冷蔵庫の奥で生きて

小城るか

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冷蔵庫に妹がいた

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 ____やっぱり夢じゃないだろ。

 耕哉は4分の1ほど減ったミネラルウォーターのボトルを横目に、鍋に味噌を溶かす。朝からこのことしか考えていない。お玉にとった味噌を菜箸で溶かしながら、ため息を鼻から吐き出した。

 夢にしては実感が強い。夢ならばすぐに忘れてしまうことがほとんどなのに、網膜に焼付いたかのように夢の光景が忘れられない。冷蔵庫の奥の、美鈴に似た笑顔。心臓にツタが生えたのではないだろうか。切り離せない違和感が耕哉を覆っていた。

 ミネラルウォーターをしまって、耕哉は盛大なため息をまた零した。

 コンロの隣の流し台には、トマトソースがこびり付いて固くなっている大皿がある。美鈴が昼食で使ったものだ。今日は美鈴の高校は創立記念日で休みだった。恐らくレトルトのナポリタンソースを使ったのだろう。水に浸しておかなければ洗うときに困るというのに、美鈴はそれすらしない。

 学校とバイトに行くとき以外は部屋に籠っているのなら、そもそも洗ってくれればいいのだ。しかし皿ぐらい洗ってよというたったそれだけの言葉を伝えるという考えすら、耕哉は欠片も持っていなかった。そう言って面倒なことになるくらいなら、大人しく皿を洗うほうがいい。

「もう無理だよ。私達」

 美鈴との会話は、別れ話が最後だ。

 昨年、耕哉が高校3年生で、美鈴が高校1年生の時のことだ。驚く暇も無いくらい、突然言い渡された。そもそも兄と妹が付き合うこと自体褒められたものではないと分かっていた。それでも、兄と妹だから別れたというわけでもなく、理由も無い突然の幕引きだったのだ。

 その所為でなおさら話しかけにくい。家庭内別居状態になってしまった今が、もはやいつも通りに塗り替えられていくのがひしひしと分かった。それに悲しいと思えなくなってしまった自分自身が、耕哉は一番悲しい。

「お兄ちゃん。音読聞いて」

 ボウルに卵を割り入れていると、冷蔵庫の前に信香が立っていた。一番下の妹だ。手には「音読ノート」と書かれた小さなノートがある。

 信香の通う小学校には、「高学年になるまでは、毎日音読を家族に聞いてもらわなければならない」という伝統がある。音読するのは古典文学の冒頭などで、覚えるのが結構難しい。見知らぬ言葉を読むだけならいいのだが、先生の前で暗唱しなければならないという、妙なルールが信樹の4年1組にはあった。

「味噌汁作りながらでもいい? さっき卵割っちゃったからさ」
「今日、玉子のお味噌汁?」

 信香はその場でぴょんぴょんと小さく飛び跳ねる。耕哉は小さく笑った。一昨日も溶き卵を入れた味噌汁だったのだが、妹可愛さについ同じものばかりを作ってしまう。

 文句を言う人はいなかった。父は食事の感想を述べるような人ではないし、美鈴は夜中に自分で作るから、耕哉の作った夕食はとらない。素直に褒めてくれる信香を率先して甘やかすのは、寧ろ当然だった。

「音読の賞状、あと判子2つで貰えるよ」

 担任の先生の前で10作品の冒頭部分を暗唱できると、学校集会で表彰してもらえる。10作品ともなるとさすがに厳しいのだが、信香は記憶力が良いのか8作品は空で読める。枕草子や方丈記などの暗唱は耕哉も小学生のときにやったものの、19歳になった今は最初の一文ぐらいしか思い出せない。

