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後篇
五十嵐藍①
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ここは……?
「トッキー、色校の用意できたよ」
一人の女性から声をかけられ、我に返る。あれ、ここは大学を卒業して初めて就職した印刷会社だ。
「どうしたの? ボーッとして……」
声をかけてきた女性社員…五十嵐藍は僕の顔をのぞき込む。きれいとかわいいの中間という顔立ちで、ノースリーブと服の露出はやや高い。そして…胸が大きい。
「さては、えっちなことでも考えていたでしょ?」
「違います」
僕は淡々と言った。そうだ、この頃僕は印刷会社の営業をやっていて、毎日慌ただしく仕事をしていたんだ。
この五十嵐さんは、出版社の原稿データを印刷で使う製版というものに加工する製版部の社員。僕より四つ上のお姉さん的な存在だ。
入社して一年後、一人で仕事を回すようになってから、製版部や印刷工場の人からよくどやされた。スケジュール管理が甘かったり、難儀する仕事をとってきたことがあったからだ。この五十嵐さんからも、何度か注意を受けたっけ。
しかし、めげずに現場の人たちから知らないことを学ぶようにしたところ、「なかなか見所がある」と目をかけてもらえた。
で、こうして色校…カラー印刷された校正刷を渡されたところから推察すると、入社二年はたった頃だろう。これを持って得意先の出版社に届けるタイミングだ。手帳を見ると、その日に回る得意先が書かれている。時刻は午後二時、帰社は夕方の六時半になりそうだ。
「で、妄想の中の女の子はどんな感じ?」
おいおいセクハラだぞ、と思ったが、僕が二十代半ばの頃は女性から男性へのセクハラはセクハラと認められていなかった時代だ。反論してもあまり意味がない。それに、この人は下ネタが大好きなお姉さんだったっけ。
「じゃあ今度ゆっくりお聞かせしますよ」
苦笑いして、僕は会社を出た。
大学四年の時、就職活動をしていた僕は本作りに興味があったので、出版社を主に回った。が、なかなか内定がもらえなかった。その矢先、大学で印刷会社の求人があったので応募したところ、採用された。
入社前は、印刷営業がどんな業種なのかよく分からなかったが、仕事を始めると、クライアントの出版社から原稿や版下と呼ばれるデータをもらい、校正紙を出して届けたり、印刷に必要な紙の手配や印刷機の予約、費用の見積もりなどをすることが分かった。思ったものとは違ったものの、自分が手がけた本が出来上がることはなかなかおもしろかった。一年目は先輩の下でアシスタントをして、二年目から一人立ちして仕事を回す。大変だったが、何とか乗り越えて三年目を迎えたのだ。
「色校、ありがとうございます。では、明後日に戻しますので」
「はい、また明後日に伺います」
そう言って得意先を出た。この頃任されていた出版社は二十件で、うち五件はいつもひいきにしてくれる。
営業車に乗り込んで次の得意先に行こうとしたら、携帯電話が鳴った。メールである。
「トッキー、帰りにコンビニのおやつ買ってきて~」
かわいいハートマーク付きである。先ほどの先輩、五十嵐藍さんからだ。
(まったく、この人は……)
六時半に帰社し、もらってきた版下データとおやつを持って、五十嵐さんのところに行った。
「はい、データです。あと、これは頼まれたブツ……」
「ごっくろうさん。ありがとねん」
五十嵐さんはおやつを受け取ると、包装を破いて食べ始めた。
「データもよろしくお願いしますね」
僕は念を押す。夜勤班で製版して校正刷を出す予定だから、このまま放っておかれてはたまらない。
「時任さんと五十嵐さんって、仲いいんですか?」
今年入った製版部の女の子がたずねる。
「まあね~、弟みたいなもんかな」
