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玉木白見

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犯罪

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 転がる3体を見ながらまるで夢の中にでもいるかのような感覚に襲われた。数分の間、瞬きせずずっと見ているがどれも微動だにしない。天をも壊すかのような声で罵り、野獣のように襲ってきたその姿からは想像もつかない。トクトクと流れる血と共に今にもまた動き出しそうだ。

 血の付いた両手の震えがまだ止まらない。目の前に転がっている深紅に染まった包丁が目に入るとより身震いがする。足も震え、立ち上がろうとしても動かすことができない。激しい息切れ、早い鼓動がいつまで経っても止まない。定期的に全身を悪寒が走る。腫れて熱を帯びた頬を手の甲で軽く擦ってみると血の匂いが顔中に充満した。

 彼、ヤスとは大学で出会った。見た目は普通だったが、少し会話した瞬間に自分の友達になるような人間ではないと感じた。
 2年生となったころ、僕の友達が大学に来なくなった。一度電話で話したときは、何かに脅されたようで怯えている様子だった。その内容からヤスがどういう人間なのかを知った。そして、いろいろな人の話を聞くうちに彼のことが許せなくなった。
 決定的だったのは、僕が好きになった子に関する噂だった。
 「ヤスに騙されたみたいよ。」
 詳しい内容はわからないが、どうやら自撮りの裸の写真を強要されたり、風俗まがいの事をさせられたり、金を騙し取られたりされたようだ。強姦にもあったのではという噂だった。彼女は途中から大学で一切見かけなくなった。

 心の底から激怒した。毎晩想像するたびに悲憤の涙に濡れた。

 包丁など使うつもりはなかった。護身のために持っていっただけだ。今思えばかかわるべきではなかった。でもどうしても許せなかった。
 怒りを抑え、少し問い詰めると
 「ああ?なんだてめえ。偉そうに。死にてえのか。」
 「てめえみてえなチビのクズには関係ねえよ。それともうらやましいのか?しゃっしゃっしゃーー。」
 絵に書いたような酷い姿だった
 
 不運にも彼の仲間が2人すぐ後にやって来た。
 「おい、やっちまおうぜ。」

 それから3人に囲まれ、すねを蹴飛ばされた。額が触れるほど顔を近づけ身震いするほどの恐ろしい目で睨みつけた。殺されると思った。
 それからは無我夢中で覚えていない。腹、足あたりにも鈍く熱い痛みを感じる。

 何分経っただろう。通りすがった人が僕たちを発見した。事態を察するとかすれた悲鳴をあげ逃げて行った。
 そしてそれから数分後、数人の職員、警察、救急隊員に取り囲まれていた。


 私の犯罪は凶悪と見なされた。
 包丁を持っていたことから計画的であった、遺体に執拗なまでの刺し傷があったことなどからの判断だ。
 もちろんやったことは完全な殺人であり、犯罪だ。絶対に罪を償うべき、そして言い訳をすべきでないと思った。そのため私はなるべく謝罪の言葉だけを発した。
 しかしながら、脅された事、被害者側が先に手を出してきた事、被害者側の日頃の振る舞いは、きっと考慮してしてくれると期待していた。弁護士も実態を把握してくれて最善を尽くし情状酌量を得ようと努めてくれた。しかし、被害者側のそれらの振る舞いに対しては事実とは異なると判断された。
 
 結果、流刑の判決が言い渡された。事件から半年以上経過した日だった。あまりにも厳しい判決に絶句し頭が真っ白になった。
 その後弁護士は控訴を申し出たが、あっさりと棄却された。
 
 被害者が、陰に隠れ散々悪事を働いていたにも関わらず、表向きは「環境保護」「未来の子供のための支援」「不正な男女差別の改善」だのと言った一般的に聞こえのよい団体で親と共に活動していることになっており、加害者が完全な悪だという報道がなされた。しかも、被害者の親の一人が人気俳優、兼コメンテーターで、マスコミの取材に対し悲痛の思いを語る様子がテレビで何度も報じられた。もちろん、被害者達は実際には活動などしていない。それらを巧みに利用して、人を信用させては騙し金稼ぎをしたり、女遊びをしたりしていた。検察、警察も報道を鵜呑みにし、被害者側の日頃の悪事については一切調べず、それが明るみに出ることはなかった。一部は悪事について語られる部分もあるにはあったがすべて揉み消されたような印象だ。裏でどのような権力が振る舞われたのだろうか。輪をかけて、私の両親、親族についても勝手に調べ上げられ、父の過去の振る舞い、前科などが勝手にサイト上に出回った。立派な青年をキレた馬鹿が殺したという捻じ曲げられた情報が広まり、世間は完全にこちらが悪と決めつけた。結果、加害者が勝手な逆恨みで犯行に及んだと判断された。弁護士も判決はそれが影響したのではないかと語っていた。拘置所で見たこの事件に関する記事も私を悪に仕立てようとあることないことが平気で書かれていて読むたびに絶望した。すべてが悪意に満ちている。何が真実で、何が正義なのか?

