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前篇

ダリア・クロック

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 ピピピ。朝六時の目覚ましが鳴る。起きて朝食を作らなくちゃ。
 僕――時任(ときとう)計希(かずき)は、まだ眠い目を無理矢理開けて跳ね起きた。横では、妻と一歳半になる娘が寝ている。
 子供がまだ寝るのは分かるが、妻がまだ寝てるってどうなんだ……ジェンダー平等の時代に、「俺より後に起きてはいけない」って言うつもりはないけどさ。
 キッチンに立ち、野菜と豆腐を切って鍋に入れ、温める。その間に洗濯機に入れるものを集めておく。鍋が沸騰した頃を見計らってキッチンに戻り、火を弱火にする。しばらくしたら火を止めてみそを入れる。これでみそ汁の出来上がり。
 自分と娘の分のごはんを準備し、テーブルに並べる。すると、寝室からのっそりと動いてきた影があった。
「おはよー」
「……ああ眠い」
 僕の挨拶を流し、妻は眠そうにのびをする。もう八時になるというのに、まだ眠いのか。
 その後、娘を着替えさせて朝ごはんを食べさせる。妻はというと…スマホをいじっている。手伝ってほしいのだが、彼女は機嫌が悪いと「私だってがんばっているんだから!」とふくれる。まったくもって扱いにくい。
 妻は、娘を身ごもるまでは毎日朝食を作ってくれた。が、ひどいつわりや妊娠期間を経てキッチンに立つことがどんどん少なくなった。洗濯も僕がかなりやっている。
 ――妊娠するとこうも変わるのか。
 まあ、そのことは予備知識があったのがせめてもの救いで、戸惑いはあったものの何とか対応できてきた。仕事と家庭生活の両立は大変だ。
 ただ、妻は出産して一年半たつのに生活リズムが崩れたままだ。このまま戻らないのではないかと、危惧している。
 娘の朝食が出勤までに終わらないと妻に任せることになるので、とたんに不機嫌になる。しかし、今日は何とか間に合ったので無事に出勤できた。
 毎日、こんな感じである……これが思い描いていた結婚生活だったろうか?

 仕事は事務系の仕事をしていて、定時に上がれることが多い。平凡な人生だが、このままでいいのか疑問を持つ。
 そんな折、ふと昔関わった女性たちを思い出すことが度々あった。今の妻でなく、あの時の彼女や、気になる女性と結婚していたら、もっと違う人生だったのでは……。そんなことを考えて仕事帰りに歩いていたある日、ある店が目に入った。とても小さな店で骨董屋のようだ。何気なく入ってみると、店には高齢の女性がいた。
「こんばんは。何かお探しで?」
「い、いえ、何となく入ってしまって……」
 その老婆はじっと僕の顔を見ている。すると
「あなたには、この時計を買ってもらいましょう」
 と言ってきた。何だ、押し売りの不意打ちか? 見るとそれはシャンパンゴールドの懐中時計だった。ふたには花の模様がついている。これ、女物じゃないのか……。
「ダリア・クロックと言いましてね。過去の恋愛を仮の場所で味わうことができます」
 ダリア? ああ、この模様はダリアの花か。
「一五〇〇円でお譲りしましょう。あなた、今の家庭生活に不満がおありのようだ。これが何かしらのお役に立つでしょう」
 ものすごくうさんくさい。しかし、痛いところを突かれたので、何か不思議な力を期待して買うことにした。

 買って帰り、子供と妻の寝かしつけが終わると、僕は自分の部屋にいった。なぜか妻の寝かしつけも僕の日課になっている。
「もしかしたら、ばかな買い物だったかも……」
 ダリア・クロックを見ながらつぶやいた。自分の心境を言い当てられたからって、それに一五〇〇円で安いからって、意味もなく時計を買うなんてなあ……。でもこれ、どうやって使うんだ?
 考えあぐねていると、時計が光り始めた。声を上げる間もなく、僕は光に包まれた。
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