冷蔵庫の奥で生きて

小城るか

文字の大きさ
上 下
3 / 6

冷蔵庫の朝は早い

しおりを挟む

 美鈴と初めて会ったのは、外川駅前のイタリアンレストランだった。

 その日はふわりとした小雨で、吐き出してしまいそうな緊張感が体を怠くしていた。母の交際相手には娘がいて、耕哉とそう歳は変わらない。そう聞いていたものの、同年代の女子がいきなり家族の枠組みに飛び込んでくるのは、さすがに抵抗があった。

 抵抗が期待に変わったのは、その日のうちのことだ。

 初めて美鈴を見たとき、周りに花が見えた。赤も黄色もピンクも、薔薇も百合もよくわからない名前の奴も。花が見えた。華が見えた。

 それはレストランのインテリアである造花にすぎなかったのだが、背に花を携えた美鈴は絵画の一枚のようにそこにいた。爪の先まで痺れる感覚に、耕哉は何と名前を付ければよいか分からなかった。

 そんなことを思いだしたのは、10月5日のAM1時のことだ。

「おはようございます……。信樹さ……ふわぁ」

 【美鈴】は大きく欠伸をした後、卵やマヨネーズを取り出す。欠伸をした所為で鼻の穴が大きく開いている。最初に会った時に感じた、絵画の一枚とは程遠い。

 冷蔵庫越しに会話ができると言えども、物がごちゃごちゃと点在していると顔がよく見れない。昨日、冷蔵庫の物は右か左に寄せるか、ドアのポケットに入れるという約束を【美鈴】に無理やり取り付けさせられた。

 他にも約束があった。
 お互いの時間の流れは違うから、どちらかが夜中のときはあまり騒がない。忙しい時は話を短く終わらせる。冷蔵庫の中の消臭に努める。その他諸々だ。

「……随分早いんだね」
「そっちが深夜でもこっちは朝の6時ですよ? 今ご飯の支度してるんです」

 眠い所為か、耕哉の方が深夜である所為か。【美鈴】は昨日のように高い声を上げない。欠伸を繰り返すあたり、眠い所為かもしれない。

「すみません。一旦閉めますね」

 【美鈴】はゆっくりと冷蔵庫を閉めた。

____この頃はちゃんと、早起きしてたんだな。

 美鈴は今、遅刻寸前まで寝ていることがほとんどだ。昔は、耕哉の知らない【美鈴】はきちんとしていて(ラーメンを夜中に食べるのはどうかと思うが)、兄としてほっと胸をなでおろした。

 【美鈴】が再び冷蔵庫を開けたとき、耕哉は【美鈴】を褒めた。

「えらいね。朝ご飯ちゃんと作るんだ」

 驚いたように瞬きをすると、【美鈴】は頬を緩ませる。漫画だったらえっへんという擬音が付きそうなくらい、腰に手を当てて胸を張った。

「うち、お母さんいないから。お父さんの分のお弁当も、ぜーんぶ私が作るんです」

 耕哉は軽く拍手の真似事をしてやる。【美鈴】はまた一段と口角を上げた。

「五十嵐さんのお弁当は?」
「もう、中学は給食ですよ?」

 当然だという口調だった。

「そっか。もう昔のことだから、つい」

 中学時代のことなんて、友達と騒いだこと以外もう何も思い出せない。今通っている専門学校と、かつて通っていた中学校が本当に同じ町にあるのかと疑問に感じる。中学校の記憶だけ別の世界での出来事のようだった。

「信樹さんっていくつなんですか?」

 【美鈴】は牛乳やジャムを取り出している。そういえば年齢は言っていなかった。

「19」

 耕哉が何気なく言うと、【美鈴】は軽く目を見開いた。【美鈴】の小さな肩が、僅かだが揺れたのが分かった。

「え! 20後半くらいかと……。びっくりした」
「はは……、そんな老けて見える?」

 耕哉が眉を下げて笑うと、【美鈴】は牛乳を一旦置いて顎に手を当てた。何か考えているようだ。耕哉は1リットルのミネラルウォーターを取り出し、またラッパ飲みをした。

「うーん、目のクマ、いや、うん。目のクマじゃないですか?」

 言い直しつつ放たれた言葉に、耕哉は目を丸くする。

「いやほら、クマの所為で疲れて見えるっていうか、老け……大人っぽく見えるというか。大学生ってそんな大変なんですか?」

 一瞬老け顔と言いそうになりながら、【美鈴】は話を軌道修正する。そこまで言ったなら老け顔とはっきり言ってほしかった。

 自分は専門学校生だと何度も説明しているが、【美鈴】は大学生と専門学校生の違いをよく分かっていない。耕哉は公務員志望の高卒者が通う専門学校に行っている。大学生のように長い夏休みがあるわけではないし、最長でも2年しか通わない。おまけに学費は国立大学の半額だ。

