乙女の涙と悪魔の声

あた

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悪魔

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 なに、この、声。くらりとめまいがするような美声だった。レイチェルが黙っていると、
「誰だって聞いてるんだ。答えろ」

 彼は他人に命令しなれているようだった。しかし、レイチェルに従ういわれはない。警戒心を抱きながら答える。
「レイチェル・キーズよ。あなたこそ誰なの」
「バアル」
 そう言って、彼は指を伸ばしてきた。レイチェルがびくりとして後退ると、「動くな」と言う。

 指先が、レイチェルの髪をかき上げた。ルイスとのやりとりを思い出し、レイチェルは泣きたくなった。
 私に触らないで。触っていいなんて言ってないわ。

「人間?」
 バアルはじっとレイチェルの耳を見ている。
「見たら、わかるでしょう」
「どういうことだ?」
 レイチェルの髪から手を離し、彼は椅子の背にもたれる。じっとこちらを見る瞳は血のような赤だ。褐色の目ならよくいるが、こんな瞳は見たことがない。まるで、兎のようだ。

 アルビノか何かなんだろうか。でも、髪の毛は闇のように黒い。人間離れした美貌、この人は──なに?

 バアルは指先で、椅子の肘置きをとんとん、と叩く。
「綴りを間違えたのか?」
「綴りって、何? ここはどこ?」
 レイチェルの質問には答えずに、バアルが立ち上がった。レイチェルはおびえた目で彼を見上げる。

「立って」
 立ちたいのはやまやまだったが、腰が抜けていた。蛇に地中へ引きずり込まれたと思ったら、知らない男のところに連れてこられたのだ。思考も身体もついていけていない。

 バアルはため息をついて、レイチェルの腕に手を伸ばした。またもや、ルイスとのやり取りがフラッシュバックする。
「触らないで!」
 バアルは真っ赤な瞳を瞬いて、手を止めた。

「何もしない。君の下にある魔法陣の綴りを見たいんだ」
 レイチェルは何とか足を動かし、震えながら立ち上がった。そのまま急いでバアルから離れ、カーテンの陰に隠れる。バアルは怪訝な顔でレイチェルを見て、チョークで書かれた魔法陣を目でなぞる。しゃがみ込んで、指先でこつ、と床をたたいた。

「ああ……ここを間違えたんだ。レラージェを呼び出すはずだったのに、レイチェルになってる。僕としたことが」
 なんだか知らないが、普通そんな間違え方をするだろうか。彼は魔法陣の一部を足で消して、チョークを持った。
「leraje」
 そう書き直し、レイチェルに視線を向ける。

 うさぎのような真っ赤な目に、レイチェルはびくりとした。
「な、なに」
「こっちに来て」
「なんで、っ」
 一瞬でバアルが目前に来たので、レイチェルは悲鳴を上げた。彼の背中から、ばさり、と漆黒の羽が現れる。なに、なんなの、これは。

 教会の壁画に描かれた聖戦の場面を思い出す。天使に撃ち落とされる、漆黒の翼を持った生き物。その名は──

「あなた、悪魔!?」
 バアルは答えずに、
「君を間違って呼び出したせいで、生贄が無駄になった。代わりをしてもらう」
 そう言って腕を伸ばしてくる。
「いやっ」

 レイチェルはカーテンを引きちぎって、バアルに投げつけた。逃げるため、窓を開けようと手をかけるが、その手を押さえつけられる。
「離して」
「どうせもう人間界には帰れない。観念しろ」

 ものすごく重要なことを聞いた気がしたが、パニックになっているレイチェルは聞き返す余裕もなく、ひたすら抵抗した。
「離して!」
 レイチェルはポケットに手を入れて、それをバアルに突き付けた。ふらふら揺れる十字架を、赤い目がじっと見ている。