 今思えば裁判も茶番だった。状況証拠から作られた虚偽の事実が次々と出てくる。傷つくだけ傷つけられた。怒りを通り越し、呆然としてしまった。

 家族は私の事件が報道し始められた頃に、私刑を恐れ、移住を余儀なくされた。住んでいた家は、やがて「死ね」などの落書きで2階まで埋め尽くされてた。窓ガラスは割られ、ゴミなどが散乱した。そのうち何者かの手により一部が放火された。今でも焼け焦げた家が痛々しく残っている。家族と笑顔で暮らしたことを思い出すと、胸が詰まる思いだ。現在、家族は名前を変え、隠れるようにひっそりと生活している。母はあまりのショックで今でも体調を崩していると言う。慙愧に堪えない思いだ。


 世の中は変わった。
 少年法の保護対象となる年齢の引き下げを皮切りに刑法は年々厳しくなった。
 
 世の中が混沌とする中、世間に取り残された人達の犯罪が年々急激に増加した。人生に希望が持てず、死にたいと思っている人は年々急増している。強盗、無差別殺人、詐欺などの事件が毎日のように報道される。マスコミは面白がってピラニアのように食いつき騒ぎ立て、やがて花火のように散って行く。世間の人々はそれに反応し、犯罪者に対し、死刑だ、極刑だ、と騒ぎ立てる。その犯人の身元、会社、親族を勝手に調べ上げ、何の権利もない者が勝手に私刑を行うのもあたりまえのようになった。
 
 重大犯罪の被害者は精神的にも地獄のような生活を強いられ人生を狂わされているのに、加害者は刑務所の中で人としての生活ができる。それも国の税金を使ってだ。まじめに勉強し生きてきたにも関わらず、就職難で希望の仕事に就けない、また不況により職を失い次の職が見つからない、いじめ、嫌がらせにより社会から疎外されるなどの理由で辛い思いしている人々が、それを納得するのは容易ではない。その気持ちに答えるかのように刑罰は年々厳しくなった。

 数年前から、成人以上がその行為が悪い事であることを自覚しながらも故意に行った犯罪について死刑判決が下されることが多くなった。また、裁判も裁ききれず何か月も待ち状態となる事態を少しでも緩和するためにという理由のためか、以降の控訴についても棄却されることが多くなった。

 犯罪が増えればどこの刑務所も収容者で溢れ返っている。どの刑務所もとっくに許容人数を大幅に超えている。その影響で刑務官の仕事も行き届かず、収容者の面倒を見切れない。収容者は雑な扱いを受けることでストレスが蓄積する。どの刑務所も負のスパイラルに陥っていた。収容者を減らすしかない。しかしこれ以上死刑判決を増やしたくない。そこで復活したのが流刑という考え方だ。いわゆる島流しである。流刑判決された受刑者は流刑用として選出された離島に連れて行かれ、そこで最期を迎える。刑務所の人数を減らすために島へと移動してしまおうという発想だ。なんと安易なことか。死刑同様にある日突然告げられる。執行は法務省の指示で行われる。流刑に対するマスコミからの間違った情報のせいか、死刑と比べ流刑は比較的簡単に執行される印象だ。最近は凶悪犯に対する流刑判決が多い。数年前の流行語大賞にも選出されたほどだ。