「賞状もらえるといいね」
「まぁね」

 うんではなく、まぁねと返事をする時の信香は機嫌が良い。

「お祝いはね、ケーキがいい」
「はいはい。チョコのでっかいケーキにしてあげるよ」

 味噌汁に溶き卵を流し入れる。最後の一滴まで流し込むと、「へーけものがたり」と明るく力強い声が聞こえてきた。10月の音読課題は平家物語だった。

 鍋の火を弱める。IHコンロのピッという機械音が響いた。

「こころもことばも、およばれ、ね。お兄ちゃんサイン!」
「お兄ちゃんはサインじゃありませーん」

 信香が差し出すボールペンを受け取り、五十嵐とノートのサイン欄に書き込む。ノートを受け取るなり信香は階段を駆け上って行った。

「あ、いってらっしゃい」

 小さくだが、階段から妹の声が耕哉の耳に入った。

 足音。信香よりは重いがどこか軽い足音。美鈴が2階から降りてきた音だと察した。2階にはトイレも洗面台もあるから、美鈴は家を出るときしか1階に降りてこない。

 鍋の火を止めて顔を上げた。

「こんな時間にどこ行くんだよ」

 キッチンから玄関は見えない。だからこそ不安になる。美鈴からの返答は無い。いつも通りだ。

 無視をすることにプライドを感じている挙句、いい年して皿洗いもしないような人間。妹がこんな風になってしまった理由が知りたいが、同時に呆れも感じていた。

 今年の正月にあった親戚の集まりも、仕事で忙しい父は来れなくて耕哉と信香だけで行った。授業参観も全て耕哉が行っている。

 美鈴が部屋に籠り始めてから、家族の思い出なんか欠片も無い。僅かにあったとしても、そこに美鈴の姿は無かった。

 皿に野菜炒めを盛り付けて、食器棚から茶碗を取り出す。どうしようもなく苛立ちが溢れて、茶碗のふちを掴む指が強張る。

「のぶー、もうすぐごはーん」

 少ししてから「はーい」と声が微かに聞こえた。

 冷蔵庫の奥から何か物音がしたが、もう気に留めることも面倒だった。

「美鈴みたいにはなるなよ」

 その日の夕飯のとき、苛立ちが消えない耕哉はできるだけ穏やかな口調で、信香に伝えた。その言葉は美鈴への当てつけや、行き場のない感情ゆえのヤケクソに酷く似ていた。

「似ないよ。似るわけないじゃん」
「でも」

 耕哉の言葉を遮るように、信香は箸を置いた。

「美鈴ちゃんとは本当の兄弟じゃないじゃん。似たくても似れないよ」
「……似たいの? あいつに」
「お兄ちゃんがそうやって突き放すからだよ。可哀想だよ」

 耕哉の質問には答えずに、信香は「ごちそうさま」と茶碗を持って立ちあがる。2階に駆け上がっていく信香は最近、背が急激に伸びた。それが耕哉を不安にさせていた。血が繋がっていなくとも、美鈴のようになってしまうんじゃないかと怖くなる。

 肉しか減っていない野菜炒めに箸をのばす。キャベツの欠片を口に放り込んで、今度はきくらげをつついた。

 母が美鈴の父と再婚して、耕哉と美鈴と信香は兄弟になった。最初はよかった。ドラマみたいな面倒なことにはならず、あの美鈴すらこれでもかというくらい優しかった。父親のいない寂しさや経済的な苦しみなど、今まで積もりに積もった暗い影は、一緒に暮らし始めたその日に全て消えた。とにかく幸せで、夕飯のオムライスの米粒ひとつでさえ愛おしく感じた。

 その頃の美鈴は、中学で学級委員長や体育祭の応援団長を務め、絵に描いたような優等生だった。明るくて優しく、顔立ちも綺麗な美鈴。耕哉はそんな完璧な妹がとても好きだった。もちろん、恋愛的な意味でも。

 だから、美鈴が入学したばかりの高校に急に行かなくなったことがかなり心配だった。美鈴は数日休んだ後また学校に通い始めたものの、家族とはまったく口をきかなくなった。友人もいるようだが一緒に遊ぶほど仲が良い友人はいないらしい。放課後はバイトに明け暮れ、21時ごろに帰ってまた部屋に籠る。高校2年生の今もその繰り返しだ。