「それは、なんのつもり?」
「じゅ、十字架よ、滅びなさい、悪魔!」
「そんなもの効かない」
 十字架を奪い取られ、レイチェルは悲鳴を上げる。
「うそっ」
 かしゃん、と地面に落ちた十字架を見て、レイチェルは絶望的な気分を味わう。男の人に力でかなうはずもない。しかも、相手は人間じゃない。

 こんなところで死ぬなんて。ここがどこだかわからないけど。
 死ぬときは家族に囲まれて、安らかにいきたいと思っていたのに。どうしてこんな目に合うんだろう。何も悪いことなんてしてないのに。

「いや……お願い、やめて」
 レイチェルの瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。すると、バアルが胸元から小瓶を取り出す。なんだろう、あれは。レイチェルを殺すための毒だろうか?
「殺さないで」
「誰が殺すって言った?」
「え」
「もう少し」

 バアルの指先が、レイチェルの目じりに触れる。びくりと震えたせいで、また涙が零れ落ちた。指先を伝って、一粒一粒、小瓶の中に落ちていく。
「あの」
「よし」

 瓶にたまった涙を持って、バアルは魔法陣に向かう。涙を一滴垂らすと、魔法陣が発光し始めた。レイチェルはあっ、と言う。あの光は、レイチェルが地面に引きずり込まれた時に見たものと一緒だ。

 発光している魔法陣に向かって、バアルが手をかざした。そうして、美しい声で唱える。
「我が名はバアル。ソロモン七十二柱における序列一位および指輪を所有するものの権限により、汝を召喚する。いでよ、レラージェ」

 発光している魔法陣から、ずずず、と何かが出てくる。蛇に絡みつかれた、弓矢を持った小人だ。キーキーと耳障りな声で言う。
「てめー、なんのつもりだ、悪魔のくせに、悪魔を召喚するなんて!」
 レラージェのことばに、ああ、やっぱり悪魔なのか、と思うレイチェル。

「悪魔だから召喚できるんだ」
 バアルはそう言って、小さな本を開き、レラージェに向かって指を突きつける。
「げっ、それは!」
 バアルの指には、赤い石をはめ込んだ指輪が光っていた。それを見て、レラージェが顔をひきつらせた。

「汝の名はレラージェ。序列は第十四位。封印の言葉は『Sagittariusサジタリウス』」
 そう唱えると、バアルの指にはまった指輪が光りだした。
「やめろお、せっかく自由を謳歌してたのに……!」

 レラージュは悲鳴を上げながら、指輪の中に吸い込まれていく。レイチェルは今の状況すら忘れて、その悲鳴すら、後には残らない。その光景に目を奪われた。すごい──まるで、神話の一ページのようだ。

 バアルはぱたん、と本を閉じ、レイチェルの方に振り向いた。レイチェルはびくりとして、引きちぎってしまったせいで用をなさないカーテンから出た。たたた、と走り、もう片方残ったカーテンにくるまる。

 足音が近づいてきて、どくどくと心臓が鳴る。視界の端に、バアルの革靴が映った。磨かれた靴を見ながら、レイチェルは思う。どういうつもりだろう、悪魔のくせに、こんないい靴を履いて。

 すぐ近くで、美声が聞こえた。
「隠れても足が見えてる」
 レイチェルはカーテンから顔を覗かせ、バアルをにらんだ。
「わ、私を殺すの」
「誰が殺すって言った?」 

 バアルはそう言って、レイチェルがくるまっているカーテンを引く。カーテンごと、レイチェルの身体が引き寄せられた。びくりとすると、
「君の言う通り、触ってない」
 確かに、彼の手はカーテンにしか触れていなかった。間近にある端正な顔立ちから目をそらしつつ、
「さっき、殺そうとしてたし、髪に触ったわ」
 そう見えたなら謝る。と彼は言う。 

「さっきは僕も動揺していた。予定が狂ったから」
 レイチェルはちらりと魔法陣を見た。
「間違えて、私を召喚、したの?」
「そう」
「じゃあ、私を元いた場所に帰して」
「それはできない」

