乙女の涙と悪魔の声

あた

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取引

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****

 父と母が亡くなったのは、とある雨の日のことだった。二人はそろってレイチェルの誕生日プレゼントを買いに行っていた。こっそり出かけたつもりでも、レイチェルにはちゃんとわかっていた。

 その数時間後──両親は、死体になって帰ってきた。
 ──脱輪したせいで馬車が横転し、お二人とも下敷きになって……。助かった御者は、整備に不備はなかったと、半泣きで訴えた。

 レイチェルのプレゼントを買いにいかなければ、両親は死ななかったのではないだろうか。両親の死は、自分のせいなのではないか。
 そう思えてならなかった。

   だから、プレゼントを開けられなかった。プレゼントを開けたら、押さえつけていたかなしみが、吹き出してしまう気がしたから……。

 ****


 わん。
 犬の鳴き声に、レイチェルは目を開いた。ぼんやりとした視界に、黒い塊が見える。
「犬……?」
 黒い犬が、レイチェルを見上げて、しっぽを振っている。その瞳は、光の加減なのか、赤く見えた。毛並みのいい犬だ。血統書付きだろうか。

「悪魔って、犬なんか飼うのね」
 レイチェルはそう呟いて、犬の頭を撫でた。暖かい。じんわりと、心がゆるんだ。
 勝手に涙が零れ落ちて、慌ててぬぐう。泣いたりしたら、バアルが小瓶をもって現れるかもしれない。そしたら冷静に対処できない。物を投げつけて、わめき散らしてしまうだろう。

 でも、それもいいのかもしれない。だって、こんなことになったのは、彼のせいなのだから。
 ぺろり。湿った感触がした。犬が、レイチェルの涙を舐めとる。
「くすぐったい」
 レイチェルが身をよじると、犬の顎が膝の上に乗った。赤みがかった瞳がこちらを見ている。

「なぐさめてくれてるの?」
 微笑んで、レイチェルは犬の頭を撫でる。犬はぱたぱたしっぽを振った。
「いい子ね……」
 犬を抱きしめ、レイチェルは再び目を瞑った。


 ふわり、と身体が浮く感覚がした。なんだろう、暖かい。
「お父さま……?」
 開けようとした瞼に、掌をあてられた。つめたい、手だ。昔、泣きつかれて寝てしまったときに、父が抱きかかえてベッドまで連れて行ってくれた。
 きっと、夢を見ているんだろう。レイチェルはその手を握りしめて、震える声で言った。
「ごめんなさい」
 家を手放すことになってしまって。ルイスと結婚すれば、そうしなくて済んだのに。
 父は、何も答えなかった。


☆☆☆

 翌日、目覚めると、レイチェルは大きなベッドの上に寝かされていた。階段で寝ていたはずなのに。ここはホテル? 夢でも見ていたのだろうか。実は、ルイスに会いにいったところから夢だったりして。

 窓の外から、首を絞められたような声が聞こえてくる。なんだろう。猫が喧嘩でもしているのだろうか。レイチェルはベッドから降りて、カーテンを開けた。
 頭が二つある鳥が窓辺に停まっている。

 ぎょろっとした目がこちらを見た。と思ったら、狂ったように窓ガラスに向かって突進してくる。
 ギョエエエ!
 レイチェルはひい、と悲鳴をあげ、後ずさる。窓ガラスに魔法陣が浮かび、鳥を弾いて落下させた。

 ギョエエエ……
 鳥の鳴き声が遠ざかり、何かが地面に激突した音がしたあと、聞こえなくなった。
「……」
 レイチェルはカーテンを閉めて、ため息をついた。これは現実だ。ああ、全部夢だと思いたかったのに……

 部屋から出て、階段を下っていくと、何か香ばしいにおいがした。おなかが鳴りそうになり、慌てて押さえる。においのもとを辿っていくと、食堂と併設してあるキッチンにたどり着いた。

 そっと覗いてみると、流し台の前を、何かがぴょこぴょこ動いていた。くまのぬいぐるみのように見える。黒い翼と、しっぽが生えていた。なんだろう、あれは……

 レイチェルがじっと見ていると、それがくるりと振り向いた。もこもこした体に、翼が生えている。レイチェルと目が合うと、つぶらな瞳を開いて固まる。持っていた皿が落ちて、がしゃん、と音を立てた。

 レイチェルが「あの」と声をかけると、びくりと震えて後ずさった。さらに近づくと、ものすごい勢いで走っていき、戸棚にぶつかって、ころん、と転がった。
 ぶつけた頭を押さえ、悶絶している。

「だ、大丈夫……?」
 レイチェルが覗き込むと、子ぐまは慌てて起き上がり、キッチンを出て、たたた、と走り去った。ぽかんと見送っていたレイチェルは、ストーブの上で煮立っている鍋に気づき、慌ててかき混ぜる。鍋の中では、見たことのない魚が煮込まれていた。