「気がついたらこんなふうです。この人には気をつけてくださいね」
「あんたねー!」
その反論は流して、僕は営業部に戻った。
この五十嵐さん、営業とはあまり仲良くないと聞いているが、なぜか僕にはなれなれしい。YFCのバイト仲間だった由希姉に近い感覚があるのだ。
彼女はキャリアも八年近くで、若手が多いこの会社にとっては中堅どころの社員である。仕事も早く、仲間からの信頼も厚い。
そんなになれなれしいから「付き合っているんじゃ…」と勘違いする人もいたが、それはなかった。僕たちの間には何もなかったのだ。なのに……。
夜は見積もりを作成したり、印刷機の予約、紙の手配をしたりする。当時はパソコンが普及していたものの、書類はまだ手書きが多かった。
季節は夏。この時期は繁忙期でもなく、早めに帰れることが多い。が、この日は事務処理が多くて八時くらいまで仕事をしていた。
「さて、そろそろあがるか……」
そう言って背伸びをすると、背後から気配が……。
「おっつートッキー。ちょうど終わり?」
五十嵐さんだ。僕の伸ばした手が彼女の胸に当たった。ちょっとラッキー。
「一緒に帰らない?」
「車に乗せてけっていうんでしょ?」
最近知ったのだが、この人とは家が近いのである。最寄り駅が同じで、僕の住んでいるマンションから五分くらいのアパートらしい。先日、道ばたでばったり会ってそんな話をしたばかりだ。
僕ら営業は、早出や夜の残業が多いので、営業車での通勤が許されている。そこに目をつけた五十嵐さんは、最近、僕の車に乗り込むようになった。
「車ばっかりだと運動不足で太りますよ」
「あんたが言う? 毎日車通勤しているくせに」
五十嵐さんは僕の腹を触ってきた…ホントにこれ、今だったらセクハラ案件だ。
「あれ? ぷよぷよじゃない」
「まあ、やせ型の体質なんで」
残念でした、と返す僕に頬をふくらませる五十嵐さん。やれやれ、手のかかる姉みたいだ、と思いつつ
「じゃあ行きますか」
と促し、二人で駐車場に向かった。
「トッキー、色校の用意できたよ」
一人の女性から声をかけられ、我に返る。あれ、ここは大学を卒業して初めて就職した印刷会社だ。
「どうしたの? ボーッとして……」
声をかけてきた女性社員…五十嵐藍は僕の顔をのぞき込む。きれいとかわいいの中間という顔立ちで、ノースリーブと服の露出はやや高い。そして…胸が大きい。
「さては、えっちなことでも考えていたでしょ?」
「違います」
僕は淡々と言った。そうだ、この頃僕は印刷会社の営業をやっていて、毎日慌ただしく仕事をしていたんだ。
この五十嵐さんは、出版社の原稿データを印刷で使う製版というものに加工する製版部の社員。僕より四つ上のお姉さん的な存在だ。
入社して一年後、一人で仕事を回すようになってから、製版部や印刷工場の人からよくどやされた。スケジュール管理が甘かったり、難儀する仕事をとってきたことがあったからだ。この五十嵐さんからも、何度か注意を受けたっけ。
しかし、めげずに現場の人たちから知らないことを学ぶようにしたところ、「なかなか見所がある」と目をかけてもらえた。
で、こうして色校…カラー印刷された校正刷を渡されたところから推察すると、入社二年はたった頃だろう。これを持って得意先の出版社に届けるタイミングだ。手帳を見ると、その日に回る得意先が書かれている。時刻は午後二時、帰社は夕方の六時半になりそうだ。
「で、妄想の中の女の子はどんな感じ?」
おいおいセクハラだぞ、と思ったが、僕が二十代半ばの頃は女性から男性へのセクハラはセクハラと認められていなかった時代だ。反論してもあまり意味がない。それに、この人は下ネタが大好きなお姉さんだったっけ。
「じゃあ今度ゆっくりお聞かせしますよ」
苦笑いして、僕は会社を出た。