「どうして、呼んだなら帰すこともできるでしょう?」
 バアルはカーテンから手を離し、こちら側に指輪を向けた。ルビーだろうか、この赤い石は。
「これは、ソロモンの指輪」
「……ソロモン?」
「僕のたった一人の主」
 悪魔に主がいるのか、とレイチェルは驚く。しかし、美しい指輪だ。ルビーではないし、なんの石なのだろう。まじまじと見ていると、バアルがすっと手を引いた。

「あまり見ないほうがいい。人間の欲をあおるらしいから」
 レイチェルはさっきの光景を思い出した。きれいに見えても、あんなことができる指輪なのだ。きっと、扱いも注意しなければならないんだろう。
「怖い指輪なのね」
 バアルがうなずく。
「そう。悪魔を封印できるんだから怖いに決まってる」
「どうして、悪魔の封印を悪魔のあなたが?」
「悪魔だからできるんだ」
 バアルはそう言って、魔法陣を指さす。

「僕はある理由で、七十二体の悪魔をこの指輪に封印しなきゃならない。だから悪魔を呼び出すために、魔法陣の書き方を覚えた。だけど、呼び出し方は書いてあっても、戻す方法が書いてある本なんてない。なんにしろ封印するだけなんだから、必要ないかと思ってたし」
 レイチェルは、黙って自身を指さした。すると、「ああ、君のことは想定外なんだ」と返ってくる。
「これからは、スペルミスがないように注意する」
「ええ、そうね……じゃなくて!」
 レイチェルはカーテンから出て、拳を握る。 

「それじゃ困るわ! ここがどこだか知らないけど、私はロンドンに帰りたいの!」
「ここはバビロン。悪魔の街」
「悪魔の街?」
 バアルは窓の外を指さした。レイチェルはつられて外に目をやり、ぎょっとする。揺れるカーテンの向こう、まるで巨大な巻貝のような、無数の階段を有した塔が立っていた。

 雲を突き抜けるように高いその塔の周りを、翼の生えた生き物たちが飛び交っている。
「な、なに、あれ」
「バベルの塔。このバビロンには今悪魔しか住んでないが、以前は人間たちもいて、あの塔をせっせと作っていた。だけどある日急にどこかへ行って──それからは悪魔の天下だ」
「な……」
 なんてことだ。聖書に乗っているあのバベルの塔?

「この街は君たちの世界では認識されてない。ロンドンだっけ? それがある世界とは、別次元なんだ」
 バアルが丸めた地図を持ってきて、広げてみせた。いくつもの階層が、一枚の図面に描かれている。一番上を指差し、
「ここが天界。行ったことはないが、神や天使がいるらしい」
 その下を指差し、
「ここが君たちの住む世界」
 さらに下を指差し、
「ここがバビロン。バビロンよりも下は地獄」
「悪魔は地獄にいるんじゃないの……?」
「悪魔はどこにでもいる。君たちが気づいてないだけで、人間界にもいるはずだ。魔の力によってどこにでもいける」

 レイチェルはぎゅっとカーテンを握りしめた。よくわからないが、ここはロンドンではない。あんな塔、見たことがないからだ。
「わ……私は帰れないの?」
「まあ、そうなるな」
 あっさり頷いたバアルを見て、目の前が真っ暗になった。レイチェルが俯くと、バアルがさっと小瓶を取り出す。

「……なに?」
「泣くのかと思って」
 しれっと言うバアルに、レイチェルは唇を震わせた。
「さっきも涙を集めてたわね。人が泣いてるっていうのに、この悪魔!」
「乙女の涙は悪魔を呼び出すのに最適な贄だ。これからは苦労して集めなくて済む。君はすぐ泣きそうだし」
「勝手なこと言わないで!」