「なんの魚かしら……」
 レイチェルは首を傾げたあと、そのかぐわしい匂いにごくりと唾をのむ。
「ちょ、ちょっとだけ……」
 杓子で煮汁をすくおうとしていると、背後から美声が聞こえた。
「つまみぐいか」

 振り向くと、バアルが立っていた。寝起きだからなのか、美しい黒髪が乱れて、赤い瞳が眠たげにゆるんでいる。彼の足には、さっきの子ぐまがしがみついていた。

「つまみぐいなんて、人聞きが悪いわ。ちょっと、味を見ようと思っただけで……。その熊、何?」
「バラムだ」
 レイチェルは昨日の犬を思い出す。
「あなた、動物が好きなの?」
「言っとくが、これは悪魔だ。君のことなんか一瞬で殺せる」
「嘘」

 レイチェルは驚いてバラムを見おろした。この子が悪魔? バラムはレイチェルと目が合うと、慌ててそらす。
「バラム、僕の足は安心毛布じゃないぞ。さっさと食事の支度をしろ」
 バアルがそう言うと、バラムは跳ねるように鍋のそばに飛んで行った。

「私も手伝うわ」
 そう言って近づいていくと、バラムがわたわたと逃げ出し、また戸棚にぶつかる。
 後頭部を押さえて丸まっているバラムを見下ろし、バアルはレイチェルに冷たく言った。
「およびじゃないそうだ。座ってろ」
 レイチェルはむっとして、
「あなたに命令されるいわれはないわ」

 しかし、レイチェルがそばにいては、バラムはずっとこんな調子だろう。それはかわいそうだ。おとなしく食堂に向かい、椅子に座ると、バラムが飛んできて、レイチェルの腕をぐいぐい引いた。

「え、何?」
「そこは僕の席だ」
 とバアル。
「あ、そうなの……ごめんね」
 そう言ってほほ笑みかけると、バラムはびくりとして腕を離し、またキッチンに走っていった。また何か落としたのか、ガシャン、という音がする。

 レイチェルが心配そうにそちらを見ていると、バアルが口を開く。
「人型でなければ『離せ』と言わないんだな。人間の男に暴力でも振るわれたのか?」
 ルイスのことを思い出し、レイチェルは唇をかんだ。
「暴力なんて、振るわれてないわ」

 なのにどうして、ルイスに対してこんなに嫌悪感を抱くのだろう。バアルはナプキンを広げながら、
「まあ、君が僕を嫌っていても別に構わない。取引をしないか? レイチェル」
「取引?」
 たたた、と足音がして、バラムが茶色い札と黒い札を上げる。
「え? なに?」
 バアルが籠に入ったパンを取りながら答えた。
「コーヒーか紅茶か聞きたいんだろう」
「じゃあ、紅茶をお願い」

 そう言うと、バラムはこくこくうなずいて、またキッチンに戻っていく。それを微笑ましく見ていると、「あれが気に入ったのか」と聞かれる。
「だってかわいいもの」
「かわいい?」
 バアルは解せない、という顔をしている。悪魔にはかわいいという感覚はないのだろうか。
 レイチェルは皮肉を込めて言う。
「あなたよりずっとね」

 バアルはレイチェルの言葉を気にも留めず、
「話の続きだ。僕には君の涙が必要で、君は元の世界に帰りたい。双方の要求があるのだから、お互いそれを叶えるよう努力すればいい。そう思わないか?」
「要するに、もとに戻れるようにしてやるから涙をよこせってこと?」
「いいだろ。減るものじゃないし、君はすぐに泣くし」
 昨日出会ったばかりなのに、なぜそんなことがわかるのだ、と思い、言い返す。
「泣いてないわ」
「泣いてた。昨日の夜も」

 多分、昨日彼がレイチェルをベッドまで運んだのだろう。礼を言う前に、羞恥が襲ってくる。
「寝顔を見たの? ひどい」
「あんなところで寝てるからだ」
 ふたりの間に険悪な空気が流れた。

 カチャカチャカチャ、という音がして、バラムが茶器の乗った盆を運んできた。バアルの側にカップを置いたあと、レイチェルのほうに来て、カップを差し出した。
「ありがとう、バラム」
 レイチェルはカップを受け取り、こく、と飲む。バラムはお盆を抱きしめ、バアルとレイチェルをそわそわ見比べている。

「大丈夫よ、喧嘩してるわけじゃないわ」
 そう言ったら、うなずいて、たたた、とキッチンに戻って行った。
 コーヒーを飲んでいたバアルが口を開く。
「で、どうする?」

 悪魔と取引してはいけない。教会で受けた講義を思い出したが、皮肉なことに、今頼れるのは神ではなく、悪魔だ。何せここは、悪魔の街らしいから。

「……他に選択肢はないのね」
 レイチェルが了承すると、バアルが満足そうにうなずいた。
「賢明だ」
 そう言ってカップを差し出してきたので、レイチェルは仕方なく自分のカップを持ち上げる。かちゃん、と陶器がぶつかり合う音がした。

「よろしく、レイチェル」
 悪魔は美しい声で、そう言った。
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