「美鈴ちゃんはきっと、疲れちゃったの」

 昨年亡くなった母は、いつも美鈴をかばった。母は誰の敵でもなかった。誰の味方でもなかった。耕哉が公務員試験で受けたところ全てに落ちても責めず、美鈴が信香を無視し続けて泣かせても全く責めなかった。

 茶碗を重ね、立ち上がる。流し台に茶碗を置いた後、ラップを持ってリビングに戻った。もうすっかり冷めた野菜炒めと、にんじんだけ残った肉じゃがにラップをかけて、冷蔵庫まで持っていく。

 母は優しい人だった。優しさを擬人化したような人だった。耕哉が三歳の頃に出て行った元・父親のことを一回も責め立てたことが無い上、生活が苦しくても「その分、いつかの未来が幸せになるのよ」と明るく笑っていた。

 冷蔵庫を開け、野菜炒めと肉じゃがを置く。

 いつかの未来なんか、幸せにならない。過去にあったことが意地汚くしがみついてくるのだ。

 何故母に似なかったのだろうと、耕哉は1日に1回は考える。優しい母に似ていれば、美鈴に苛立つことも無かっただろう。勉強もあるのに家事も妹の面倒も全てやらなくちゃいけない。それなのに、アルバイトで金を稼いでいる美鈴の方が偉いという雰囲気が家に漂っている。誰も言わなくてもそれが分かってしまった。それにどうしようもなく腹が立って、美鈴さえいなければなんてことを考える日もあった。

 大事な妹だった。以前はキスもしていた女だった。それなのにこんな苛立ちを感じてしまう。そんな自分が情けなくもあった。

 今日何度目かも分からないため息を吐きだし、冷蔵庫を閉める。

「……ラーメン、ラーメン、深夜ラーメン」

 首を傾げるよりも速く、驚きが血液のように全身を巡る。

 所々音の外れた、ふざけた歌が耳を撫でた。ラーメンラーメンと繰り返す声は、やけに中毒性がある。

 耕哉は目を見開き、焦る手で冷蔵庫を開けた。ラーメンの歌は、確かに冷蔵庫の奥から聞こえたのだ。
 
「……あれ?」

 息を飲んだ。

 冷蔵庫の奥の女の子が、眉間に皺を寄せる。長い黒髪とはっきりとした二重。美鈴そっくりの、しかしそれでいてどこか幼い少女がいる。深夜に見た人と全く同じ顔だ。彼女はたまご片手にこちらを睨んでいた。

「あれ、え!? え!? お兄さん何でいるの!?」
「いやいやいや! こっちの台詞なんですけど!」
 
 ひどく驚いた彼女の大声に、耕哉は肩を震わせた。今の美鈴は肩くらいまでの茶髪だが、目の前の彼女は黒髪で胸の下までのロングヘアーだ。それでも驚いた顔は美鈴にそっくりで、それにも内心驚いた。何なんだ、やっぱり夢じゃないのか。

「もしかして夢じゃない感じ、ですか」
「夢じゃない感じ、ですね。俺も信じられないですけど」
「マジっすか!? うそぉ」

 女の子は取ってつけたような敬語を使う。出会った頃の美鈴とよく似ていて、懐かしさに唇を軽く噛んだ。

 女の子は現在中学2年生。耕哉が美鈴と初めて会ったのは、耕哉が高校1年生で美鈴が中学2年生のときの、9月だった。仮にこの女の子が美鈴だったら、耕哉とはまだ出会っていないことになる。

「ねぇねぇ。今、2000何年? 今日は何日で何曜日?」

 耕哉は思わず身を乗り出す。女の子は訝しげな顔をしたものの、置くタイプのカレンダーを手に取った。

「えっと、2014年の8月3……あ、4日。昨日はステーキワールドやったから、今日は金曜日、です」
「何時?」
「うーんと、夜の1時ぐらいだった気がします」

 耕哉は冷蔵庫横の壁に掛けてあるカレンダーに視線を移す。今日は10月1日。二か月も違う上、カレンダーには2018年と大きく記されている。それに、ステーキワールドという名前の子供向けアニメが放送していたのはもう何年も前。予想が確信に変わった。彼女は耕哉と出会う1ヶ月前を生きている。