 それを繰り返し説明しても「まぁ、ほぼ大学生と変わんないでしょ」と【美鈴】は完結してしまう。これ以上は馬の耳に念仏だと、耕哉もすっかり諦めた。

「まぁ、大人にもいろいろあるんだよ」

 耕哉はミネラルウォーターをしまって、達観したように遠くを見つめた。

 こうやって深夜にたびたび起きるから、クマが出来てしまうのだろう。

 母が亡くなってから、夜中に目が覚めることが多くなった。

 寂しさゆえとか、そういうものではない。ただ、いつの間にか目が開いていて、いつの間にか体が動きたがっているのだ。

 夜中の静寂は沼のようで、何をしていても飲みこんでしまうような不思議さがある。つかの間の自由が耕哉は好きだった。飲み込まれてしまうなら何をしてもいいだろうと、耕哉は父親のイカのつまみを拝借したり、ときには冷凍のピザを一人で平らげることもあった。

 そういうときに限って、暗闇の向こうから咎めるような視線を感じてしまう。来年は試験があるんだぞ、そんなことしていて大丈夫なのか。そう言っている気がした。結局、大人しくその日の授業の予習をして、そのまま机に突っ伏して寝ることがほとんどだった。

「大人って……。まだ20歳じゃないでしょ」

 【美鈴】は笑う。

「20歳にならなくても、大人になるやつはいっぱいいるんだよ」

 なげやりな口調になってしまった。さも自分は大人だとでも言いたげな口調だが、耕哉自身も自分が大人なのかなんてよく分かっていない。

 髪を染めても眉を弄っても、大人にはなれない。美鈴の背が伸びて、髪が茶色になっても子供にしか見えないように、大人か子供かというのは意識的な問題にすぎないのかもしれない。

 【美鈴】は中学生ということもあり、金髪でも茶髪でもない。背も155センチメートルほどで、高いとは言い難い。それでも彼女の笑った顔には曇りが無くて、大人には見えなくてもかっこいいと思ってしまう。

 この頃の【美鈴】には、部屋に引きこもる要素も何もなさそうだ。耕哉は違和感を抱き、それをどうにかしたかった。

 時計の針が、耕哉の世界は深夜1時30分を、【美鈴】の世界では6時30分を指した。冷蔵庫の向こうから聞きなれた男性の声が聞こえた。恐らく【美鈴】の父の声だろう。

 【美鈴】は声の方へ振り向くと、また耕哉に視線を戻した。もう時間だ。

「じゃあそろそろ……」
「あの」

 終わりの声を遮らずにはいられなかった。【美鈴】は口を半開きにしたままこちらを見つめる。耕哉は口ごもりそうになりながら、息を細く吸った。

「あのさ、えっと……学校楽しい?」

 中学生の悩みの種と言ったら学校以外に何があるだろう。【美鈴】は塾などは行っていないし、所属する団体は学校しかない。「塾に行かなくてもこんなに成績良いなんて」と、再婚する前に母は美鈴を褒めていた。勉強の苦手な耕哉と比べて話のタネにしていた。

 身体に力が入り、肩が固くなる。【美鈴】が口を開くとまた身体が強張った。

「……楽しくは無いですね」

 【美鈴】の声は落胆していた。が、そこに絶望の色は無かった。何かあるたびに「もう終わった」と何だか自慢げに言う、耕哉の友達と似た声色だった。

 【美鈴】は身を乗り出す。焼けた頬との距離が近くなった。

「夏休みの宿題多すぎるんですよぉ。夏休みの友って、いや友達なら遊ぼうって言えよって感じですよね」

 どこかで聞いたことがある言葉だと、身体から力が抜けた。世の学生のほとんどが思っている台詞を吐きだし、【美鈴】は眉を僅かに上げた。中学生らしい悩みだと耕哉は脱力感から軽く笑うと、【美鈴】の目力がまた強くなったので慌てて口角を下げた。

「あ、でも」

 【美鈴】は思い出したように口を開く。心なしか瞳から光が見える。耕哉は欠伸をかみ殺し顔を上げた。

「私、バンド組んでて。部活の後に友達と練習してるんですけど、そのときはめちゃくちゃ楽しいですよ。そうだ、文化祭にも出ることになったんです」
「へぇ。すごいね」

 文化祭では少し前に流行った女性バンドの歌を演奏する予定で、【美鈴】は自分はボーカルなんだと誇らしそうに腕を組んだ。

 冷蔵庫を閉めて自室に戻った後、耕哉は布団にもぐりこみながら考えていた。

 中学2年生の【美鈴】は目立った悩み事を持っていない。もしかしたら耕哉に心を開いていなくて本当のことを話さないだけかもしれないが、「学校楽しい?」と耕哉が言った瞬間に、顔色を変えるわけでも首の後ろを掻くわけでもなかった。

 気まずい時や自分の思い通りに事が進まない時、美鈴は首の後ろを手で掻く癖がある。まだ付き合っていた頃にそのことを指摘すると、「分かんないけど痒くなっちゃうんだよ」と笑っていた。

 部屋に籠るようになった理由は、【美鈴】にとってはこれから起こることなのだろうか。それなら一体、これから何が起こるというのか。

 沸きあがる疑問を振り払うように、頭から埃臭い布団を被る。しばらく潜るように眠っていたが、朝には布団を蹴飛ばして寝ていた。
しおりを挟む

処理中です...