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5.苛立ち
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まだ春がやってきたばかりだというのに、初夏のような陽気だ。その日、九州から母さんが東京にやってきた。母さんと会うのは、昨夏以来だ。母さんは、心配そうな顔で私を見る。
「思ったよりも、元気そうで良かった」
実家の小さな禅寺の住職の仕事だけでは食べていけないので、父さんは地元の大学で歴史学を教え、母さんは中学校の美術教師をしていた。母さんは六十歳で定年したが、父さんは定年が七十歳であり、寺の仕事もあるので今も忙しい。
「ちゃんと食べちょる?」
「何をするにも疲れるから、あまり食べられないんやけど、食欲自体はあるけん」
「何で病気になったんやろ?大学も大変なんやな」
「ストレスもあるかもしれんけど、よくわからん病気らしい。やけん、治療も対処療法しかないんよ。脳が勝手に右を向けと指令を出しちょるらしい。寝てるとき以外」
母さんがお茶を淹れて、テーブルに湯飲みを置く。
「あんた辛抱強いなあ」
「辛抱強いも何も、どうしようもできないやん。我慢するしかないもん」
「毎日暇やろ?」
「そうやな、本も読めんし、映画も観れん。音楽を聴くくらいやな」
「好きな読書も映画も観れんのは苦痛やわな」
私はレコードを一枚取り出して、プレイヤーにのせる。何度となく聴いたピアノの旋律が部屋に響く。
ポール・マッカートニーは歌う。
「レット・イット・ビー……あるがままに……」
母さんは朝から張り切って、朝食を作り、掃除機をかける。
文恵さんも「安心して留守をまかせられます」と仕事に出掛けて行った。
「歩、何か飲む?お茶?コーヒー?」
「両方もらおうかな」
「だと思った」
母さんは何でもお見通しだ。それが嫌で、高校と同時に上京したのも理由の一つにある。何だか監視されているような気がするのだ。朝のコーヒーは欠かせないし、日本茶も同様だ。母さんがコーヒーを入れている間、会話もなく、二人は黙ったままだった。
「親子で嗜好似ちょるよな。私も毎日、両方飲むけん。今は音楽聴くくらいしかできんのやろ?コーヒーの音楽もあるんよ」
母さんがコーヒーカップをテーブルに置きながら、話し始めた。
私はコーヒーを一口すする。
「コーヒールンバなら知っちょるけど」
「クラシックよ。バッハの『コーヒー・カンタータ』って曲。音楽くらいしか楽しみないんなら、たまにはクラシックも聴いてみれば」
「しかし、毎日、毎日食べて、寝ての繰り返し。何のために生きてるんかようわからん」
「当たり前」
「当たり前?」
「あんたは病人なんや。それが、当たり前やろ。病気を治すことだけ考えちょればいいんよ」
「完治するかもわからんし、仕事も気になるし、いつまで続くんかもわからんし。今はまだ大丈夫やけど、ずっとこんな感じやと、気が狂いそう」
私は寄りかかっていたソファのクッションを壁に投げつけた。
母さんは黙って聞いている。
急に自分が惨めになってきた。涙が目から溢れ出す。母さんの目の前で泣いたのは初めてかもしれない。祖父母が死んだときも、私は泣かなかったのに、涙が次から次へと頬を伝う。
「治療頑張ろう」
母さんはそれだけ言った。やはり、母さんは、いつだって何でもお見通しだ。そして、いつだって静かに私を包んでくれる。
「今日の夕飯何が食べたい?」
「何でもいいよ」
思いとは、逆にまたいつものように言葉はつっけんどんになってしまう。
母さんも全て理解したかのように、笑いながら、飲み終えたコーヒーカップをキッチンへ持っていく。それから、買い物へ出掛けていった。
私は浴室に向かった。右手を頭に添えながらシャワーを浴びる。普段なら、浴槽にゆっくり浸かり、本を読むのも楽しみの一つだった。
慣れない左手で髪を洗い流す。排水溝に長くなった髪が溜まっている。明日、髪を切ろう。
「思ったよりも、元気そうで良かった」
実家の小さな禅寺の住職の仕事だけでは食べていけないので、父さんは地元の大学で歴史学を教え、母さんは中学校の美術教師をしていた。母さんは六十歳で定年したが、父さんは定年が七十歳であり、寺の仕事もあるので今も忙しい。
「ちゃんと食べちょる?」
「何をするにも疲れるから、あまり食べられないんやけど、食欲自体はあるけん」
「何で病気になったんやろ?大学も大変なんやな」
「ストレスもあるかもしれんけど、よくわからん病気らしい。やけん、治療も対処療法しかないんよ。脳が勝手に右を向けと指令を出しちょるらしい。寝てるとき以外」
母さんがお茶を淹れて、テーブルに湯飲みを置く。
「あんた辛抱強いなあ」
「辛抱強いも何も、どうしようもできないやん。我慢するしかないもん」
「毎日暇やろ?」
「そうやな、本も読めんし、映画も観れん。音楽を聴くくらいやな」
「好きな読書も映画も観れんのは苦痛やわな」
私はレコードを一枚取り出して、プレイヤーにのせる。何度となく聴いたピアノの旋律が部屋に響く。
ポール・マッカートニーは歌う。
「レット・イット・ビー……あるがままに……」
母さんは朝から張り切って、朝食を作り、掃除機をかける。
文恵さんも「安心して留守をまかせられます」と仕事に出掛けて行った。
「歩、何か飲む?お茶?コーヒー?」
「両方もらおうかな」
「だと思った」
母さんは何でもお見通しだ。それが嫌で、高校と同時に上京したのも理由の一つにある。何だか監視されているような気がするのだ。朝のコーヒーは欠かせないし、日本茶も同様だ。母さんがコーヒーを入れている間、会話もなく、二人は黙ったままだった。
「親子で嗜好似ちょるよな。私も毎日、両方飲むけん。今は音楽聴くくらいしかできんのやろ?コーヒーの音楽もあるんよ」
母さんがコーヒーカップをテーブルに置きながら、話し始めた。
私はコーヒーを一口すする。
「コーヒールンバなら知っちょるけど」
「クラシックよ。バッハの『コーヒー・カンタータ』って曲。音楽くらいしか楽しみないんなら、たまにはクラシックも聴いてみれば」
「しかし、毎日、毎日食べて、寝ての繰り返し。何のために生きてるんかようわからん」
「当たり前」
「当たり前?」
「あんたは病人なんや。それが、当たり前やろ。病気を治すことだけ考えちょればいいんよ」
「完治するかもわからんし、仕事も気になるし、いつまで続くんかもわからんし。今はまだ大丈夫やけど、ずっとこんな感じやと、気が狂いそう」
私は寄りかかっていたソファのクッションを壁に投げつけた。
母さんは黙って聞いている。
急に自分が惨めになってきた。涙が目から溢れ出す。母さんの目の前で泣いたのは初めてかもしれない。祖父母が死んだときも、私は泣かなかったのに、涙が次から次へと頬を伝う。
「治療頑張ろう」
母さんはそれだけ言った。やはり、母さんは、いつだって何でもお見通しだ。そして、いつだって静かに私を包んでくれる。
「今日の夕飯何が食べたい?」
「何でもいいよ」
思いとは、逆にまたいつものように言葉はつっけんどんになってしまう。
母さんも全て理解したかのように、笑いながら、飲み終えたコーヒーカップをキッチンへ持っていく。それから、買い物へ出掛けていった。
私は浴室に向かった。右手を頭に添えながらシャワーを浴びる。普段なら、浴槽にゆっくり浸かり、本を読むのも楽しみの一つだった。
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