「俺のところは今、2018年の10月。しかも20時。てことは、俺の家の冷蔵庫は過去に、きみの家の冷蔵庫は未来につながってるんじゃないかな」

 耕哉は裏返りそうな声を必死に抑えた。

 女の子は目を見開いたまま呆然としている。無理もない。家の冷蔵庫が未来と繋がってるなんてどんなファンタジー漫画だ。

「……すごくないですか」
「はい?」
「すごくないですか!? 未来人! お兄さん未来人!」
「その言い方やめようね?」

 女の子は身を乗り出し、目を輝かせる。一等星を閉じ込めたみたいにキラキラした瞳だ。

「そっちの世界は総理大臣誰ですか? あ、宝くじの当選番号教えてください! どうしよ、友達にお兄さんのこと言ってもいいですか? うわー! どうしよ!」
「え、えぇ……?」

 耕哉はなんと言葉を発して良いのか分からず、困ったように笑みを浮かべることしかできない。

「あっ、でも過去を変えるのは良くないみたいなのありますもんね。宝くじは気になるけど」
「まぁ。簡単なことなら教えるけど」
 
 耕哉の言葉に女の子は顔色をさらに明るくした。

「じゃあ名前! お互いの名前くらいいいですよね?」
「名前? 俺のも?」
「当たり前ですよ。フルネームフルネーム」

 女の子はトントンと軽く、冷蔵庫の縁を叩く。上の段に置いていたマーガリンが少し動いた。

「私は五十嵐です。五十嵐美鈴」
「……あはは」
「え、笑うとこじゃないんですけど?」

 ____やっぱり。

 耕哉は驚きよりも先に、理由も分からない安堵を感じた。

「お兄さんの番だよ。あ、ですよ」

 【美鈴】は高い声をまたひとつ高くして、耕哉に笑いかける。

 ここで馬鹿正直に名前を言ってはいけない。耕哉は本能的にそう察した。過去の美鈴が過去の自分に出会うときに、同じ名前だと面倒なことになるかもしれない。

 何よりも耕哉は、この過去の美鈴を妹としてではなく、ひとりの女として見たかった。

 未来の兄だと分からなければ、何故突然別れようと言ったのか、その理由を話してくれるかもしれない。それに部屋に籠ってしまった理由だって分かるかもしれない。
 
 ひとつの期待は声に乗って現れた。

「菊池。菊池、のぶ……き。菊池信樹」

 再婚する前の旧姓と、信香が生まれるとき、男の子だったらつけるはずだった名前を口に出す。

「何で変な間が開くんですか」
「いやその、最近改名してさ。前の名前言いかけちゃった」

 大変苦しい言い訳に【美鈴】は嫌な顔をするも、「よろしく」と口角を上げた。

 冷蔵庫越しにする会話は、冷気を吸い込んで全身が寒くなる。開けっ放しだから、今月の電気代も跳ね上がるだろう。

 【美鈴】は快活な少女だった。耕哉と初めて会ったときのように、よく笑ってよく口を尖らせる。表情豊かで、見ていると頬が緩んでしまう。

 【美鈴】は今の美鈴とは180度違う。今の美鈴なんか、髪を染めて化粧をして、誰とも口さえきかない。目の前の【美鈴】から、石のような今の美鈴を想像もできない。

 【美鈴】と他愛も無い話をしながら、耕哉は懐かしい匂いを感じた。冷蔵庫の冷たい匂いに交じっているのは、シャンプーの匂いだ。昔はよく抱きしめていた美鈴の香りは、しっかりと鼻に残る。

 これは夢じゃないと、耕哉に語りかけるようだった。
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