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4.音楽
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翌日も目を覚ますと、文恵さんが朝食を準備して、出勤するところだった。
「まだ、寝ていてもいいんだよ。もう起きる?」
学生時代は、いつまでも眠っておきたいくらい睡眠欲が強かった。寝坊して遅刻も多く、母親が高校に呼び出されていたくらいだ。さすがに社会人になってからは、遅刻はなくなったが、低血圧も手伝って朝は苦手だ。今だけは寝坊して、いつまでも布団に潜り込んでいても、誰にも咎められないのに、背徳感がある。基本的に何もできないわけだから、ゆっくり寝ていてもいいのだけれど、罪悪感が邪魔をする。
せめて規則正しく生活がしたかった。社会とのつながりはない。今は情報通信が発達しているので、孤独感を得にくい世の中になったというけれど、SNSなどもやる気がおきない。
ただ家にいるだけしかできないのだが、朝は早く起きて、夜も早く寝ることが今の自分の仕事なのだと言い聞かせていた。
今までは朝起きると、まず風呂に入ることが日課だった。低血圧のため、入浴することで目を覚ましていた。今は風呂に入ることにも労力を要する。
朝食を摂って、歯を磨きトイレを、済ませると、既に食器は片付けられていた。
妻は区立の図書館で、司書として働いている。毎日、七時半には自宅を出る。基本的に残業はない。
妻を送り出したあと、私にはやることがない。やることがない、というよりも、やれないといった方が正しい。眠っているとき以外、常に頭が右を向こうとする。右へ右へ頭部が引っ張られる。誰かが見えない糸をくいっ、くいっ、と引くように、頭が右へ向こうとする。何をしようとしても無駄だ。
来月から大学は新年度を迎えるため、授業やゼミの準備があるのだが、何も手がつけられない。だからといって、趣味である読書も映画鑑賞もやはり難しい。唯一、残された楽しみはベッドに横になりながら、音楽を聴くことくらいである。
音楽は文恵さんからのアドバイスだった。
「読書や映画鑑賞が難しければ、音楽はどうかな?小説や映画みたいに、音楽も人が作ったものでしょ?人が精魂込めて作り上げたものは、必ず作者の『気』のようなものが作品に宿ってるはずよ。ましてや名作と言われて、時の試練に耐えた作品であれば、その『気』は相当強いはず。もちろん、ただの気分転換としてでもいいけどね。モーツァルト効果って知らない?音楽療法っていうのかな。でも、それって自分の好きな音楽でいいらしいわよ。モーツァルトの曲ももちろんいいんだけど、音楽自体に効果があるの。つまり自分が好きな音楽を聴くことで満たされるらしいわ」
割と寡黙な文恵さんが一生懸命話す言葉は嬉しかったが、集中力が続かないのも事実だ。常に脳が右を向けと指令を出しているので、ただ横になっているだけでも、首が動こうとする。何とかベッドに枕を押さえつけて、頭を固定するしかない。それも長くは続けられない。だが、不思議なことに睡眠時は全く頭は右を向こうとしない。脳からの指令が遮断されるのだろう。
悪魔のような病気だと思う。私の身体に漂着した悪魔が、脳を操っている。医学が発達していない時代に、この病気に罹った人はきっと何かの祟りとか、何かに憑りつかれたとか言われていたのかもしれない。
無理をしてでも少しずつ、何かはやらねばならない。右を向いたまま、パソコンに向かう。幸田露伴の努力論についての研究をまとめていたので、その続きをパソコンに打ち込む。頭は働くので考えは思いつくのに、首が右に引っ張られる関係上、今度は反動で左側の首が痛んできて、すぐに中断せずにはいられない。人間努力だけではどうしようもないことを思い知った。
休憩しようと、ソファに座ったところで、スマートフォンが着信を告げる。おそらく母さんからだろう。最近、スマートフォンに変えたばかりの母さんは心配して毎日電話してくる。
「大丈夫?」心配が電話越しからでも伝わってくる。
「大丈夫じゃない」
私は自分でも情けなくなるような弱々しく、小さく、くわえて素っ気ない声を出す。
「ご飯食べちょる?」
「あまり」
「近かったら、すぐに飛んで行けるんやけどな」
「心配せんでもいいけん。もうなるようにしかならんのやし」
「昨日、お姉ちゃんとも話したんやけど、やっぱりあんたを東京に行かせたんが失敗やったかもしれん」
「はぁ?それは関係ねえやろ。こっちの生活だって、それなりに長いんやし」
「すぐそっちに行かんでもいいん?」
「日常生活は辛いけど、直接命に関わる病気やないけん」
「落ち着いたら、そっちに行くけんそれまで頑張ってな」
「わかった。ありがとう」
まだ、言いたいことはあったが、電話を切った。今は肉体的に辛いが、そのうち精神を病みそうな不安があった。頭はこんなにはっきりしているのに、身体がついていかない。いつか精神的にも壊れないかという恐怖があった。社会とのつながりがない。かといって、ソーシャルネットワーキングなどは苦手だ。電話の方が落ち着く。
食欲はあるのに、食事が喉を通過していかない。首のせいで、食道がうまく開かず、食べづらい。必然的に食べる量 は減る。食欲よりも、首の辛さの方が勝ってしまう。昨日、久しぶりに体重計に乗ってみた。体重が、三キロも減っている。二十代のころは、何も気にせずに食事もお酒も貪っていたが、頓にお腹が出てきた。今までは減らしたくても、むしろ増えるばかりだった。当たり前だが、人間食べなければ自然と痩せるのだ。
