前がついてきたっていい。」
「すまない。今日は寄り合いがってもう出なければなんだ。うちだって、サクは厄介者だったしね。」

宏太郎は改めて弟の顔を見て、失望した。許嫁であるサクを預けたことに責任を感じていないようだったからだ。

「じゃあ、出るぞ。誰か読んでこい。」
宏太郎が怒鳴ると、小次郎が読んできた、小間使の使用人が出てきた。
「ご一緒します。」
「頼むぜ。こっちは急いでるんだ。はやいとこ済ませたいしな。」

そういうと、田中菓子店の扉を大きく開け、外に出た。
宏太郎の目の前に初老の紳士が立っていた。
「ご機嫌よう。私、辻財閥で働いております、坂本と申します。ちょっと、お急ぎのようですし、私どもの車でお話ししながら、目的地までいかがですか?」
「ん?あんた誰だ?辻財閥といえば、秩父のセメント工場の持ち主じゃねえか。そこの財閥様がなんでオラを。」
「大切なお話がありますので、ご面倒でもご乗車いただければ幸いです。」
「ああ、いいよ。じゃあ、銀座の望月とやらまで連れて行ってくれ。」
坂本は宏太郎を後部座席に案内した。
坂本は田中家の使いを車の外で待つように言った。
しばらくしても車は発車しない。
「どうしたんだ、早くしてくれ。帰りの電車があるんだよ!」
「失礼しました。坂本からお話しさせていただきます。櫻様はいま望月先生のところで修行中でございます。学校の成績も良く、このまま職業婦人になられた方が、ご実家の仕送りなども嫁に行くより良いかと、望月様からの仰つけでして。」
「ん?どういうことだ?どれくらいもらえんだ?」
「望月での修行が1年終わったら、大学卒と同じくらいのお給金が出るとのことです。そのまま下宿すれば、たくさん仕送りできるでしょう。」
「じゃあ、結納金の二倍、返してくれるってんなら考えようじゃないか。」
坂本運転手が運転席から後ろに向かって一礼をした。
「では、江藤様失礼します。こちらに、それ相当な金額を入れてあります。これで結婚を破断にしていただけることは可能でしょうか?」

宏太郎は渡された封筒の中身を見て愕然とした。結納金の三倍はある。
「まあ、今回は許してやろう。でも、延期だからな。結婚はもう決まってるんだ。」
「今回のでは足らないと?」
「そういう意味じゃねえ!体裁ってもんだ。一度婚約してるんだ。簡単に破断にできるわけねえだろ。」
「承知いたしました。しかし、もし、東京にお見えの際は、望月のお店や学校ではなく、この坂本までご連絡いただけませんか?」

宏太郎は迷った。実際この額に驚いている。でも、うまくいけばもう一度もらえるかもしれない。破断にもせずに。
「まあ、いいだろう。連絡してやるよ。でもこれっきりじゃないこと覚えておきな。」
そう言い残すと、宏太郎は車から降り、秩父へと帰っていった。

数日後、その事実を櫻は知ることになる。
しおりを挟む

処理中です...