天魔の血脈

黒ひげの猫

文字の大きさ
9 / 20
王都断罪編①

ドラゴンを従える女

しおりを挟む
 口を開け、目を見開いたまま、誰一人として動けない。
 威圧による硬直ではなく、それは「常識」の崩壊がもたらした、純粋な困惑と畏怖だった。
 
「な、なにが……どうなってる……」
 
「天空の覇者が、あの女に……従っている……?」

 信じられない。
 信じられるはずがなかった。
 かつて人間界に災厄をもたらした伝説の怪物が、今まさに目の前で、一人の女性に全幅の信頼を寄せているなど。
 到底、現実の出来事とは思えなかった。
 そして、彼女はまるで咎める母親のように、そっとドラゴンの鼻先を指で突きながら微笑む。

「でもね、今日は争いに来たわけじゃないの。だから、人を食べちゃダメだよ」

 グゥルゥ……と唸るグリエス。
 女性の言葉に、ドラゴンは分かりやすくシュンと項垂れた。
 まるで叱られた子供のように首を縮こませ、視線を逸らす。
 それでも、彼女の一言で従順に大人しくなる様子は、誰の目にも「常識」を裏切る異様な光景で、見ているだけで人の思考を麻痺させるに十分だった。
 広場に集まった民衆もまた、恐怖と混乱の狭間で凍り付いていた。
 悲鳴を上げて逃げ出そうとした者もいたが、結局はその場から一歩も動けない。
 彼らの表情には、死の恐怖よりもむしろ「理解不能の光景に圧倒された人間の顔」が浮かんでいた。
 アドルフは苛立ちを覚えながらも、自身の胸中に芽生えるざらついた感覚を拭えなかった。
 額に汗がにじみ、呼吸は不自然に早まる。
 喉が渇き、声を張ろうとしても思うように力が入らない。
 理性は「ただの女だ」と繰り返すのに、感覚は抗えずにその存在へ縛りつけられていた。

 ――ゴクリ。

 静まり返った空気の中で、生唾を飲み込む微かな音が、アドルフの耳に届いた。
 反射的に顔を向けると、周囲の騎士たちはドラゴンの巨大な影には目もくれず、その足元に立つ“ひとりの女性”を、呆然と見つめていた。
 熱を帯びた視線が、ただ一点に吸い寄せられていく。

「……おい。何をしている。気を緩めるな!」

 アドルフが声を荒げると、騎士のひとりが慌てて振り返った。

「し、しかし……」

「たかが女一人に、何を浮かれて――」

 そこで言葉が途切れた。
 叱責の言葉を吐きながら、アドルフ自身もまた、その女性から目を離せなくなっていることに気づいたのだ。
 喉の奥が、無意識に鳴る。
 赤い髪が風に揺れ、陽光を反射して淡く煌めく。
 まるで彼女の周りだけが、別の世界に変わってしまったかのようだった。
 
「っ――――」

 両親の美点だけを受け継いだアドルフは、己の容姿に絶対の自信を持っていた。
 物心つく頃にはすでに女性たちにちやほやされ、同世代の誰よりも多くの異性と親しくなり、「美とは何か」を理解しているつもりでいた。

 ――少なくとも今日、彼女を見るまでは。

 その女性が視界に入った瞬間、アドルフの思考はまるで刃物で断ち切られたように止まった。
 美しい。
 だがその言葉では足りない。
 言葉という器に収まりきらない“異質の美”が、そこにはあった。
 腰まで届く髪は、燃え上がる炎をそのまま形にしたかのような鮮烈な赤。
 視線を向ければ、否応なしに奪われる。
 誰もが本能で「目を離してはならない」と悟る色だった。
 前髪の隙間から覗く大きな瞳は、溶けた金属のように深く、底知れない光を宿している。
 赤髪と金の瞳――その対比が、彼女の存在そのものを“絵画的な完成品”へと押し上げていた。
 通った鼻筋、形よく整った唇。
 すべてが均整を成し、まるで精巧な彫刻のようだ。
 黒のドレスに包まれた体は華奢でありながら、しなやかで、流れるようなラインが豊かな起伏とくびれを際立たせる。
 そして、腰元のスリットからのぞく脚。
 白磁の陶器を思わせる滑らかさは、一瞬見えただけで心臓を強く掴まれる。
 ただそこに存在しているだけで。周囲の空気を支配し、人々の意識を奪い、男たちの呼吸を忘れさせる。
 アドルフは悟った。