三月に休職届を出してから、職場の同僚からのお見舞いや学生からの励ましのメールをたくさんもらった。全力で尽くしてくれようとする家族もいる。今は治療に専念するしかない。
「まだ、寝ていてもいいんだよ。もう起きる?」
学生時代は、いつまでも眠っておきたいくらい睡眠欲が強かった。寝坊して遅刻も多く、母親が高校に呼び出されていたくらいだ。さすがに社会人になってからは、遅刻はなくなったが、低血圧も手伝って朝は苦手だ。今だけは寝坊して、いつまでも布団に潜り込んでいても、誰にも咎められないのに、背徳感がある。基本的に何もできないわけだから、ゆっくり寝ていてもいいのだけれど、罪悪感が邪魔をする。
せめて規則正しく生活がしたかった。社会とのつながりはない。今は情報通信が発達しているので、孤独感を得にくい世の中になったというけれど、SNSなどもやる気がおきない。
ただ家にいるだけしかできないのだが、朝は早く起きて、夜も早く寝ることが今の自分の仕事なのだと言い聞かせていた。
今までは朝起きると、まず風呂に入ることが日課だった。低血圧のため、入浴することで目を覚ましていた。今は風呂に入ることにも労力を要する。
朝食を摂って、歯を磨きトイレを、済ませると、既に食器は片付けられていた。
妻は区立の図書館で、司書として働いている。毎日、七時半には自宅を出る。基本的に残業はない。
妻を送り出したあと、私にはやることがない。やることがない、というよりも、やれないといった方が正しい。眠っているとき以外、常に頭が右を向こうとする。右へ右へ頭部が引っ張られる。誰かが見えない糸をくいっ、くいっ、と引くように、頭が右へ向こうとする。何をしようとしても無駄だ。
来月から大学は新年度を迎えるため、授業やゼミの準備があるのだが、何も手がつけられない。だからといって、趣味である読書も映画鑑賞もやはり難しい。唯一、残された楽しみはベッドに横になりながら、音楽を聴くことくらいである。
音楽は文恵さんからのアドバイスだった。
「読書や映画鑑賞が難しければ、音楽はどうかな?小説や映画みたいに、音楽も人が作ったものでしょ?人が精魂込めて作り上げたものは、必ず作者の『気』のようなものが作品に宿ってるはずよ。ましてや名作と言われて、時の試練に耐えた作品であれば、その『気』は相当強いはず。もちろん、ただの気分転換としてでもいいけどね。モーツァルト効果って知らない?音楽療法っていうのかな。でも、それって自分の好きな音楽でいいらしいわよ。モーツァルトの曲ももちろんいいんだけど、音楽自体に効果があるの。つまり自分が好きな音楽を聴くことで満たされるらしいわ」
割と寡黙な文恵さんが一生懸命話す言葉は嬉しかったが、集中力が続かないのも事実だ。常に脳が右を向けと指令を出しているので、ただ横になっているだけでも、首が動こうとする。何とかベッドに枕を押さえつけて、頭を固定するしかない。それも長くは続けられない。だが、不思議なことに睡眠時は全く頭は右を向こうとしない。脳からの指令が遮断されるのだろう。
悪魔のような病気だと思う。私の身体に漂着した悪魔が、脳を操っている。医学が発達していない時代に、この病気に罹った人はきっと何かの祟りとか、何かに憑りつかれたとか言われていたのかもしれない。
無理をしてでも少しずつ、何かはやらねばならない。右を向いたまま、パソコンに向かう。幸田露伴の努力論についての研究をまとめていたので、その続きをパソコンに打ち込む。頭は働くので考えは思いつくのに、首が右に引っ張られる関係上、今度は反動で左側の首が痛んできて、すぐに中断せずにはいられない。人間努力だけではどうしようもないことを思い知った。
休憩しようと、ソファに座ったところで、スマートフォンが着信を告げる。おそらく母さんからだろう。最近、スマートフォンに変えたばかりの母さんは心配して毎日電話してくる。
「大丈夫?」心配が電話越しからでも伝わってくる。
「大丈夫じゃない」
私は自分でも情けなくなるような弱々しく、小さく、くわえて素っ気ない声を出す。
「ご飯食べちょる?」
「あまり」
「近かったら、すぐに飛んで行けるんやけどな」
「心配せんでもいいけん。もうなるようにしかならんのやし」
「昨日、お姉ちゃんとも話したんやけど、やっぱりあんたを東京に行かせたんが失敗やったかもしれん」
「はぁ?それは関係ねえやろ。こっちの生活だって、それなりに長いんやし」
「すぐそっちに行かんでもいいん?」
「日常生活は辛いけど、直接命に関わる病気やないけん」
「落ち着いたら、そっちに行くけんそれまで頑張ってな」
「わかった。ありがとう」
まだ、言いたいことはあったが、電話を切った。今は肉体的に辛いが、そのうち精神を病みそうな不安があった。頭はこんなにはっきりしているのに、身体がついていかない。いつか精神的にも壊れないかという恐怖があった。社会とのつながりがない。かといって、ソーシャルネットワーキングなどは苦手だ。電話の方が落ち着く。
食欲はあるのに、食事が喉を通過していかない。首のせいで、食道がうまく開かず、食べづらい。必然的に食べる量 は減る。食欲よりも、首の辛さの方が勝ってしまう。昨日、久しぶりに体重計に乗ってみた。体重が、三キロも減っている。二十代のころは、何も気にせずに食事もお酒も貪っていたが、頓にお腹が出てきた。今までは減らしたくても、むしろ増えるばかりだった。当たり前だが、人間食べなければ自然と痩せるのだ。
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