大学四年の時、就職活動をしていた僕は本作りに興味があったので、出版社を主に回った。が、なかなか内定がもらえなかった。その矢先、大学で印刷会社の求人があったので応募したところ、採用された。
入社前は、印刷営業がどんな業種なのかよく分からなかったが、仕事を始めると、クライアントの出版社から原稿や版下と呼ばれるデータをもらい、校正紙を出して届けたり、印刷に必要な紙の手配や印刷機の予約、費用の見積もりなどをすることが分かった。思ったものとは違ったものの、自分が手がけた本が出来上がることはなかなかおもしろかった。一年目は先輩の下でアシスタントをして、二年目から一人立ちして仕事を回す。大変だったが、何とか乗り越えて三年目を迎えたのだ。
「色校、ありがとうございます。では、明後日に戻しますので」
「はい、また明後日に伺います」
そう言って得意先を出た。この頃任されていた出版社は二十件で、うち五件はいつもひいきにしてくれる。
営業車に乗り込んで次の得意先に行こうとしたら、携帯電話が鳴った。メールである。
「トッキー、帰りにコンビニのおやつ買ってきて~」
かわいいハートマーク付きである。先ほどの先輩、五十嵐藍さんからだ。
(まったく、この人は……)
六時半に帰社し、もらってきた版下データとおやつを持って、五十嵐さんのところに行った。
「はい、データです。あと、これは頼まれたブツ……」
「ごっくろうさん。ありがとねん」
五十嵐さんはおやつを受け取ると、包装を破いて食べ始めた。
「データもよろしくお願いしますね」
僕は念を押す。夜勤班で製版して校正刷を出す予定だから、このまま放っておかれてはたまらない。
「時任さんと五十嵐さんって、仲いいんですか?」
今年入った製版部の女の子がたずねる。
「まあね~、弟みたいなもんかな」
「気がついたらこんなふうです。この人には気をつけてくださいね」
「あんたねー!」
その反論は流して、僕は営業部に戻った。
この五十嵐さん、営業とはあまり仲良くないと聞いているが、なぜか僕にはなれなれしい。YFCのバイト仲間だった由希姉に近い感覚があるのだ。
彼女はキャリアも八年近くで、若手が多いこの会社にとっては中堅どころの社員である。仕事も早く、仲間からの信頼も厚い。
そんなになれなれしいから「付き合っているんじゃ…」と勘違いする人もいたが、それはなかった。僕たちの間には何もなかったのだ。なのに……。
夜は見積もりを作成したり、印刷機の予約、紙の手配をしたりする。当時はパソコンが普及していたものの、書類はまだ手書きが多かった。
季節は夏。この時期は繁忙期でもなく、早めに帰れることが多い。が、この日は事務処理が多くて八時くらいまで仕事をしていた。
「さて、そろそろあがるか……」
そう言って背伸びをすると、背後から気配が……。
「おっつートッキー。ちょうど終わり?」
五十嵐さんだ。僕の伸ばした手が彼女の胸に当たった。ちょっとラッキー。
「一緒に帰らない?」
「車に乗せてけっていうんでしょ?」
最近知ったのだが、この人とは家が近いのである。最寄り駅が同じで、僕の住んでいるマンションから五分くらいのアパートらしい。先日、道ばたでばったり会ってそんな話をしたばかりだ。
僕ら営業は、早出や夜の残業が多いので、営業車での通勤が許されている。そこに目をつけた五十嵐さんは、最近、僕の車に乗り込むようになった。
「車ばっかりだと運動不足で太りますよ」
「あんたが言う? 毎日車通勤しているくせに」
五十嵐さんは僕の腹を触ってきた…ホントにこれ、今だったらセクハラ案件だ。
「あれ? ぷよぷよじゃない」
「まあ、やせ型の体質なんで」
残念でした、と返す僕に頬をふくらませる五十嵐さん。やれやれ、手のかかる姉みたいだ、と思いつつ
「じゃあ行きますか」
と促し、二人で駐車場に向かった。
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