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本当の絹子
しおりを挟むまったく、何なのだ。
つい最近までの記憶がない。最後の記憶は、腸炎で倒れたあたりだ。
それから、気が付いたら、あの神社に座っていた。そういえば、写真館で写真をとった夢は見た気がする。
記憶が飛んでいる間の自分は、二人の息子の子育てをしていたらしい。
そんな馬鹿な。この家は、乳母も女中も雇えないほど落ちぶれたのかと聞いたところ、この私がその乳母と仲良く子育てしていたのだと言う。冗談言わないで、と女中に湯呑を投げつけたら、ひどく驚いた顔をして、そそくさと去っていった。
「……腹立たしい」
一番の変化は、あの夫だ。異常な程大きな、怪物みたいな暗い男。
以前は、私に対して劣等感を抱き、こちらを真っすぐ見ないような男だった。なのに、最近では、怒りのこもった恨みがましい目で見てくる。
態度も変わった。昔は私のやることには口を出さず、視線すら送らなかったのに「極力部屋から出るな、子供たちに近づくな」などと言ってきた。
私は腸が煮えくり返った。
頼まれたって近づかないのに、何を偉そうに命令してくるのだ。
手近にあった、ピアノの教則本を投げつけた。本は夫の腕に当たり、床に落ちた。
「何よそれ、こんな初心者用、何であるのよ」
子供が弾いているのか? それにしても初歩過ぎる。5歳でしょ?
思わず鼻で笑ってしまい、足で退けようと思ったら、あの男がそれを拾い上げて、抱え込んだ。
「まさか、貴方が弾いているの?」
馬鹿にするような声色になったのは、仕方ない。だって、生まれながら下賤な男が、音楽なんておかしな話だ。
「……私ではない、私の愛する女だ」
「はっ、随分、低俗な女を家に入れてたんですね。もしかして、女中? おかしいわ。やっぱり、下賤の生まれは、同じ程度の人間と慰め合いたいのね」
「……」
「あの子供の母親。あの女も仕方のない女だったわね!まぁ、何人でも囲えばいいわ、ただ私も好きに過ごさせて貰いますし。貧乏生活は勘弁してくださいよ。貴方、お金以外にいい所ないのだから」
博弥の母親は最低だった。
私に金づるを奪われた腹いせに、私の彼に手を出してきた。
もちろん、芸妓なんだから、ただの遊びだっていうのは分かっている。でも、分からせてやらないといけない。
店に足を運んだ。そしたら、ふっくらとしたお腹をしてるのだもの。
思わず「よくあの男と寝られたわね、どうやったら我慢できるのか教えてよ」と聞いてしまった。
「我慢したんじゃありませんよ、全然その気になってくれないから、薬を盛って襲ったんです。私、才気のある男に鼻が利くの。彼はきっと、お金になる。利用できる地位に就く。それに比べて……あなたの、あの男は駄目よ。早く捨てた方が身のため。これから長いお付き合いになりますし、親切心からご忠告します」
思わず、引き倒したけれど、無礼なあの女が悪いわ。
枡口のお兄様は、とても最高よ。
昔から、美しかった。
彼に相手にされない、哀れな女と、彼に嫉妬する醜い男が負け惜しみを言う。
お兄様を分かってあげられるのは、私だけ。
ついて来ようとする使用人を追い払い、人目を避けてやっと彼と会えるようになった。
「絹子、僕のもとに戻ってきてくれて嬉しいよ。君が家に閉じ込められて、使用人のように働かされていると聞いて、僕は心配で、心配で仕方なかった。でもあの男のせいで中々会いに行けず、この胸が張り裂けそうだったよ」
私を抱きしめて、頬に口づける、お兄様の美しい顔。
「お兄様……」
「ああ、何とか話がしたくて先日は神社まで行ったんだよ。もう、離れたくない。今度こそ、二人で駆け落ちしよう」
「本当に?」
「あぁ、でも、東京はもう駄目だ。景気も悪いし、どこか地方に移ろう。そこで家を買って一緒に暮らすんだ」
「素敵だわ」
「でも、そのためには、金が必要だ。だから、まとまった金を貯めるまで、我慢して待っていて欲しいんだ」
お兄様は、とても申し訳なさそうなお顔をしている。お兄様は、優しいから悪い奴らに騙されて、詐欺に遭って薄情なご家族に勘当されてしまった。あの時に助けてあげたのも私だけ。私が、あの怪物に嫁いで彼の再起を手伝ったのだ。
「いやよ! もう一秒だって耐えられないわ。あの男の気持ち悪い目。五月蠅い子供の声……今、すぐが良いわ」
私室には、日中、何度か子供の足音が聞こえて来た。
そして、ドアの前には、下手糞な字と絵の紙屑が置かれている。
手が汚れるのが嫌で、広げずに屑籠に放り込んだ。
「でも、君に苦労はさせられない。また、持ち出せそうな物はあるかい?」
「……」
ここ数年、記憶のない私は、使用人のように働かされていたみたいだ。
しかも、宝飾品も服も高価なものが全然増えていなかった。お洒落とは程遠い、動きやすさを重視したような服ばかり増えていた。
生地は最高級だったけれど、汚れもあり、高く売れそうなものは無い。
「やっぱり、時期を待とう」
「待って! いいの。きっと良いものがあるわ。最近、あの男、子供と寝室で寝ているの。だから――あの男の私室を探せば、きっと」
「それは、いい考えだね。あの男の成功は、君と結婚をして格が高くなったおかげさ。君には権利がある」
確かにそうだわ。
私は大きく頷いた。でなければ、あんな貧民相手に信用して取引などしない。
「そうよ。そうしましょう……」
「じゃあ、迎えに行くよ。屋敷の人目につかない窓の鍵を開けておいて」
「わかったわ。あぁ、少し怖いけど、ドキドキするわ」
「悪い子だな、絹子」
お兄様は、私の頭を優しくなでてくれた。
流石に外では、あまり接触は出来ない。それが残念でならない。昔は部屋を用意してくれていたのに。最近のお兄様との逢瀬は、外ばかりだ。心なしか、お洋服や靴もくたびれている気がする。やはり、世間の景気が悪化しているというのは本当なのね。
本当に頭にくる話だけど、あの女が言っていた夫の金を稼ぐ能力だけは、大したものなのね。
でも、大丈夫。
お兄様と私の間には、どんな困難も乗り越えられる愛があるのだから。
私たちは、神様に特別に作られ、愛された人間なの。見ればわかるわ。
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