 レイチェルはかっとなってバアルを睨み付けた。彼は目を瞬く。
「どうしてそんなに怒ってるんだ? 歓迎してるのに」
 ──どうして? そっちこそ悪いと思わないの? ああ、思うわけないか、悪魔だし……
「自分で帰る方法を見つけるわ! じゃあ!」
 そう言って歩き出すと、バアルが一瞬で目の前に移動した。これ、やめてほしい。心臓に悪いのだ。

「どいて」
「やめたほうがいい。外は危ない」
「放っておいて、悪魔は人間のことなんてどうでもいいんでしょう」

 レイチェルはバアルの体をさけ、部屋を出た。右手に二階へと続く、階段が見える。左手には玄関がみえた。廊下を歩いていき、ドアを開けて、外に出た。

 その瞬間、眼に飛び込んできた光景を見て、レイチェルは息を飲んで立ち止まった。

 見たことのない生き物たちが、往来を闊歩していたのだ。ライオン頭で身体は人の生き物、異常にとがった歯を持つ魚類、目がたくさんあるウサギ、足だけが見えている何か巨大な生き物……

 ドアを開けたまま固まっているレイチェルに、ばっと視線が集まった。彼らはレイチェルを見て、ざわざわと騒ぐ。
「人間?」
「人間だ」
「美味そうだな」

「っっっ」
 レイチェルはびくりとして、思い切りドアを閉めた。冷汗が止まらない。あれが、バビロンを支配している悪魔たち。いや、見た目がああなだけで、危険とは限らない。だけど確かに、美味そうだな、と言われた──。

「……」
 外に出る勇気が風船のようにしぼんでいく。
 打ちひしがれた表情で先ほどの部屋に戻ると、バアルが椅子に座って本を読んでいた。ページをめくり、レイチェルを見もせずに尋ねる。
「どうだった?」

 何を他人事みたいに言ってるの。あなたのせいでしょう。悪魔にそんなことをいうのは不毛だと思ったので、レイチェルは黙っていた。涙がこぼれ落ちそうになるのを、ぐっと我慢する。泣いたって、この悪魔を喜ばせるだけだ。

「何か、すぐに戻らなきゃならない理由でも?」
 バアルの問いに、レイチェルはふいを突かれた。
 戻らなきゃならない理由――そんなものはない。例え戻れたとしても、ルイスはレイチェルを訴えるというだろうし、もしかしたらもう訴えているかもしれない。父と母ももういない。家もない。
 レイチェルに帰るところはない。だからって、こんなところにはいたくない。

「レイチェル?」
 こちらを見ている赤い瞳から目をそらす。
「……あの悪魔たち、中に入ってこない?」
「ああ。結界が貼ってあるから安心して。二階にゲストルームがあるからどうぞ」

 安心といっても、一つ屋根の下に悪魔がいるわけだが。
「よかった。安心して寝られるわ」
 レイチェルは少し皮肉っぽくそう言って、踵を返した。
 悪魔の美しい声は、追ってこなかった。


 レイチェルは階段の途中に座り込み、膝を抱えた。
 何か嫌なことがあったとき、レイチェルはいつも階段で蹲っていた。そうすると、父さんや母さんが後ろから抱きしめてくれたものだ。あの階段はもうレイチェルのものじゃないし、抱きしめてくれる腕はない。

「何でこんなことになったのかしら」
 レイチェルはぽつりと呟いた。
 名前が悪かったのだろうか? レイチェル・キーズ。別に珍しくもない名前なのに。同じ名前の人間が、他にもいそうなのに。どうしてレイチェルが召喚されてしまったのだろう。運が悪かったから?
 悪魔に呼ばれるような、負の心を持っていたから? ルイスを拒絶した自分を思い返す。

「改名、しようかな」
 もし戻れたらそうしよう。戻れなかったら──いや、そんなことを考えたらだめだ。ぶんぶん首を振って、レイチェルは目を閉じた。
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