 流刑となった人は、体内にICチップを埋め込まれ離島に放置される。生活するための道具など一切渡されない。その島で余生を過ごす。島はICチップ、監視カメラによる監視が行われており、脱出を試みても途中で捕獲される。マスコミの勝手な想像による誤った情報より、流刑囚は南国で自由な余生を送るかのような印象が根付いているが、実際は決して自然豊かな島が選出されているわけではなくサバイバルで生き続けるのは事実上不可能な島が選出されている。放置しあとは勝手に離島で飢え死にせよというわけだ。最期には捨て、手も直接かけることなくあとは自然と死んでゆく。死後の面倒も見ない。考え方に寄っては死刑よりもよっぽど残酷だ。死ぬとその状態がICチップの反応である程度分かる。実際に島に送り届ける者のストレスはあるが、死刑執行を直接下すよりはましだという考えだが実際はその効果も薄い。いや、増したと言っても過言ではない。

 誰がこんな事を考えたのか?先進国では、死刑すらすでに存在しないところが多いと言うのに何を考えているのか?
 国際社会からも、非人道的だと非難された。死刑と流刑、何が違うのか。
 
 今ではこのような流刑に利用されている島が数島存在する。
 
 この流刑には今でも様々な議論が交わされる。世間から疎外され、死を望む者が死刑になりたいがために殺人を犯す。そのような人が最期、島でバカンスを過ごす。こんなことで遺族が報われるのか?死刑、流刑が当たり前の世の中が正しいのか?死刑、流刑で犯罪が減るのか?今までは考えられないような犯罪が年々増えているのは世の中の責任ではないのか?世の中が生み出した犯罪者に対し、その原因、世の中の問題点を究明し改善を図り、犯罪者を減らす努力をすべきではないのか?

 それほどこの世の中が余裕がなくなり、自分だけで精いっぱいで他人に冷たくなってしまった証拠なのだろう。


 流刑が確定し、別の刑務所に移動してからは少し環境が良くなった。独房は監視カメラ付きでなくなり、制限はあったが本、テレビ、ビデオの視聴が許された。部屋も畳の部屋となり、以前の硬い床に比べたら居心地が良かったし、なんといっても窓から外の風景が見れることが僕の心を癒してくれた。

 刑務所の生活は良くはなったものの依然と基本的には変わらず、ひたすら単純作業をこなし、時間通りに運動、食事、睡眠をとる生活が延々と続いた。

 父が刑務所で読む本や母からの手紙を持ち、たびたび面会に来てくれた。面会に来る父は、普段の厳しい父の面影が失せ、優しく、来るたびに僕に謝った。
 「私も過去にカッとなって暴力をふるい捕まったことがあった。友人は皆、どう考えたってあっちが悪いって励ましてくれたよ。お前も俺に似たんだろうな。俺の過去の過ちをちゃんと教えておくべきだった。今になって猛省している。」
 母の手紙は、自分が体調を崩しているのにも関わらず、ずっと僕の事を心配しているその心境が綴られていた。父の言葉も、母からの手紙も僕を励ましてくれた。聞くたび、読むたび涙がこぼれた。家族のありがたみ、優しさ、愛情をこんな形で気付きたくはなかった。
 会うたび父は私に怒りと悲しみが混じった心境を打ち明けた。そして、いまひそひそと生活している状況について、自分への戒めと思いお前と共に償いながら生活するとも語っていた。なんて親不孝者だ。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

 本は、大学で勉強していた教科書や哲学書だった。流刑となった今、勉強など何か役に立つのだろうかと思いながら、でも自分のしたかった勉強を少しでもしようと思い読んだ。他、無人島での生活の方法などの本も読んだ。

 ある日、一人の刑務官がひっそりと話しかけてきた。
 「流刑なんて気の毒だったな。噂じゃあ被害者側も裏で相当悪い事してたらしいじゃないか。流刑なんて厳しすぎるよ。」
 「でも、僕のしたことです。関わり合うべきではなかった・・・。」
 「ひどい世の中になったよ。ここだって人が減ってるわけじゃない。刑が厳しくなった関係で刑期が長い受刑者が増えて、むしろさらに増えてる気がするよ。」
 良い機会と思いずっと気になっていることを聞いてみた。
 「流刑はいつ執行されるのですか?」
 「最近じゃ、執行が早くなった。法務大臣も速やかに執行なんて言っているし。それで人気でも取れると思っているのか。本当に気の毒だが、あと数ヵ月以内ってとこだろうな。」
 「そうですか。」
 流刑と言っても想像がつかない。噂通り自由な日々が訪れるのか。

 そして、ついにその日を迎えた。
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