犬の駅長

cassisband

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第1章

3.

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 なんでこんな目に遭わなければならないのだろう。白い天井を見つめながら思った。天井がやけに高く感じる。白を基調としたこの空間がいっそう心細く感じさせる。
 今頃はいつもと同じように、職場で仕事をしているはずだった。壁にかかった金縁に木目調の時計に目を向ける。長い針が短い針を追い越したところだった。もう十時近い。そういえば、同僚が週末は熱海温泉に旅行だと嬉しそうに言っていた。今頃、職場のみんなで土産の温泉まんじゅうでも食べているかもしれない。
 もうすぐ、連絡を受けた夫が血相を変えて、タクシーで病院に乗りつけるだろう。静岡の両親は、新幹線に乗り込んだくらいかもしれない。心配性の母親は大丈夫だろうか。泣いているに違いない。ベッドに身を委ねながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
 幸い早産に至るような結果にはならず、お腹の子供の命に別状はなかった。そう診断されたことで、沈みきっていた心はたちまち立ち直った。ただ、自分自身が負った傷と打撲に加えて、両足とも捻挫しており、全治二週間と診断された。こういうのを不幸中の幸いというのだろうか。
 ひとつ言えるのは、救急隊員にも言われたことだが、こうして病院まで冷静に導いてもらえたことは運が良かったのだろう。親切な女医が居合わせてくれたことが大きかったのだ。
 倒れてからは、下半身の痛みを下腹部のものだと思い違ったので、すうっと血の気が引いて意識が遠くなっていった。もしかすると、一瞬は意識を失っていたのかもしれない。そんな遠退く意識の端で、「俺のせいじゃないだろ」と吐き捨てるような若い男の声を聞いた。声の主は私を突き飛ばした相手に違いない。ひどく乱暴なぶつかり方だった。
 それでも、と思う。それが故意であったかどうかの判断は迷うところだ。何が気に障ったのか知らないが、わざと妊婦の自分にぶつかってきたようにも思えるし、男が突進してきた場所にたまたま自分がいただけのようにも解釈できる。
 だが、転倒の原因が自分にないことは確かだ。よそ見をしていたとか、足を踏み外したとかいうことが原因ではないと言い切れる。妊娠してから、とかくお腹が迫り出すようになってからは、人一倍足元には注意していたし、急がずゆっくりを心がけていた。
 夫が来たら何と言うだろうか。頭に血が上ったら手が付けられない。彼は、私とお腹の中の赤ちゃんを心の底から大切に思っている。家ではまともに家事をさせてもらえないほどだ。特に掃除・洗濯は今まで以上に手伝ってくれる。共働きなので、結婚当初、家事は分担しようと決めた。お互いの担当を分けたが、実際には、ほとんどを私がこなしてきた。偉そうに自分は九州男児だから亭主関白だと豪語することもあった。しかし、妊娠がわかってからは別人のように協力してくれるようになったのだ。できるのなら最初からやってほしいものだと悪態をついたけれど、素直に嬉しかった。
 彼はひょっとしたら警察に行こうと言うかもしれない。ベッドの上で思いを巡らせていると、病室のドアがノックされた。
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