 ――次元が違う。

 自分が磨き上げてきた魅力など、この女の前では取るに足らない。
 美を理解しているつもりだった自分が、いかに浅かったかを思い知らされるほどに。
 処刑場の混乱も、ドラゴンの咆哮も、その一瞬だけかき消された。
 誰もが、ただ彼女に見とれ、息を呑んでいた。
 アドルフは胸の奥がざわめくのを感じた。
 そんな中、彼女はふと唇を開いた。
 その声は、冬の空気のように冷たく澄んでいた。
 
「ファウストを殺そうとしたのはお前か……アドルフ・フォルスター」

 その言葉と同時に、アドルフの喉元に冷たい刃が突きつけられたかのような、氷のように鋭い空気が場全体を包み込んだ。
 いや、刃は一つではない。
 彼女の放つ殺気は、まるで無数の剣が四方から突きつけられたかのように、広場の隅々まで一瞬で張り巡らされていく。
 空気が震え、皮膚が粟立つ。
 息を吸うだけで胸の奥が切り裂かれそうなほどの圧があった。
 騎士たちは一斉に青ざめ、動くことすらできない。
 アドルフでさえ、喉の奥が引きつり、呼吸を忘れる。
 ファウストが傷つけられた。
 その事実ひとつだけで、彼女の怒りは全方向へ向けられ、敵味方の区別なく、場にいる全員の首を落とさんばかりの殺意となって溢れ出していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。

カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。 だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、 ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。 国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。 そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜

深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。 処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。 なぜなら彼女は―― 前世で“トップインフルエンサー”だったから。 処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。 空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。 タイトルは―― 『断罪なう』。 王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。 すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、 国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。 そして宣言される、前代未聞のルール。 支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。 処刑台は舞台へ。 断罪はエンタメへ。 悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。 これは、 処刑されるはずだった悪役令嬢が、 “ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。 支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、 それとも――自由か。

触手エイリアンの交配実験〜研究者、被験体になる〜

桜井ベアトリクス
恋愛
異星で触手エイリアンを研究する科学者アヴァ。 唯一観察できていなかったのは、彼らの交配儀式。 上司の制止を振り切り、禁断の儀式を覗き見たアヴァは―― 交わる触手に、抑えきれない欲望を覚える。 「私も……私も交配したい」 太く長い触手が、体の奥深くまで侵入してくる。 研究者が、快楽の実験体になる夜。

「婚約破棄された転生令嬢ですが、王城のメイド五百人に慕われるメイド長になりました。なお元婚約者は私のメイドに土下座中です」

まさき
恋愛
社畜OLとして過労死した私は、異世界の令嬢・アリア・ヴェルナーに転生した。 目が覚めたら、婚約破棄されていた。 理由は「地味で面白みがない」から。 泣く暇もなかった。翌朝、王城のメイド採用面接に向かった。 最初は鼻で笑われた。雑用係からのスタートだった。 でも——前世で叩き込まれた仕事術と、一人ひとりの話を聞く姿勢で、少しずつメイドたちが集まってきた。 厨房が変わった。リネンが変わった。王城全体が変わっていった。 そして就任スピーチで宣言した。 「500人全員の名前を、覚えます」 冷酷と噂される王太子は、静かに見ていた。 悪役令嬢は妨害を仕掛けてきた。 元婚約者は——後悔し始めていた。 婚約破棄された令嬢が、500人に慕われるメイド長になるまでの物語。 なお元婚約者は、私のメイドたちの前で土下座中です。

処理中です...